第六章 空蝉橋の乱闘
1
その日は一学期の終業式だった。待ち望んでいた夏休みの始まりで気持ちは高ぶっていた。そんなそぶりを見せていないようなやつも多い。「学校があるほうが退屈しない」などと信じられないことを言う輩もいる。わたしにとっては一年間で最高に楽しい瞬間だった。一学期の成績なんてどうでもいい。ふつう程度の勉強すれば問題ない。気になるのは通信簿に書かれた担任からの一言だったが、そんなことは夏休みが始まろうとしている有り余る自由で膨大な時間の前にはどうでもいいことだった。
手始めにその日は健ちゃんの家で泊まり込むことにしていた。母親は反対したが健ちゃんの父親からの直接のお願いもあり外泊が可能になった。健ちゃんの父親は一週間の出張で、監視役を兼ねた遊び相手としてわたしが必要だったのだ。もろもろは近くに嫁いでいる姉の珠恵さんが面倒をみてくれる。夕食の準備をしたあと珠恵さんは帰る。今晩はわたしが泊まることになったので二人分の夕食を用意しておいてくれているはずだ。健ちゃん宅での夕食の前に、みんなと午後に空蝉橋で遊ぶ約束をしていた。
「崖崩れってそんなにひどかったの?」久美ちゃんが聞いた。
「ああ、応急工事をしただけで、まだそのままだからいい遊び場になってるんだ」
その日は終業式の後、橋の遊び場を見せようと林久美子にも声をかけて連れてきていた。
「たのしみね。ほかに誰か遊びに来るの?」
「うん、住友と、クジラが行ってると思う」
「いつものメンバーか。仲がいいのね」久美ちゃんが退屈そうに言った。
「それに、ものすごい宝物もある」気がとがめたが久美ちゃんの気を引くため秘密を漏らしてしまった。
「宝物って?」
「ああ、ブリキ缶に遊び道具がいっぱいさ」
「ブリキ缶に?」
「だから、この夏休みはここでどんどん遊ぼうよ。崖の修復が本格的に始まったらそれまでだけどね」わたしは得意げに言った。
「つかの間の楽しみってっわけね」
「夏休みは明日から、長いんだ。それに工事はなかなか始まりそうもないしいっぱい遊べるよ」
「今年の夏休みは、短いかも」
「なんで?この猛暑なのに」
「ははは、そうじゃなくて」久美ちゃんは思わせぶりに笑いながら言った。区民プールから右に折れると崖崩れ現場が見えてきた。
「だから、どうして」
「忙しくなりそうだし」久美ちゃんが言いかけたとき、クジラが息を切らして崖の下から重力に反して駆け上がってきた。足の回転は忙しいのになかなか近づいて来ない。
「おい、全部なくなってる、おまえどこかに移したのか!」クジラは相当慌てていた。久美ちゃんの存在も駈けてきたときに野球帽を風で飛ばされたことも気がつかなかったようだった。
「なんのことだよ」
「だから、オレたちの宝のことだよ、何処か他に隠したとか」
「いや、なにもしてない」
「なんてこった!」クジラは目を丸くした後、眉間にしわを寄せそして肩を落とした。
「住友は?」わたしは聞いた。
「下にいるよ、橋の下の隠し場所に」
「久美ちゃん、ここで待って、見てくる」そう言って、わたしは滑らないように腰を落として注意深く崖を降りた。クジラも後からついてきた。住友が顔をしわくちゃにし生活指導の先生のように腰に手を当て考え込んでいた。
「おう、大変なことになってるよ」わたしを見つけると住友が言った。
「なくなってるって、ブリキ缶ごと、全部?」
「じゅん、おまえ、隠してないような」疑り深く念を押した。
わたしたちが掘った縦穴の中は空だった、それにゴミが入れられている。おまけに水か小便がかけられたような後がある。
「まだ、濡れている、犯人は近くにいるはずだ」刑事のような口調で住友が言った。
「どうする」
「探そう」
「どうやって」
「この場所はオレたちしか知らないはずだよな」
「ああ、でも豊島小学校の奴らは昨日も来てたし」
「探し出したのかもしれない」
「奴らに決まっている」わたしたちはたぶん同じことを考えていた。
2
わたしたちが義憤に駆られて、犯人探しに出かけようと立ち上がり橋の上を見ると豊島小学校の連中が四、五人が柵にひじをつきながらこちらを見下ろしてていた。ニヤニヤしているやつもいる。
「あいつら」住友はうなるように言った。
彼らは楽しげにわたしたちがあわてて右往左往しているのを見物していた。犯人は奴らに違いないと確信した。ともかく、わたしたちは線路から崖を息を切らしながら登った。そこでわたしは信じられない光景を見た。富田がいた。富田が豊島小学校の連中と一緒だった。わたしたちを見て静かに笑っていた。
「おい住友、見たか?」
「ああ、あいつが教えたんだ」
「こすいやつだ」
「富田のヤロー許せない、ぶっ殺してやる」住友が一番興奮していた。
住友が最初に上までたどり着き、橋の欄干にたむろしている奴らに向かった。
「おい、おまえら話がある、こっちに来いよ」住友が興奮しながら小川に声をかけた。わたしも住友に続いた。そしてクジラが最後に上がってきた。
「なんか文句あるのかい、おにいちゃん」一番体のでかい小川が橋から崖上の方まで降りてきた。
「富田、出てこい!」住友が言った。
「卑怯だぞ、おまえのやったこと言って見ろ」わたしも応酬した。
「汚いやつだ、出て来いよ」クジラも思いっきり大きな声を振り絞るようにして叫んだ。
富田は薄笑いを浮かべて前に出た。
「おう、みなさん、段ボール滑りの調子はどうかな?」
「ふざけるなよ、オレたちの隠したもの何処にやったんだよ」
「何のことだかぜんぜんわからないよ」富田が小川の方を向いていった。
「おまえたち人のものかすめようなんて、泥棒よりたち悪いぞ」小川が言った。
「ともかく、富田と話がある、こっちへ渡せよ」
「どうする、富田?」小川が富田に聞いた。
「あいつらとは遊びたくない」
「やだってよ」
「てめーらふざけんなよ、盗んだもの全部返せよ」ついに住友がぶち切れた。
