空蝉橋(下)HTML完成版 修正後

第八章 裏切り者

わたしは何故殴られたのかをずっと考えていた。何故彼らはわたしたちの宝物の件を知っていたのか。疑っていたのか。宝物の存在を知っているのはわたしたち三人のみだ。健ちゃんには切手をさばいてもらっただけで何もうち明けてはいないし絶対の信頼がある。崖崩れ直後の斜面にはわたしたちだけだと思っていたが、他に誰かがいたのだろうか。いや、工事作業員が線路側にいただけで、誰にも見られてないだろう。考えられるのは、富田だ。彼はクジラの腕時計に異様な関心を示し、執拗にその出所を問いただした。それは父親の形見の品ということでごまかせたはずだ。したたかな富田はそんなことではだまされないかもしれない。クジラの父親が死んでいないと言うのも気になった。わたしたちの一挙動を隈無く観察して真実を突き止めるかもしれない。富田にはそんな執念深さがあった。自分の関心のないものには寄りつきもせず、だが一端くらいつくと、とことんはなさないスッポンのような性格だ。わたしの淡泊で鷹揚な生き方とはまるで正反対である。彼にはそれだけの生活力がある。たぶん小さな頃からの境遇がそうさせたのかもしれない。ともかく明日の宝の移動は中止した方が良さそうだ。わたしは公衆電話ボックスに行って住友に明日橋で会うことを約束した。クジラの家も電話はないのではあした家に寄ってさそうことにした。富田には悪かったが彼は誘わずに三人でまず話し合おうと思った。

日曜日の昼頃、その日も相変わらず連続した真夏日の真ん中だった。住友がクジラを連れてわたしの家に迎えに来た。そこで話し合って出たわたしたちの結論は、富田が奴らと通じているに違いないということだった。彼はわたしたちの本当の仲間ではないこと、我々に近づいてきた理由が不純なのではないか、さらに彼はわたしと同じように豊島小学校の校区近くに家がある。以前からあの小学校の連中とは顔見知りが多い。情報は筒抜けなのかも知れない。わたしたちは富田の家を訪ねることにした。

富田の家は二階建てだが、階下にある小さな窓からはがらくたが無造作においてある様子が見えた。がらくたのようにみえた機材類はみな油っぽく、自動車かバイクの機械部品を扱っているような倉庫だった。すべてがすすけていたが、倉庫の入り口に掛けてある南京錠だけが光っていた。

外から声を掛けると彼は在宅していた。寝巻きのような姿で二階の踊り場に姿を現し「おう、なんだよ。階段上がって来いよ」といった。

富田の家族の住む場所は二階のようだ。梯子段をやや上りやすくしたような階段がいきなり道路脇にあり、体をかがめないとつかめない低い木の手すりを頼りに軋ませながら上っていく。子供がやっと二人ほど立てる踊り場には梅や松の鉢植えがいくつも置いてあり、周辺をよけい狭くしていた。

入り口は引き戸でその日は開け放ってあった。中は暗くて奥の部屋はよく見えなかったが、歩くと少し沈む感じの畳で四畳半くらいの広さがあった。やたら天井が低いせいかともかく狭苦しい洞窟のように見える。小学生のわたしでさえ、身をかがめたくなる。さらに暗い奥の部屋は台所で、昼食後の食器類がそのまま流しにつけてあった。ほかの家族は出かけているようであった。家具の様子から推察すると、どうもこの二階の二部屋で家族全員が生活しているようだ。中は陽射しが遮られてひんやりとして気持ちがよかった。

「おまえ豊島小の奴らと仲がいいのか?」住友が切り出した。

「何の話だよ」富田がまずとぼけて見せた。

「わかってるくせに」クジラが詰め寄った。

「全然わからないよ」

「富田、今正直に言った方がいいぞ、後で話がややこしくなる」とわたしが大きな声で迫った。

「つまり、オレたちの、見つけたもののことだよ」住友が静かな声で言った。

「知らない」富田は視線を逸らしながら言った。

「じゃあ、クジラの持っていた腕時計はどうしたと思う」

「親父の形見だろ」父親が生きているという話は出さなかった。

「じゅんのモンブランは?」住友が訊いた。

「誕生日プレゼントさ」

「質問を変えよう。小川ミチヒロ知ってるよな」わたしは攻め方を変えた。

富田は低い天井を見上げて首を何回もひねった後、思い出したように答えた。

「あの、豊島小学校の太ったヤツ」

「そうそう、最近会ったことあるのか」わたしも富田の真似をして上を見てみた。よく見ると不思議なことにそこに所謂天井はなかった。傾斜が緩いトタン屋根がそのまま見えているのだ。ここに天井をつけると完全に大人の頭はぶつかってしまうと思った。

「ないよ」ぴしゃりと言った富田の声で我に返った。

「ウソつくなよ、オレ大塚駅で一緒のところ見たぞ」おなかに力を込めて一息に言った。

「え、いつ?」

「最近、こないだのことだよ」わたしの顔を覗き込むようにしてから、またしばらく考えていた。

「ああ、そういえば、あいつと偶然会ったことがあるなあ」

わたしは、二人が会っていたという証言を引き出し、心の中でヤッタと思った。

「そのとき何を話したんだ?」住友が詰問した。

「なにも話してないさ」

「おまえ奴らのスパイ・・・」とクジラが言いかけたとたんに富田の態度が一変し声をあらげて喋り始めた。

「おまえら何が言いたいんだよ、聞きたいことがあるならはっきりいえよ! さっきから聞いてればネチネチしやがって、やってられないよ!」富田はものすごい剣幕でまくし立てた。わたしたちはそれを聞いて少しひるんだ。クジラはその勢いに驚いて二三歩あとずさりしていた。

「オレが、奴らに何か密告してとでも言うのか、オレはおまえたちのこと何も言ってないし、奴らとは家が近いし会うことだってある。でも何もたくらんじゃいないよ。たくらむ必要もないじゃないか。そうだろ木村?」そこまで一気に話すとわたしの方に向き直った。

「なんとか言ってくれよクジラ、オレたち仲間だろ」今度はクジラに向かって訴えかけるように言った。

「住友、これからも一緒に野球しようよ、ピッチング教えてくれよ」富田はわたしたち一人一人順々に訴えかけた。しばらく誰も口を利かなかった。

わたしたちは、示し合わせるでもなく住友の返事を待った。住友もどうしようか迷っているようで、ぼろ屋の中をきょろきょろ見回していた。天井がないのに気が付いたのだろうか、びっくりしたような顔をして上を向き首を回す仕草を繰り返していた。

「何とか言ってくれよ、住友!」富田が田舎芝居の芸人のような腐りきったセリフでせっついた。

「まあ、いいや、富田」住友がどうにでもとれる裁定を下した。

「住友、やっぱ信じてくれたんだな、さすがリーダーは違うぜ」富田は住友を褒めちぎり歯が浮くようなお世辞を連発した。いつ住友がリーダーになったのかわたしは不満だったが、まあ、外から見るとやはりリーダー格に映るのかと思い納得してしまった。

富田はどうやってあんな啖呵を考え出すのだろうか。誰に教えてもらったのだろうか。押したりひいたり自由自在に言葉を操る。そして住友を説得すれば何とかなるという計算も働いていたようだ。しかたがなくわたしたちは彼に疑いを掛けることをやめて、以前のように付き合うことにした。もちろん、仲間として行動すること、奴らに近づかないことを誓わせた。しかし、考えてみれば何の解決にもなっていなかったのだ。住友はわたしに近寄ってきて「まだ信用した訳じゃないからな」と耳打ちしてからみんなに「暑くてやってられないぜ、今日はプールだ!」と大声を出して誘った。

区民プールは着替えの施設がぼろで気に入らなかった。それにいつも混んでいるが、家から近いし豊島区民ではないけれど小学生は料金が安いので頻繁に利用していた。何度もプールに行く計画は延期されていたのでその日は本当に久しぶりだった。急いで着替えをすまし足から水に入った。ひんやりとして身体を刺すような刺激を期待していたが、その日は暑さと混雑でぬんめりとした緊張感のない水質だった。

「何だ、風呂みたいだ」

「ぎゃあ、ぬるま湯だ」クジラも不平を言った。

それでもその日の暑さをしのぐには十分だった。相当に混雑していたので競争したり、まっすぐに泳ぐのは不可能だった。人をよけ、くねくねと曲がりながら平泳ぎでプールを横に往復したがどうしても誰かにぶつかってしまう。しかたがないので石を投げて拾う遊びをやった。これには裏技をつかった。同じような形の石をいくつか持っていて遠くへ投げる、探してうまく行かなければ持っているのを披露するというやり方だ。この掟破りの方法でわたしはいつも一番になれた。プールの二時間はすぐに過ぎた。