「おまえらこそ、くすねたもの出せよ。万年筆、時計、何処やたんだよ」富田が言った。
「汚い奴らだ。盗んだやつ出てこい」わたしはありったけの声で叫んだ。
「盗んだやつ出ろってよ」
「何のことだかさっぱりわからねえ」彼らは口々にはぐらかすような口調で絡んできた。
「うるせーな、テメーらやる気だな」住友が言い、殴りかかろうとして一歩前進したとき、グループのうしろから中学生の深沢が出てきた。わたしが殴られたとき居たやつだ。あいつが出てきたら絶対かなわないと思った。
「てめえら、なにぐずぐずいってんだ!早くおうちにかえってお母ちゃんのオッパイでも吸ってろ」甲高いが迫力のある声で深沢が言った。
「なんだよ、よけいなやつはひっこんでろ」住友はヤツの恐ろしさを知らないのだ。中学生に大きな口を利いてしまった。
「何もたもたしてるんだ、やるならかかって来い」
「やらないなら早く帰りな」次々に挑発してきた。
住友は、わたしに小声で「健ちゃんに電話して来てもらえ」と耳打ちした。 わたしは何も返事せず、急いで近くの電話ボックスに向かってかけだした。電話ボックスの前に来てポケットに十円玉がないのに気が付いた。後ろを振り返ると久美ちゃんがいた。
「どうしたの、じゅんちゃん」
「うん、ちょっと」
「喧嘩になりそうなの?」
「うん、久美ちゃん十円玉持ってる?」
「あるわよ、けどじゅんちゃん聞いてよ」そう言いながら財布から十円玉を一つ取り出してわたしに渡してくれた。
「ありがとう」わたしは公衆電話ボックスのドアを開いた。
健ちゃんの家の電話番号を何とか思い出し、誰かが異様な力でたたいて楕円に変形しているダイヤルを急いで回した。電話機が壊れていないことと健ちゃんが在宅していることを祈った。健ちゃんは正月のたこ揚げで糸がからまって豊島小学校の連中と喧嘩したときも勝ったことがある。応援にきてくれれば百人力だ。宝物も取り返してくれるだろう。息が切れていて苦しかった。どきどきしながら電話に反応があるのを待った。コール音が数回あったがなかなか応答がない。電話番号が違っていたのだろうか。諦めようとした瞬間、女の声が応答した。
「はい、福井です」姉の珠恵さんに違いなかった。
「木村潤ですけど、健ちゃんいますか」いつもとは違う早口で言った。
「あら、じゅんちゃん、今晩来るのよね、カレーライスを作っておいたからね。ご飯もあるからかけて食べるだけになってるわよ」いつものわたしの体を全体に包むような優しくこもった声だった。大好物のカレーライスだったが、そんな珠恵さんの言葉がまどろっこしく思った。わたしにとって一番の関心時は、健ちゃんが居るのか居ないのかだ。それだけを応えてくれればいい。続けて珠恵さんが話そうとするのを遮って「すいません、健ちゃんお願いします」わたしはぶっきらぼうに言った。珠恵さんの夕食の話に反応する余裕はなかった。
「ちょっとまってね」珠恵さんが健ちゃんを呼ぶ声が電話口にも聞こえた。「よかった、家にいるんだ」ほっとしたけれど健ちゃんが電話口にでるまでが数時間に感じられた。
「おう、なにしてるの」健ちゃんの声はわたしを勇気百倍にさせた。
「豊島小学校の奴らと喧嘩になりそうなんだ、すぐ来てよ」
「よくやるよ」
「中学生もいるんだ、奴ら泥棒なんだ」
「カツアゲか?」
「まあ、そんなとこ」
「場所は?」
「イッセンバシ」
「まってろ、すぐ行く」
電話を切った後ふりかえると、久美ちゃんが心配そうにわたしを見ていた。
「十円、明日返すから」
「そんなのいいけど、宝物盗まれたってどうゆうこと?」
「久美ちゃん、今日の遊びは中止だ。ごめん、うちに帰っててくれ」
「そんな」
「じゃあ、オレ行くから」
「ちょっとそんなのないでしょ」
「ともかく今日は家に帰ってよ」
「なによ。人の話聞かないんだから」
久美ちゃんの不満げな声を聞き流してわたしは現場に急いだ。わたしが戻ると話し合いはこじれているのはすぐわかった。健ちゃんがここまで来るのにかけだしてきて五分、自転車で三分と言うところだろうか。それまでは何とか持ちこたえなければとわたしは思った。
「言いがかりをつけるなよ。なんか証拠があるのかよ」
「盗んだもの早く出せよ」
「知らねえていってんだろ」恫喝して小川が言った。
「それよりこないだは世話になったなあ」
「なんのことさ」
「うどんこのことだよ」ランニング姿のちびが言った。
「お面なんかかぶりやがって、卑怯なやろうどもだ、もっと正々堂々とやったらどうだ」小川がすごんだ。
「オレたち縁日に行ってないよ」クジラが言った
「縁日?何で縁日の喧嘩のこと知ってるんだ」
まずい、クジラのやつ墓穴を掘った、馬鹿だなとわたしは思った。
「うわさで聞いたし」クジラが反論したが明らかに形勢は不利だった。
「それこそ証拠がないよ」住友も続いて反論したが、ますます向こうのペースにはまっていた。
クジラは小川に胸ぐらを捕まれていた。住友は中学生にこづかれそうになっていた。
「ちょちょっと、話し合おうぜ」時間稼ぎにわたしが言った。
「何だおまえ、また来たのか、さっき逃げたくせに」
「逃げてなんかいないよ。なんだよ。その言いぐさは!」わたしも頭に血が上ってきた、もう話し合いの余地はなかった。
そのとき健ちゃんが駆けつけてきた。
「ああ、健ちゃん」
「何があったんだ、小学生をいじめるのは良くないな」と余裕のある低い声で言いながら近づいてきた。背は向こうの中学生よりも高かった。胸幅だって広い。
「オレに任せろ、大将は誰だ」健ちゃんが訊いた。
「あの、ひげ面の中学生のヤツだよ」わたしが深沢の方を指して言った。
「何しに来たんだ?よけいなやつは引っ込んでろ」深沢が顔に凄みをきかせながら怒鳴った。
「おまえが、リーダーか?取った物返してやれよ。どーせたいしたもんじゃないんだろ」
「こいつらが盗ったんだよ」クジラが叫んだ。