プールの帰りは必ずアイスキャンデーを買って食べるのがわたしの習慣だった。住友と富田は家に戻ったので、わたしとクジラはキャンデー屋に寄り道することにした。割り箸には長さ二〇cmほどの丸い筒状の白いアイスキャンデーが付いている。割り箸の先に当たりマークが入っていればもう一本もらえる。アタリ棒は割箸の先に焼き印のような焼き付いた「アタリ」の字が押してある。ある時期、大量に偽の当たり棒が出回ったことがあった。この事件以来キャンデー屋が警戒し、当たり棒のシステムを止めてしまった。真偽はわからないが、富田が半田ごてを使って偽造したという噂を聞いた。

プール隣の天祖神社の南側には広い空き地があった。空き地の廃材に腰掛け、ちんちん電車が通るのを眺めながら食べるアイスキャンデーは最高だった。けだるく疲れた体に甘い香りの糖分が全身を癒してくれる。プールで少し冷やされた身体はすぐにまた焼けてきて、肌の茶褐色に磨きが掛かった。

アイスキャンデーをしゃぶりながら、神社そばの空き地で休んでいると、角刈り頭にタオルでねじり鉢巻きをした姿の兄ちゃんが木箱を肩にかついでバールを手に持ち、駅の方から空き地につながる階段を上ってきた。板の切れ端を合わせて作ったような木箱を、体の大きなその兄ちゃんでもたいそう苦労してかついでいるように見えた。空き地のほぼ真ん中までくると木箱を大事そうに地面におろした。額には汗が吹き出しており、ねじり鉢巻きのタオルをとって顔と頭を拭いた。ランニング姿の首から肩にかけては木箱が食い込んだ跡がくっきりと赤い線になって見えた。木箱の上蓋をバールで丁寧にそして素早くこじ開けた。きゅっきゅっと音を立てながら釘が抜かれると、中からものすごい力で押しつぶされて詰め込まれていた籾殻が勢いよく飛び出してきた。そして少し小ぶりの青いリンゴも籾殻の中から顔を出しているのが見えた。たぶん駅前商店街の果物屋の従業員に違いなかった。汗を拭き終わった兄ちゃんはタオルを今度は腰のベルトに挟み、これから始まる退屈な作業を呪うような顔つきで、ひと息ついた後「おらよ!」と言って、箱を空き地の真ん中でゆっくりとひっくり返し籾殻の山を作った。空き地には木陰がない、太陽に照りつけられている籾殻の山の中からたくさんの青リンゴが出てきた。わたしたちはものすごく平和な気分でアイスキャンデーをなめながらその作業を眺めていた。果物屋の兄ちゃんは籾殻の中からていねいにリンゴを取り出して開いた空箱の中にひとつひとつ戻した。作業が終わると来たときよりやや柔和な顔になってリンゴの入った箱を肩にかついでもと来た道を戻っていった。それは、わたしたちのいる間に数回繰り返された。わたしたちはアイスをとっくに食べ終わっていた。

何回目かの作業の後、果物屋の兄ちゃんはわたしたちに声をかけた。

「おまえら暇そうだな」

「まあね」わたしが生意気そうに言った。

「おまえら手伝ったらリンゴやるから」そう言ってわたしたちを軽作業に誘った。

「どうすればいいの」元々わたしたちは何もすることはなかったし、その誘いに二つ返事で乗っていった。

「オレがここにリンゴ箱をひっくり返すから、おまえたちはその中からリンゴを探して箱の中に戻す。簡単だろ」

「わかった、探して箱に入れればいいんだね」

「ああ、傷つけないでな、丁寧にやれ」

果物屋の兄ちゃんがリンゴ箱をひっくり返して籾殻を空き地に広げた。わたしたちは籾殻の大きな山の中からリンゴを取り出しては箱に入れた。クジラの方を見ると奴も一生懸命に働いている。籾殻は暖かく乾燥していた。砂場の宝探しのようでこちらが入場料を払って遊ばせていただきたい気持ちだった。大人の仕事なんてチョロいものだと感じた。

わたしたちが楽しんでリンゴを探しては箱に詰めている間、果物屋の兄ちゃんはわたしたちがさっきまで休んでいた廃材の上に腰をおろしてタバコを一服しながら、遠くにみえる大塚駅に山手線の電車が出入りするのをぼんやり眺めていた。その態度を見ていたら仕事さぼって子供にやらせている搾取者のように思えて良い気がしなかった。