「だから知らねって、証拠もないくせに」小川が深沢の後ろから顔を出した。
「富田に聞け、やつが知ってるはずだ、裏切りやがって」
「裏切るも何もないさ。いっとくけどオレ、一度もおまえたちの仲間になったことないぞ」富田はふてぶてしかった。
「それより縁日の落とし前つけてくれよ」
「てめえたちが縁日にいたのはわかってんだよ」長谷川が言った。
「とったもの返せよ」クジラはそれには答えず同じ言葉を繰り返した。
3
話し合いはつかなかった。
「おまえの親父いま刑務所だってな」いきなり黒縁メガネのチビがクジラに向かって切り出した。そして後ろに引っ込んだ。
「大塚の高利貸し刺して捕まったんだって?」長谷川が付け加えた。
「こんど、盗んだ金で家建て直して御殿にするらしいぜ」小川も言った。
「てめえら、かってなこというな」住友がクジラをかばった。
「話をそらすなよ」わたしも応戦した。富田のヤツが吹聴したに違いない。
「刑務所ヤロウ、何とか言って見ろ!」小川がクジラに向かって挑発した。
クジラの鼻に汗がにじみ、顔はどす黒く、そして赤味が増していった。怒りを通り越し驚愕しながら手をこぶしに握って震えている。
突然クジラが叫んだ。「おまえら、きたねーぞ!」そう言って小川に体当たりした。そして頭を垂直に勢いよく持ち上げ、相手の顎に激しい頭突きを食らわした。小川はもんどり打って倒れた。口の中を切ったのだろうか血が出ていた。続けて長谷川に捨て身で体当たりした。
「おまえら、ちょっとまて」健ちゃんが叫んだけれどもう戦いは始まってしまった。小川が立ち上がり今度はクジラのことを思いきり蹴り上げた。クジラは「ぐえ」と低い悲鳴のような声を出してその場にうずくまった。
クジラを助け起こそうとわたしが近づくと、今度は長谷川がげんこつを作ってわたしに向かってきた。わたしはとっさに後ずさって落ちていたこぶし大の石を拾った。長谷川の顔めがけて投げつけると石は逸れて後ろにいた深沢に目の上に当たった。薄くて消えそうな眉毛の上から血が吹き出た。それを見た長谷川はひるんで数歩下がり深沢を気遣った。深沢は目に右手を額に当てた。手にはべっとりと血が張り付いた。指の間から流血の後がくっきりと見えた。
「やっちまえ」深沢が般若の形相で叫んだ。彼らは腰を低くして戦闘態勢に入った。わたしたちも一斉に喧嘩の構えをした。わたしは周辺の石をまた拾い身構えた。
そのとき中学生の深沢がポケットに左手を突っ込んだと思うと光る物を取り出した。ナイフだった。そしてゆっくりと右手に持ち替えていつでも相手を斬りつける勢いのように見えた。
「石を投げたヤツ出てこい」と深沢が言った。わたしは全身で身震いした。
ナイフの刃は十数センチくらいあっただろうか鈍く光っていた。わたしたちは予想外の展開に足が凍り付いた。そして助けを求めるように健ちゃんの方を振り返った。健ちゃんはわたしたちに下がっているように手で合図した。
「本当にやる気なんだな」健ちゃんが落ち着いた低い声で言った。その声でわたしたちも少し安心した。
「ああ、切り刻んでやる」深沢が言うと同時にナイフを健ちゃんに向けてちらつかせた。そして素早い動作で健ちゃんに斬りつけてきた。健ちゃんが振り払ったときナイフの刃の先端が二の腕をかすめた。一直線に血がにじんだのが見えた。
「いてっ!」健ちゃんがかすかに聞こえる声でつぶやいたのが聞こえた。わたしはやつが本気だと思った。まずいことになったことを改めて感じた。深沢の顔は真っ赤に充血して、額からはまだ血が固まらずに滴っていた。深沢は見るからに偏執的で怒ると何をするかわからない性格のようだった。この喧嘩は収まりがつかないと思った。
そしてその後とても信じられない光景が展開したのだ。健ちゃんもお尻のポケットからジャックナイフを取り出した。刃渡りは深沢のよりも短かったが、刃はよく手入れされているようでより輝いていた。
「よし、やろうぜ」
「健ちゃん!」わたしは止めるのか応援するのか何とも曖昧な声で呼びかけた。
「じゅん、おまえたちはひっこんでろ」健ちゃんもこれまでに見たこともない形相に変わっていた。たぶん、ナイフの喧嘩は見たこと無いから健ちゃんだって初めてなのじゃないかと思った。わたしの不安は広がった。
ナイフの二人はしばらく動かなかった。最初に動いたのは深沢だった。ナイフを突き出すが腰が引けていて健ちゃんに届かない。わたしはアメリカ映画の中に自分が居るように感じた。ジェームス・ディーンが健ちゃんで相手が非行少年グループだ。健ちゃんは中学生だけれども髪をリーゼントにしてアメリカの若者を気取っていた。長い髪はいつも持ち歩いている櫛で流れるように分けられ映画の雰囲気にもあって居た。「理由なき反抗」の喧嘩は拮抗していた。でもこの喧嘩は健ちゃんの方が圧倒的に有利だった。健ちゃんは落ち着いて相手の動きを見ていた。深沢が思いきり顔をめがけて切りつけてきたが健ちゃんは軽いフットワークでこれをかわした。相手が攻めあぐねているのを見ると、一度相手の顔を切りつけるフェイントを見せて、相手が顔を背けたスキに健ちゃんのナイフは深沢の足をねらい、深沢の太股にナイフが浅く刺さった。深沢はよろけて少し怯んだ。
「ほれ、どうした?今のは手加減したんだぞ」余裕を持った健ちゃんの声が聞こえた。深沢は完全にビビッている。それを見てこのケンカは収まりそうだとわたしは安堵しかけた。クジラはうずくまっていたが、それをみると急に飛びだして深沢に体当たりした。
「やめろ!」健ちゃんが言ったが、クジラは聞かなかった。