「おまえたちどこの学校?」また、大人の紋切り型の質問が始まったと思った。

「豊島小」わたしは瞬間的に嘘をついた。クジラがわたしの方を見た。

「オレの後輩だな?」

「ああ、そう」気のない返事をした。

「何年生?」

「六年」会話はそれ以上続かなかった。

わたしはすべてのリンゴを箱に入れたふりをして一つを籾殻の山の中に隠した。籾殻を探して自分が確保したリンゴ以外に確認できなくなったところでクジラに声をかけた。クジラも作業を終えていたようで、「もうない」と言うように手を横に振る仕草をした。

「終わったよ」とわたしたちは果物屋の兄ちゃんに声をかけた。

「ごくろう、じゃあごほうびだ」果物屋の兄ちゃんはそういって、わたしとクジラに商売には向きそうもないできるだけ不格好で傷物のリンゴを選んで一個ずつ手渡し、肩に空のリンゴ箱をかつぎ機嫌よく口笛を吹きながら帰っていった。

果物屋が帰った後クジラがわたしに言った。

「おまえ隠したろ」

「おまえもな」

「いくつ?」

「ひとつ」

「オレも」

わたしたちは味を占めて、また次に果物屋の兄ちゃんが来るのを待った。結局その日は二回手伝いをして四個の戦利品があった。

空蝉橋から春日通りに抜ける道は車がほとんど通らない割には幅広で、道路脇は近所の住民の駐車場と化していた。その中に数週間置きっぱなしの茶色の小型乗用車があった。たぶん古くなったのでそのまま放置してある車だと思っていた。タイヤは左前輪がパンクしたまま、埃りだらけでナンバープレートは外されていた。そばを通るときにいつも気になっていたが、ドアに手をかけて引いても開かなかった。ところがその日、皆と車のそばを通りかかると左ドアのウインドウが割られていてロックが外されていた。誰かが中の物を盗んだに違いない。

「おい、中に入れるぞ」住友がやや興奮しながら言った。

「やばそうだな」クジラが言った。

「オレが運転する」そういって住友が車のキーを探したがあるわけがない。

わたしも中に入り助手席に座った。ダッシュボードの中を探ったが、車検証も取扱説明書もなく古ぼけた地図が一冊あるだけだった。

「こりゃおもしれえ」クジラは車の屋根に上がったり、トランクに入ったりやりたい放題だった。

車を運転することは憧れだった。自宅には車は所有してなく健ちゃんのオートバイの後ろに乗せてもらうのがせいいっぱいだった。住友は運転席に座ってハンドルをにぎり、口でエンジン音を出しながら悦に入っている。唇を振動でふるわせぶるぶる言わせていた。まるで金魚鉢の中の金魚が口を上に向け空気を求めているようだった。車中はガラスが破られていたため細かい砂や土で汚れておりわたしたちの洋服はいっぺんに粉をかけられたように埃っぽくなった。

「おい、気分がでないな、外に出て車を揺らしてくれよ」住友が言った。

「おまえやれよ」わたしが住友のわがままを制した。

「じゃあ、じゃんけんだ」クジラを入れて三人で対決した。

結局、わたしが負けて外に出た。後ろのバンパーの上に立っておもいっきり体重をかけてクッションを利用して揺らした。

「どうだ、気持ちよかったか?」わたしが叫んだ。

「うん、最高だけど、もっともの凄くやってくれ」住友が要求した。

こんどは車の前に回って、前方のバンパーに足をかけて揺らした。ウインドウ越しに子供が一生懸命になってハンドルを握りしめている姿を見ていると、なんだか滑稽に見えた。揺らしているとボンネットのロックがはずれているのがわかった。揺らすのを止めボンネットを上げると機械がぎっしり詰まっているのが見えた。住友が車から出てきて二人で中を覗き込んだ。

「これがエンジンで、これがキャブレター、これがバッテリー」住友は、聞きもしないのに次々と部品の説明をしていった。かなり詳しいようだった。そう言えば住友の家には自家用車があるし、オヤジは自動車会社に勤めている。