「ふざけやがって、ふざけやがって!」クジラは何度も同じことをを叫びながら、次々に彼らに体当たりと頭突きをしていった。相手から何度も殴られても動じなかった。次の瞬間、深沢からナイフを奪い取ると誰からともなく斬りかかっていった。完全にクジラは狂っていた。そして深沢に向かってナイフを突き立てたまま体当たりをした。ナイフは深沢の腹に刺さり「ぐえっ」と言う嗚咽にも似た悲鳴が聞こえた。深沢はうつぶせに道路に倒れた。クジラは小川にも体当たりして、すもうの押し出しのように崖に向かって押したまま突き進んでいった。二人はそのまま崖の上で坂に足を取られ一気に下まで落ちていった。
そのあとは誰彼かまわず大乱闘になり、みな斜面を転びながら落ちていき相乱れの殴り合いになった。わたしも崖を駆け下りるというか、転び落ちながら乱闘に加わった。
4
崖の大騒ぎと、転落した誰かの悲鳴で、駅員が我々の存在に気がついた。いつも彼らとはいたちごっこで捕まらないのだが、子供の人数も多かったせいか、その日は大勢がこちらに向かってきた。わたしは「まずい」と思った。喧嘩は中止にしてここは逃げ出すしかない。駅員に捕まったら面倒なことになる。
「逃げろ」誰かが叫んだ。
「ヤバイ、バラバラに逃げよう」
わたしたちは、みなてんでの方向に蹴散らされるように逃げた。住友は崖の方へ、クジラは駅のホームへ、健ちゃんとわたしは貨物線路の方へ逃げた。崖は滑りやすいから、落ちたらすぐに捕まってしまう。山手線は時間本数が多いが、貨物線路なら列車はあまり通らない。逃げ出す直前振り返ると駅員達は数十人がおり、崖と線路方面と手分けをしてわたしたちを捕まえようとしていた。崖方向は逃げた人数が多いせいかもう多くの駅員がそちらの方に振り向けられていた。貨物線路の方は数人が追ってきたようだ。数十メートルそこそこまで近づいていた。駅員はわたしたちに向かって
「ばか、やめろー!そっちは危ないぞー」
「電車に轢かれるぞ!」と叫んでいた。
「嚇かしやがって、貨物はもう来ない、さっき通ったばっかりだ」とわたしは思った。
夕暮れが近づき日が沈みかけていた。前を走る健ちゃんの長い頭の影をふんづけながら懸命に走った。マラソンを一生走る気持ちで全力で走り続けた。いつも大塚駅の都電の道を遊び場にしてきたので、線路の枕木の上を走るのは得意だった。しかしその時は勝手が違ってうまく走れない。枕木は意地悪に不規則で歩幅があわず砂利の上ばかりを走っている。薄っぺらな運動靴では足の裏が痛くなった。急いで間隔の広い枕木の間を飛び越そうとして転倒した。右膝から血が滲んでた。立ち上がって前を見ると、健ちゃんの頭の影が遠のいていくのが分かった。健ちゃんは確実に枕木の上を三段跳び競技の選手のように足を延ばして飛びながら軽快に走っている。健ちゃんとの距離は開く一方だった。膝がじんじん痛んだ。「もう走れない」と思い、捕まる覚悟をしてスピードを緩め、後ろを振り向いた。駅員達はいなかった。かわりに、林久美子が駆け足でややはなれたところまでついてきていた。「え、なんで久美ちゃんが」彼女は橋の上にいたはずだ。
「じゅんちゃん、待ってよ」久美ちゃんが泣きそうな声でわたしを呼んだ。
「なんでこんなところに」
「だって、ごめん」久美ちゃんは何か言いたそうだったが、言葉になっていなかった。
「いいから走ろう」健ちゃんに追いつかなくてはとわたしは焦った。
線路は大きく左にカーブしていた。後ろの方を振り返ると、もう大塚駅のホームは見えなくなっていた。前方には、池袋駅が見えてきていた。ずいぶん走ったのだ。レールは鋭く光っていて直線で駅までまっすぐに延びるラインだった。そのとき鉄道の線路はその上に立って見るのが最も美しいと思った。表面の輝きと対照的に側が錆びた茶色のH字鋼、それを支える枕木とさびた鉄粉を帯びた砂利、その端々から生長する雑草類、すべてが見ていて完璧だと思った。わたしたちが逃げた線路は貨物用で普段はあまり多く電車は通過しなかった。それでも電車来たらどうしようという不安があった。しかし、それは的中しそれを最初に風で感じた。次に音と線路のわずかな振動でそれは現実だと感じた。振り向いたとき電車は見えなかったが、久美ちゃんと目が合った。振動に会わせるように揺れる視線はこれから来るかもしれない貨物列車を暗示していた。健ちゃんは線路に耳をつけて電車の音を聞いていた。
「じゅん!貨物がくるぞ!」
「でも、そんなはずは。さっき通ったばかりだし」
「さっき通ったのと反対方向の貨物列車のお出ましだ」
「むこうの線路に移ろう」わたしは叫んだ。
「だめだ」
「どうして?」
「運転手に見つかるとめんどうだ、側溝に飛び込め」健ちゃんが言った。
線路に沿ってある側溝はわたしたちがいつも「ザリガニ」を捕っている泥水の小排水路だった。後ろを振り向くと貨物列車がかなり近くにこちらに向かって走ってくるのが見えてきていた。
「久美ちゃん、こっちだ」手を引っ張って線路脇に促した。
「でも、そこドブだよ」久美ちゃんが嫌がっているようだった。
「轢かれるよ、早く」貨物は迫ってきていた、音も振動もさっきの数十倍以上に感じていた。健ちゃんが最初に側溝に飛び込んだ。わたしも追いついて同じ場所に身を隠した。続いて久美ちゃんも飛び込んできた。ぬるぬるして気持ちの悪い臭いがする。吐き気のするような膝までの深さの泥水だった。貨物列車の車輪音は確実に近づいて、やがてわたしたちの目の上を轟音をたててがちゃがちゃと金属音を響かせながら走っていった。わたしたちの周辺が上下に規則正しく揺れ小さな小石がどび散ったりするのが目の前に見えた。久美ちゃんは顔を下に向けて耳をふさいでいた。
「迫力だよなあ、こんな近くで見るの初めてだよ」
となりで健ちゃんはいつものように貨車の数を勘定していた。
「七〇台を越えた、最高に長いぞ今日は」
余裕の健ちゃんを見て少し安堵感がわいてきた。
わたしも負けずに余裕を見せるつもりで「ここ、ザリガニがすごくいるよ」と言った。事実。足やおしりのへんには何か生き物が動いていく感触がした。
「そんなものどうだっていい」健ちゃんが不機嫌そうに言った。自分は貨物の数を数えていたくせにと思った。
貨物列車が通り抜けた後もわたしたちはしばらく動かないで、側溝にじっとしていた。あたりは虫の声以外は押しだまたように静かだった。まわりは日が落ちてうっすらと暗くなっていた。
「追っ手は来ないようだ、いくぞ」健ちゃんが言いながら側溝から立ち上がった。側溝の泥水で身体はすっかり真っ黒だった。洋服はもちろん、手で顔をこすったりするものだから墨を塗ったように黒くて、最前線の兵士のようだった。
「何で女がいるんだよ」
「久美ちゃんだよ」
「なんだ、久美ちゃんか。真っ黒で判らないよ」健ちゃんが顔をこすりながら言った。
「崖の遊び場を見せにつれてきてこんなことになっちゃって。久美ちゃん、ごめんな」
「いいのよ。でもこの臭い何とかならないの」
「でも、久美ちゃんどうしてここにいるの?」わたしは素朴に訊いた。
「あら、失礼ね。だって、上で見ているわけに行かないじゃない、応援にしたまで降りていったのよ」
「でも喧嘩だし」
「気に入った、いい子だ」健ちゃんが言った。
「誰も追ってこないみたいだ、線路から出よう」
駅の近くでは山手線と貨物線の線路は同じ平面を走っていたが、ここまでくると、いつの間にか数メートルの上下の段差が出来ていた。わたし達の居た貨物線は上に、山手線は崖下になっていた。そして、どちらの線路も周辺はずっと両側が高い石垣で遮断されておりいつまで立っても道路にはでられなかった。どおいうわけか山手線は電車が停滞していた。事故でもあったのだろうかと思った。
「もうすぐ池袋の大踏切に出るはずだ。そこまで行けば線路から外にでられる」健ちゃんが言った。
線路は幾分左にカーブしており幾分上り坂になっていた。十分間以上も駆けていただろうか、わたしの足と腰は、がくがくになっていた。すりむいた右膝がひりひりしていた。もう一度走り出しかけた時、健ちゃんが言った。
「踏切はやばい、きっと待ち伏せしているはずだ。壁を登ろう」
「どうやって、五メートル以上はあるよ。」
「もっと低い場所を探すんだ」
「どっかに梯子がついてるとこ見たぞないかい」
「あれば楽だけど、ともかく行こう」
しかしいくら先に進んでも、壁は高くなるばかりだった。結局飛び込んだ場所の石垣の壁が一番低く斜面も緩やかなようだった。わたしたちはそこまで戻り斜面をはいつくばるように登った。わたしが一番先に登り、久美ちゃんは健ちゃんにお尻を押されながら登った。
道路まで上がり、ガードレールに捕まってわたしたちは休息した。まだ、胸の鼓動は収まっていない。静脈の流れる音が耳元でごうごうと鳴っていた。健ちゃんと久美ちゃんの泥だらけの顔を見ていると、たった今空爆を受け逃げてきた外国の難民のようでとてもおかしかった。
周辺は路地が迷宮のようにつながっている緑の多い地域で、安アパートや古い木造の一戸建てが建ち並んでいる下町の風情がある。線路に平行して細道が駅まで続いている。周辺に植えられた花が終わった大きな紫陽花が路地をよけい狭くしていた。丁寧に並べられた鉢植えも同様にわたし達には邪魔者以外の何者でもなかった。人気のない空き地の隅でわたし達は固まってしばらく動かずに過ごした。あたりはすでに真っ暗になっていた。
5
「くせーな」
「お尻のところがまだぬるぬるしてる」
「おまえの顔、真っ黒けだぜ」
「健ちゃんだって」
「このままでは家に帰れない」
「オレだって」
「おふろにでもはいりたい気持ち」久美ちゃんが言った。
「よし入りに行こう、混浴でもいいのか」健ちゃんが優しく慰めるように行った。
「え?」久美ちゃんが大きいな目を見開いてわたしの方を振り向いた。
「そんなの知らないよ」わたしは大きく手を横に振りながら自分のアイディアではないことを強調した。
「まあいいじゃないか、ひとっぷろ浴びよう、ぬるめだけど文句無いよな?そこの彼女」健ちゃんが久美ちゃんお顔をのぞくようにして言った。
「人目のあるところにはいけないよ」わたしが言った。
「見つかったら警察に、捕まるかもよ」久美ちゃんが小声でわたしに言った。
「付いて来いよ」そう言って健ちゃんは天祖神社の方に向かった。わたしたちは少しそのままじっとしていたが、すぐに健ちゃんを追いかけた
「すこし冷たいかもしれないけれどがまんしろよ」といって入り口を探した。
神社の隣にあるいつも通い慣れた区民プールだった。プールはもちろん開業していたけれども夜間は閉鎖されていた。入り口には鍵がかけられていたが、金網を乗り越えれば侵入できる。
「乗り越えよう」健ちゃんが最初に金網にヤモリのようにしがみついて登っていった。金網の高さは二メートルほどで健ちゃんはいとも簡単に中に忍び込んでいった。そしてベンチに座り靴を脱いできれいにそろえておいた後、洋服を着たままプールの中に沈み込んでいった。わたし達も続いて金網にへばりつきながら登った。振り返って下を見ると久美ちゃんも泥だらけの顔をしかめながらわたしの後に続いて登ってきていた。金網の上はしっかりした鉄棒があり有刺鉄線など無かった。鉄棒に座る要領で腰を下ろし久美ちゃんが登ってくるのを待った。近づいてきた久美ちゃんに手を貸した。泥だらけの手はすでにカラカラに乾いており、しっかりと握りあうことが出来た。彼女を金網の上にひっぱり上げ、健ちゃんの泳ぎを見ていた。遠くに山手線の線路と電車が通る音が聞こえた。闇に目が慣れてきたのか久美ちゃんの幾分ふくよかさが無くなった顔が近くにはっきり見えた。わたしは勢いよく金網から飛び降りた。久美ちゃんはゆっくりと登ってきたときと同じスタイルで金網に縛りつきながら降りてきた。降りきったのを見届けてからわたしは、健ちゃんと同じようにベンチで靴を脱いでから足から静かにプールに入った。水はかなり冷たかったが、汗と泥を気持ちよく流してくれた。健ちゃんはすでに二五メートルプールの端まで泳ぎ着いていた。