「このバッテリー使えそうだな」

「なにに使うの?」

「明かりをつけたり、電気の実験をしたりできるのさ」と住友が解説した。わたしはそれがとても貴重品のように思えた。

「もらっていこうよ」

「はずせないかな」

「トランクに工具があるはずだ。クジラ見てこいよ」住友が言った。

クジラがマイナスドライバを持ってきた。住友はドライバーを使ってバッテリーを止めてある部分と配線されている部分を丁寧に外しバッテリーだけを取り出した。

「まだ使えそうだ、ショートさせるなよ」

道にバッテリーを置き、ボンネットをすごい音を立てながら閉めた。この戦利品を使っていろいろ遊べそうだ。それに、わたしは住友の実験という言葉に大いに惹かれ、夏休みの工作に利用することも思い浮かべ楽しい気分になった。

「運転の続きをやろうぜ」

「揺さぶり要員交代!」とわたしが号令を発した。

運転席の気分は上々だった。キーを入れて回し、エンジンが掛かる音を口でまねした。ハンドルの下を見ると、キーボックスとドアの間に蜘蛛の巣が張っていた。こんなところで獲物はあるのだろうか。考えていると、さっきからの騒動に驚いたのか一匹の蜘蛛が這い出してきた。やや大きめの家蜘蛛だった。捕まえようとすると蜘蛛はジャンプして住友の腕に留まった。住友が驚いてのけぞり「ぎゃー」と言って、わたしに何とかしてほしいと懇願した。わたしにとって蜘蛛は友達だった。憎めない生き物なのだ。蝶々は嫌いだった。羽化する前は毛虫だし、羽は壊れやすいし、なにより吹き出す羽の粉がいやだった。カブトムシは怖かったが蜘蛛とミミズは全く平気だった。住友がたたき落とそうとしているのを制止して、わたしがつまみ上げて手のひらに乗せた。一センチほどの蜘蛛だが殺したくはなかった。蜘蛛は益虫という概念があったので、そのために親しみが湧くのだろう。祖母から朝の蜘蛛は縁起がいいとか、蝿とか蚊などの害虫を捕ってくれる益虫だから大事にしろといわれてきた。指で柔らかく捕まえてウインドウから手を出して外に逃がしてやった。蜘蛛は糸を曳いて初夏の風に乗って公園の方に飛ばされていった。

クジラが外に出て今度は車の横に立って揺さぶった。力一杯やるが非力なのもあって全然迫力がない。今度は車の屋根に乗ってジャンプを始めた。屋根上でがんがん鈍い音が響き、埃が落ちてきた。そのうち天井が少しへこみだした。

「うるさいだけだ、もっと何とかしろ!」住友が後ろの席でふんぞり返って怒鳴った。

「屋根がぼこぼこになった、オレ知らねー」クジラが楽しそうに叫んでいる。

「だからもっと揺らせよ、後ろのバンパーがいいぞ」

「わかった」クジラは車の屋根から降りて後ろに回り、最初にわたしがしたようにバンパーの上に立って揺らし始めた。

「それ、それ、いい調子だぞ」すっかり運転している気分になり、楽しくなった。

「もっともっと」と言いながらハンドルを左右に切り続けた。小さい揺れに混じってときどき大きな波がやってきた。

「いいぞー、クジラ」言いながらも変な予感がした。クジラがこんなに力があるはずがない。バックミラーを見ると自分の顔が見えた。ゆっくり後ろの窓が見えるようにミラーを調整すると、泣きそうになっている顔のクジラの隣にどこかで見た顔の、からだの大きい子供が一緒になって車を揺らしている。

「だれだ?」後ろを振り返ると住友は気づかずに足を組んで、専用車の後席でくつろいだ会社社長のような体勢でふんぞり返っていた。

「おい、なんだか外の様子がおかしいぞ」わたしは後ろの席で相変わらずくつろいでいる住友に言った。

「なにが」と言いながら住友は後ろを振り返った。

「やばい、隣の学校の奴らだ」

「おすもうさんだ」その叫びが終わる前に、屋根の上からもの凄い衝撃音があり天井が大きくひずんだ。わたしたちは思わず頭を手で覆った。

ドライブが最高潮になっていたところで、豊島小学校の奴らが来たのだ。ここは豊島区で奴らの学校にも近い。彼らのなわばりだった。

「おまえら、こんなとこまで遊びに来ているのか」車の外から大きな声がした。彼らだということはすぐわかった。彼らは小川を入れて四人いた。形勢は不利だ、面倒なことになる前に早く逃げる方がいい。

「悪いかよ!」住友が、気負って言った。

「だれの車だこれは」小川がドスの利いた声で言った。

「オレたちが見つけたんだ」クジラが応した。

「おや、こないだの泣き虫のお兄ちゃんじゃないか」小川がクジラを見て言った。

「お顔の傷はもう治ったかい?」長谷川もにやにやしながら近づいてきた。

「おい、じゅん、こないだはよくも逃げたな」小川がすごんだが、わたしは何も答えなかった。

「人の車こんなにして、まずいんじゃない」ソバ屋の玉木が口を出してきた。

「壊れてたんだよ、知ってるくせに」わたしも負けずに口をトンがらせた。

「一ヶ月前から置きっぱなしだよ」

「あんまり、オレたちのなわばり荒らすなよ」長谷川が肩を揺らしながら言った。そして長谷川は道路脇に置いてあるのバッテリーに目をつけた。

「いい物があるな、これもらって行こう」長谷川が勝手に持ち帰ることを宣言したが、わたしたちは誰も反発しなかった。

「とってこい」玉木が黒縁メガネに命令した。

黒縁メガネは言われるままに、バッテリーを重そうに持ち運び、まるで儀式のように両手でうやうやしく差し出した。

「なんだよ、おまえが運ぶんだよ」小川に言われて黒縁メガネは不満そうに言った。

「でも重いよ」

「だから?」みんなから無視されそれで会話は途絶えた。やはり、黒縁メガネはいじめられていると思った。

「バッテリー少しは金になるかなあ」小川が言った。連中の動機は不純だ。わたしは、実験に使うと思ったのに。しかし多勢に無勢、わたしたちは逆らえずに彼らの行動を見守っていた。彼らはそれ以上わたしたちにはかまわずバッテリーを運んで帰っていった。

「ちきしょう、なめやがって」住友とクジラが同時に言った。

「もう帰ろう、つまんねえ」

「今日の遊びは終わりだ」

「やつらはいつもつるんでいる。一人じゃ何もできやしない」

「情けないよな」クジラが憤慨して言った。つるんでいるのはわたしたちも同じような気がした。でも三人は自由だ、拘束されることは何もない。

「それに奴らには完全に序列がある、オレたちは平等だよな」クジラはわたしたちのグループの優位性を盛んに主張した。

「黒縁メガネなんて完全に奴隷だよ」

「奴ら楽しそうじゃないよな、それが決定的な欠陥だ」

「うん、あの黒縁メガネは完全にいやがっている」

「ともかく、奴らこのままじゃ置かねえ」住友が強がったが、何をするすべもなかった。わたしたちは打ちひしがれたまま、帰途についた。

第九章   仕返しの作戦

次ぎ日の放課後、わたしたちは大塚公園に集まった。キャッチボールをする予定だったがいっこうにボールを投げようとする者はいなかった。グランドにつながる石の階段に座って、ほかのグループの草野球を眺めていた。階段の脇溝には高台にある噴水からの水が勢いよく流れていて、じっと見ているとしばらくのあいだ暑さを逃れられるような気がした。

わたしたちの怒りと敗北感は頂点に達しており野球どころではなかった。放置自動車の件でわたしたちの遊びを邪魔されたのが我慢できなかった。

「もうやるしかない」住友が思い詰めたように言った。

「これ以上ほっといたら、あいつらのやりたい放題だよ」わたしも思いっきり声を低くして押し出すように言った。

「でも、体のでかいやつには勝てっこないよ」クジラはため息をついた。

「小川のことか? あいつ小さい頃は弱虫だったんだけどな。こんどぶちのめしてやろうぜ」わたしはそう言いながら運動靴と靴下を脱いで流れる水に足を入れて堰き止めた。火照った足が冷やされると身体全体に活力がみなぎってくるようだった。堰き止められた水はすぐにあふれて階段に広がって流れた。

「最近、体もすごく大きくなってるし、柔道も強いっていうじゃないか」とクジラが弱々しく付け足した。

「知恵を働かせるんだよ」と住友が言った。

「仲間は富田を入れたって四人しかいないし、勝てない喧嘩したってしょうがない。オレはやらないよ」とクジラは相変わらず消極的だった。

「富田? あいつは入れない方がいい」わたしはまだ富田を信用していなかった。

「じゃあ三人でやるのか、絶望的だ!」

「何か作戦があるのか?」わたしは住友に訊いた。

「不意打ちをくらわすんだ」住友は左手のグローブに軟式ボールを何度もたたきつけて言った。

「いつ?」「どこで?」わたしとクジラが矢継ぎ早に訊いた。

「こんどの縁日でやる」住友がきっぱりと言った。

次の大塚駅前の縁日は七月一七日の日曜日だった。

「あさってかい、どうして?」素朴にわたしが訊いた。

「何で縁日に奴らが来るってわかるんだよ?」クジラもたたみかけた。

「おまえら、耳の穴かっぽじってよく聞けよ。昨日帰ったあと、松屋デパートに行ったんだよ。そうしたら偶然、ヤツに会った」

「だれ?」

「おすもうさん、小川だよ。三階の売り場でお袋さんらしい人に、金魚鉢を買ってもらっているのを見たんだ。これは奇跡というか、神様の思し召しというか」と住友は得意そうに言った。