わたしが頭まで潜ってから水面に顔を出すと、顔と頭にこびりついた泥がプールの水を汚した。数秒のうちに闇の中のせいか、泥の黒い渦潮は、拡散してなくなり元の透き通った水に戻ったように見えた。水の中で洋服をすべて脱ぎ、いつの間にかわたしと健ちゃんは全裸になりはしゃいで泳ぎまくっていた。
久美ちゃんは、プールの端に腰をかけて洋服を着たまま足を洗っていた。水をすくい顔を洗っている。
「おい、入れよきもちいいぞ」脱いだ洋服と靴をプールの縁にかけながら久美ちゃんを促した。
「このまま?」久美ちゃんが言った。
「脱いでもいいけど」わたしが言った。
「今日は闇夜だし、オレたちのことは気にすんな」健ちゃんが言った。
「あいつも一応女の子だよ」わたしはそういって健ちゃんと目を見合わせた。
「まあいい、そのままはいって中で何とかしろよ」健ちゃんが言った。
久美ちゃんは靴と靴下を脱いでプールの端に置くと洋服を着たままそろそろと足から水に入った。久美ちゃんのスカートが少し膨らんだがすぐに水の中に入ってしぼんでしまった。そして、ゆっくりとした平泳ぎで二五メートルプールの反対側まで泳いでいった。ターンして戻ってきて一番深いところでイルカのように一度伸び上がってからまた潜りしばらく出て来なかった。わたしが見回して探していると、いきなり目の前に潜水から復帰しざぶんと顔を出した。
「やあ、じゅん元気?」敬礼のまねをしながら久美ちゃんがいたずらそうに言った。
「およぎうまいね」
「下田の海で毎年やってるわ、もぐりは得意よ」そう言うとまた潜水で反対の方に泳いでいった。わたしも潜って彼女の後を追った。泳ぎながら、いつか記憶のある場面のように思えた。そうだ、いつもの夢の中で見るシーンだ。わたしが夢精を初めて体験した時の場面と同じだ。彼女の肢体にはスカートがまつわりついて泳ぎにくそうだったが、足で勢いよく水を蹴っていた。不思議な気持ちになってわたしは思わず自分が全裸であることに改めて気がついた。久美ちゃんの足は青白くてか細かった。スカートがまくれ上がって腰のあたりまで透き通った様に見える瞬間があった。追いかけて彼女の足に触れそうになったとき遠くで健ちゃんの声がした。「そろそろ出るぞ、管理人のオヤジが来るといけない」
わたしはあわてて向きを変え反対の方に泳ぎプールからでて、縁にかけておいた下着を着た。久美ちゃんは反対の縁にあがった。洋服を着たまま泳いでいたので全身から水が滴っており、長い髪はべっとりと頬と肩にへばりついていた。スリップは体にぴったりと張り付き、ずぶぬれの久美ちゃんは鳥殻のようにやせて見えた。でも、横を向いたとき光源を背にしたシルエットには久美ちゃんの胸もとは乳首の周りだけがすこし膨らんでいるようにもみえた。ぬれた髪を上に上げているので普段見えないおでこが丸見えになった。前髪に半分隠れていた眉毛が案外太くて凛々しい事もわかった。形の良いおでこには、これまでなかったであろうと思われる小さなニキビがぽつぽつと膨らんでいた。久美ちゃんの体は確実に変わってきていることをそのとき実感した。わたしたちは水浸しの洋服をそのまま着て靴下の水を絞り、靴を洗ってから履き元の金網から外に出た。いっこうにやまない滴を引きずりながら、わたしたちはまた歩き出した。泥はすっかり落ち気持ちはすっきりしたが、濡れた半ズボンとシャツが体にへばりつきものすごく寒かった。
6
「そうだ、神社の空き地に行こう」わたしは天祖神社のとなりの空き地にある籾殻の山を思い出した。籾殻は暖かそうだし、たぶんバスタオルの代わりになると思った。このあいだ果物屋の兄ちゃんのリンゴを取り出す作業を手伝ったあとにはたくさんの籾殻の山ができた。箱を持って現れ、何度も籾殻を捨てにくる。いつもリンゴの数をごまかしているあれだ。
「久美ちゃん、ずぶねれだね、夕立?傘なかったの?」わたしがからかった。
「じゅんちゃんこそ、川でおぼれかかった孤児みたいよ」久美ちゃんが応戦した。
「じゅん、何するつもりなんだ」健ちゃんが不審そうにたずねた。
「いや、絶対暖かくなれるから、ついてきてよ」
「たき火は目立つよ」健ちゃんが言った。
「どこかでキャンプファイヤーでもやっていないの」久美ちゃんが小刻みに震えながら言った。
プールから少し坂を下ると神社の鳥居がみえた。神社を突っ切りその裏の空き地に抜けた。空き地には籾殻の山がまだ燃やされずに残っていた。
「このことさ」
「なにが?」
「籾殻がタオル代わりさ」
「だいじょうぶ?」
「よし、やってみるからね」わたしはそういっても身柄の山の中に潜り込んでいった。籾殻は太陽のぬくもりがまだあり暖かかった。手でほじくると地面に接しているところは冷たく湿気も感じられたが、上澄みは十分すぎるほど柔らかで乾燥していた。わたしは籾殻を吸い込まないように息を止めて、顔にまぶしシャワーで洗うようにをこすった。
「少し痛いけど、寒くなくなったよ」
健ちゃんが勢いよくジャンプして飛び込むと久美ちゃんも籾殻の中に入ってきた。そして人心地つくと、みんなで一斉に籾殻を掛け合った。口や鼻や目や耳に籾殻が入り込み気持ちが悪かったが、寒さをとおりこして暑くなってきた。
「いい衣がついた、これなら寒くない」健ちゃんが言った。
「洋服も何とか乾燥させることが出来たわ」久美ちゃんが機嫌良く言った。
「これでやっとふつうの生活に戻れそうだな」健ちゃんがそういっても身柄の山のてっぺんに大の字に寝そべった。
「久美ちゃんがここにいるなんて信じられないな」感激の意味を込めてわたしが言った。
「わたしだって」
「とんだ巻き添えだよね、どうして線路に降りてきたの?」
「だって、さっきも言ったでしょ」
「なんて?」
「ケンカしていて鯨岡君が崖から滑って落ちたでしょ、絶対ケガしたと思ったわ、助けなきゃと思ったの」
「それで崖を降りてきた?」
「うん、ナイチンゲールの心境よ。そうしたら駅員さんが気づいて、あの大騒ぎ。じゅんちゃん!ってなんども呼んだけどどんどん逃げて行くばかりで」
「ごめん、ほんとに気がつかなかったんだよ」
「ほかの連中どうしたか知っている?」
「住友君は下で動けなくなっていた、でも大したけがじゃないといいんだけれど」
「ほかには?」
「鯨岡君は山手線のホーム方に逃げていったと思うの」
「途中で駅員が皆引き上げていったろ、あれはどうしてなんだろう」
「だから、山手線の方で何か事故でもあったんじゃないかと思ってそれが心配なのよ」
「電車を止めちゃったとか。そうだとしたら。学校で大目玉だな」わたしは声が詰まった。
「あーあ」久美ちゃんは後悔しているとも楽しんでいるともわからないようなため息をもらした。
「とんだ夏休みになっちゃたね」わたしは慰める意味合いで籾殻を握りつぶしながら言った。
「いい思い出になるかも」
「学校で怒られるな、久美ちゃんのことは黙ってるから安心してよ」
「ありがと」
「まあいいや、夏休みは遊んで、二学期の始業式で怒られればいいんだ」
「わたし二学期の始業式には学校に行かないと思うわ」
「こんな事件起こしたから?」
満面に笑顔を浮かべて
「あはは、違う違う、わたしねこの夏休み中に転校するわ」籾殻をいっぱい髪や顔につけて言った。
「久美ちゃんが?」
「パパの転勤で」
「どこへ」
「ロンドン、パパは先月からもう行ってるの」久美ちゃんはあまりにもさらりと言った。
「えっ?ロンドンって、イギリスの?」籾殻を一つひとつゆっくりと顔から取り除きながら次の言葉を考えた。
「アハハ、そう、イギリスのロンドン。向こうには日本人の学校があるって。だから心配はないと思うけれど」
「久美ちゃんのお父さん、放送局の記者だったよね」
「うん、支局のそばには大きな公園もあるし二階建てバスも走っているんだって、きのう絵はがきが来たわ」
「そう、ずいぶん遠くだな」
「五年生の時、誕生日会にうちに誘ったの覚えてる?」
「知らないよ」
「ほんと?とぼけてんだから」
「そんな昔のこと」
「約束したのにすっぽかして」
「そういえば、久美ちゃんのおばさんがうちに来て、待ってたのにどうして来なかったんですかとか言ってたよね」
「ほら、覚えているくせに」鋭くつづけた。
ほんとに忘れていたのだ、でもそのころはもっと楽しい遊びが外にたくさんあった。女の子の家にお呼ばれなんてかっこわるいと思っていた。それならきちんと断ればよかったのだ。いい加減な性格があらわになった。
「じゅんちゃんって変だよ」
「なにが」
「不良じゃないのに不良仲間に入っていて」
「え?」
「全然似合わないよ」
「そう見えるのかなあ」
「富田君とか鯨岡君はちょっとまずいよ」久美ちゃんは眉を上げながらわたしのほうに向き直っていった。クジラをまずいというのには腑に落ちなかったが彼女も回りのうわさだけに流されている。自分で確かめたわけじゃないんだ。反論しようとしたが、その会話はこの場の雰囲気にとても似つかわしくないように感じた。
「久美ちゃんも行っちゃうのか」わたしは話題を変えた。ずいぶんと長いポーズがあった。遠くに早稲田行きの都電のヘッドライトが見えた。電車の音がちかづく前に久美ちゃんが沈黙をやぶった。
「でも、じゅんちゃんには関さんがいるじゃない、じゅんじゅんコンビで仲良くやって」サバサバとした乾燥ぎみの声で、わたしの目を覗き込みながら言った。
「関さんは関係ないよ」
「好きなくせに」
「ちょっと、ちがうんだな」籾殻を集めてもう一度自分の全身にまぶした。籾殻は全身をマスクするようでこんな話もあまり照れずにできた。
「なにがちがうの」久美ちゃんの髪には籾殻が中まで入り込んで点々としていた。肩までの長い髪に籾殻が白ごまのようにまぶされていた。いつも自信ありげに引き締まっている唇は、縁日の時の透き通ったスモモの赤とは反対に、その夜はたくさんの絵の具を混ぜすぎたような色に染まっていた。寒さのせいかかすかに震える唇に一つ二つ籾殻が揺れて金色に光っていた。
「住んでる世界が」久美ちゃんの方が関さんよりずっと大人で悪い女に見えることがあった。関さんは愛くるしくて快活で誰もが好きなお嬢さんだ。わたしとは全然住んでいる世界が違うことを言いたかった。
「はは、気取ってる」唇の籾殻を手で払いながら久美ちゃんがからかうように言った。久美ちゃんの顔がずるそうに笑ったので、わたしはすこし戦闘的になった。
「もみがらあたま!」そう叫んで、手にいっぱいつかんでいた籾殻を久美ちゃんにぶつけた。
「しらみあたま!」久美ちゃんも負けずにプールで水を掛け合うような仕草でわたしに籾殻の塊をすごい勢いで連射してきた。籾殻は神社から洩れる提灯の明かりで金の小粒のようにキラキラと光った。空はビロードのように真っ黒だった。応戦しようともういちど手元の籾殻をすくい上げようとしたとき何か堅い物が手に触れた。石ころよりは柔らかい感触だった。
「ちょっと、待って」
もしかしたらとおもい籾殻の中を探してみた。まさぐる手をふざけて久美ちゃんの足を触った。
「きゃあ!」と久美ちゃんが叫んだがその声を無視してまさぐった。あるある一つ二つ、リンゴが二個でてきた。その日の事件のことも忘れてすこしうれしくなった。久美ちゃんにひとつ渡しながら「夕食にありついたよ」と健ちゃんに言った。
「なんだリンゴか?オレはいいよ、久美ちゃんにやれよ」健ちゃんは籾殻の山の中に寝そべったまま低い声で言った。
「ああ」わたしは久美ちゃんに小さい方を放った。
「わたしはいいわ、もう家に帰らなきゃ、きっと心配してるわ」そういいながらリンゴを健ちゃんに手渡した。
「はらぺこだ」
「ナイフがないわね」
「いいさ、皮のまま食べよう」わたしはリンゴをシャツで磨き始めた。