「だから?」

「だから、あいつは必ず金魚すくいをやるはずだ」

「どうして?」わたしとクジラが同じ質問を繰り返した。

「まだわからないのか? おまえらほんとにボケナスだな」住友がクジラとわたしを一緒にしたのは気に入らなかった。

「母親が金を払っているとき、金魚は今度の縁日で取ってくるように言っていたんだ」

「ふーん、意外と準備いいヤツだな。オレなら金魚すくってから入れ物を買うことを考えるけれどなあ」クジラが感心して言った。

「だから、あいつは必ず今度の縁日で金魚すくいをやるはずだ」

「うーん、そして?」わたしはアイデアが出て来ずに笑った。

「金魚すくいに夢中になっているところを後ろから押すんだ」住友はそう言ってわたしの肩を強く押した。

「あいつは金魚すくいの桶に頭を突っ込む。馬鹿でかい体だから桶から金魚があふれて大騒ぎになるはずだ。な、いい考えだろ」

「頭ぶつけた上に金魚すくい屋のオヤジに怒られる」わたしが付け加えた。

「そしてそれを見届けて、オレたちは逃走する」住友が続けた。

「仕返しされるぞ」とクジラ。

「縁日だろ人が多いし、誰がやったかわからないさ」

「まあな」

「それにやるときは、お面をかぶるんだよ」住友は浅黒い肌によく似合う白い歯を出して笑った。

「うんうん、スミおまえ頭いいな」ニヤニヤしながらクジラも話に乗ってきた。

「もし見つかって、追いかけられたら?」わたしはさらに念を押した。

「うーん」住友はまた、グローブにボールをたたきつけた。ぱしっという乾いた音がした。

「むしろおびき出したらどうだ、だめ押しに」わたしがアイディアを出してみた。

「よし、もし奴らが追ってきたら、神社の裏に逃げ込むからクジラは先回りしてそこで待ってろ」

「そして?」

「ロープ作戦だ」

「ロープ?」

「オレがおびき出して、駆け込んでくるから、神社の庭の狭い道にロープ張って準備しているんだ」

「おうよ!」クジラが威勢良く叫んだ、

「来たらロープで転倒させる」住友は階段の下まで降りていき走って転ぶまねをした。

「転んだら、砂かうどん粉を目つぶし食らわせて、後は袋叩きだっていうのはどうだ」わたしもグランドに降りて、砂をつかみ住友に掛けるまねをした。

「ついでに胡椒の粉もかける。これは利くぜ」クジラが武器の追加を申し出た。

「おもしろい、やろうぜ」住友も賛成した。

「よし、お面を買おう」クジラが叫んだ。

「そうだな、顔を見られないのに越したことはない」わたしも理知的に同調した。

「奴ら何人で来るのかな?」

「そんなのわからないけど、一人じゃないだろ」

「ともかく、準備をしよう」

わたしたちは、前持って縄跳び用のロープと小麦粉、胡椒を分担して持ち寄り、お面は縁日でそれぞれ気に入ったものを買うことにした。

「戦う武器はどうする、オレ兄貴の竹刀と木刀があるよ」クジラが言った。

「よ! 剣道の達人」わたしがはやかした。

「無手勝流だ、武器はいらない」住友が言った。

「ナイフはどうする」クジラが言った。

「まずいよ」わたしが常識的に答えた。

「じゃあ、ピストルは?」「機関銃も」「火炎放射器なら一発でしとめられる」話は止めどもなく発展し、わたしたちは存分にそれを楽しんだ。作戦は必ず成功すると信じていた。