小振りの青リンゴは磨くと夜の薄暗い証明の中でもはっきりとわかるように光り出した。
「これをつかえよ」健ちゃんはケンカで使った折り畳みナイフをポケットから取り出した。豊島小学校の奴らを斬りつけたナイフだ。健ちゃんはわたしがリンゴを磨いたようにナイフをシャツで丁寧に拭いた。ナイフの刃には血の跡がうっすらとついていた。ナイフを渡す無神経さとわたしたちの会話に割り込んできた健ちゃんに少し腹が立った。
「健ちゃん何でなんでナイフ持ってたの?」
「いざというときのためさ」健ちゃんは破けたジーンズの膝を揺すりながら大人っぽく言った。
「喧嘩のために?」
「ああ」
「ルール違反だよ」
「だから、使うつもりはなかった」
「でも、警察に捕まったら絶対不利だよ」
「おまえたちのためだぞ」それはそうだ。健ちゃんは私たちのためにやってくれた。
「だって」健ちゃんは反論しようとするわたしの言葉を遮りながら
「奴らをやっつけるのに、役に立ったし」そういいながら、ナイフでリンゴを半分に割った。
「久美ちゃん半分こしようぜ」
ナイフはわたしの主義に反していた。喧嘩は素手が原則だ。やっぱり健ちゃんは不良かもしれないと思った。
「やるよ」健ちゃんはナイフで半分に割ったリンゴの一方を久美ちゃんに差し出した。わたしは小さい方を渡したことに少し後悔していた。
「ありがとう」素直に言って半分に割ったリンゴを受け取った。
「わたし剥くわ、ナイフ貸して」
「じゅん、おまえは一つ食っていいよ」健ちゃんは割った半分のリンゴとナイフを久美ちゃんに渡した。久美ちゃんはナイフで丁寧に皮をむいて健ちゃんに渡した。
「久美ちゃん器用だね」
「そんな」妙に女らしくにっこりと笑った。
「ぼくは、そのまま食べる」
「剥いてもらえよ」
「いいよ、皮に栄養があるんだ」テレビでやっていたクイズ番組の回答を思い出しながらわたしがやや不機嫌に言った。
「いや、皮の近くに栄養があるんだ」物知り顔で健ちゃんが訂正した。
リンゴは何回もシャツで拭いていたので鋭い光をはなっていた。空腹感はあまりなくなっていた。夢中でかぶりついた。みずみずしいリンゴは甘い汁が唇をぬらし渇いたのども潤した。固い皮が歯にはさまった。固い皮が少しにがく感じた。食べ終わって捨てたリンゴはひょうたん型になって見る見るうちに酸化して茶色に変色していった。
少年マガジンの裏表紙広告の通信販売で買ったという健ちゃんの腕時計は七時一〇分で止まっていた。とっくに九時はすぎていると思う。わたしたちは久美ちゃんを自宅近くまで送っていくことにした。
「籾殻が髪の中に入って取れないわ」久美ちゃんは顔をしかめながら髪に付いた籾殻を手櫛で何度も払う。
「ごめん、とんだ夏休みになりそうだね」
「いいよ、いい思い出になりそうよ」
「そうかなあ」わたしはうつむき泥がつまった真っ黒になっている手の爪を見ながら言った。
「じゅんちゃん、これからどうするの?」わたしの顔を下からのぞき込むようにして訊いた。
「わからない」本当にどうしたらいいのか解らなかった。それよりクジラや住友のことが気がかりだった。住友は崖の方へ駆けだしていった。クジラは駅のホームから乗客に紛れて逃げたに違いない。だぶんみんな逃げ切れて今頃は銭湯の湯船に浸かっているのかも知れない。わたしが一番へまをしただけだ。そんな気がした。
「イッセンバシの様子を見に行こう」健ちゃんの張りつめた声が聞こえた。
神社から空蝉橋まで久美ちゃんを真ん中に三人で並んで歩いた。暫くすると橋の薄暗い明かりが見えてきた。橋には野次馬らしい人だかりがあり、みな手すりに寄りかかりながら駅の方を見下ろしていた。わたしたちも人混みの中に入った。崖下は暗くて様子が分からなかったが、プラットホームは照明でくっきりと浮かび上がって見えた。ホームの線路下には駅員と警察官が数人おり、あわただしく作業をしている。駅前の広場にはパトカーが駐車してあり赤いランプがせわしく回転していた。
「何だ大げさな、子供のいたずらぐらいで」と健ちゃんが独り言のようにつぶやいた。橋にたむろしていた人たちの話を断片的に聞いていくうちに、子供がけがをして救急車で運ばれたらしいことが分かった。
「誰が怪我したんだろう」
「健ちゃんにやられた深沢じゃないか」
「住友君が崖を登っていくのは見たんだけれど、逃げ出したのかなあ」久美ちゃんが心配そうに言った。
「クジラはにぶいから、捕まったかもな」
「捕まっていたら、オレも明日学校に呼び出し食らうな。でも健ちゃんのことは言わないからね」わたしは健ちゃんに気兼ねをして言った。
「気にするな、じゅん。今夜は隠れ家でも探して、夜明かしでもしよう」
「健ちゃんの家に泊まろうよ。もともとの計画だし」
「警察が来ているかもな」
「そんなバカな。健ちゃんのことは誰も喋らないよ。来ているならぼくのうちかも」
「オレは深沢をやったんだ」
「ばれてないよ」
「足をかなり深く刺したから動けないはずだ。奴は捕まって病院行きだ。もうとっくにばれてるさ。オレは傷害罪で追われる身ってことだ」
「どこに隠れるの?」
「ゴーグジにでも行くか」
「夜のゴーグジか」少し気味悪かった。
「怖いか?」健ちゃんは意地悪そうにわたしを見た。
「ぜんぜん」わたしは強がりを言った。
「久美ちゃん、早く帰りな。風邪引くよ」わたしは護国寺に行くかどうかの判断を保留して、小刻みにふるえている久美ちゃんに帰宅を勧めた。
「わかったわ。あたしはじゅんちゃんも家に帰った方がいいと思うけど」
「オレのことはいいから」
「ホントに?じゃああたし帰るけど」久美ちゃんは、普段と違った泥にまみれたみすぼらしい身なりで何度も振り返りながら帰途についた。

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