「そんなに武装したいなら、駄菓子屋で売ってる疳癪玉でも持って来な」わたしが言った。

「お守りぐらいにはなるかもな」住友が言った。

「ネズミ花火か爆竹って言った手もあるなあ」クジラもたまには良いことを言う。

「2B弾も持っていこう」わたしもだんだん楽しみになってきた。

「やつらの横暴は、もう許さない。最高の計画だ、失敗するはずがない」住友は重々しく言った。

わたしのそれまでの経験では、この手の計画は予測通りに行ったことがなかった。予測通り行くのは食べ過ぎた次の日の腹痛、朝寝坊のあとの遅刻、勉強しないで受けたテストの結果とか悪いことばかりだ。すばらしい結果が予測される計画などうまく行くためしはなかった。しかし、このときの作戦は完璧なように思われた。これ以上の方法は見あたらないし、必ず成功するとわたしたちは確信した。

駅前は、夕方の行楽帰りの人々や買い物客で混雑していた。七の日は天祖神社の縁日で、その日は日曜日と重なったためたいそうな賑わいと活気があるようにみえた。

わたしたちは、人だかりがまばらな瀬戸物売り場のところへ集合した。そこは出店の中でも駅から離れた道路沿いの場所で、賑わいも少なかったので仲間を見分けるのが容易だった。わたしが集合場所に着くと、クジラと住友が茶碗を手にとって話し込んでいた。子供が二人で茶碗を物色しているのは何とも怪しげな風景だった。声をかけると偶然に出会った友人を見るような目をして驚き、一呼吸してから「なんだ、じゅんか」と言った。最初からの約束の場所で会ったのに二人は妙にびくびくしていた。作戦がいよいよ決行されるので緊張しているのだろうか。それとも住友が動物の絵が付いた茶碗を持っていた照れくささなのだろうか。ともかくわたしも含め皆落ち着かない様子だった。

「一応、富田にも声をかけたから」クジラが言った。

「ええ? やばいよそれ」わたしは拒否反応を示した。

「オレが頼んだんだよ。まあ仲間は多い方がいいじゃないか」住友が頼んだなら仕方がないとわたしは思ったが、よけいな不安材料だ。

「人によるよ。スパイだったら筒抜けになるぜ」

わたしたちは富田を待っていたが一向にやってくる気配はなかった。

「どうせ、あいつ来ないよ」わたしは投げやりぎみに言った。

「ああ、来たら本当の仲間にしてやって、宝を分けてやってもいいのにな」住友が言った。

「富田にも言ったんだよ、加勢すれば宝を分けてやるって」クジラがさらりと言ったが、住友は見逃さなかった。

「おい、ちょっとそれまずいぞ、今日の計画のことは話してないんだろうな。それに宝のことも話したのか?」

「いや、あんまり。縁日行くから来られたら来いっていっただけさ」

「あんまりって、隠し場所なんか言ってないだろうな」

「ああ」クジラが鼻の汗を手で拭きながら言った。

「よし、最初から当てにしてないさ」

「じゃあ、出発だ」

「気勢でも上げるか」わたしたちは小さな声で「エイエイオー」と鬨の声を上げた。

わたしたちはお面を買わなければならなかった。だるまの置物屋と、キーホルダーなどの土産物屋の間にお面屋があった。わたしは一番安い月光仮面のお面を買ってお金を払っていると後ろから肩をたたかれた。振り向くと、林久美子と関順子だった。

「ああ、久美ちゃん、あれ関さんも!」わたしは肝を潰していた。

「あら、住友君と鯨岡君も一緒なの?」

「おう、おまえたち二人で来たのか?」住友が粋がって言った。クジラはいかにもまずいなという顔をした。

「そうよ、何でお面なんか買っているの?」

「まあ、いいじゃない、従兄弟のおみやげだよ」

「なんかウソっぽいけど、それよりじゅんちゃん、このあいだ今度おごるよっていってたよね」

「ああ、ギズの手当してもらったときのことか」

「そうそう、あんみつか、かき氷だったよね、でも今日は焼きそばでもおごってもらおうかな。いいでしょ?」久美ちゃんが率直に申し出た。

「いいけど」そう言って住友の方を見ると「だめだ」と声を出さずに口を大きくぱくぱくさせて意思表示していた。

喧嘩の計画は男だけしか知らなかった。林久美子は浴衣を着てきた。関さんは相変わらず柔らかそうにふっくらとしたブラウスとスカートだ。わたしたちはそのまま一緒に歩き始めた。喧嘩とはほど遠い、何とものんきな集団に見えた。「なんで、一緒になっちゃうんだよ」住友がわたしに言った。

「しょうがないじゃないか、ついて来ちゃったんだから」わたしは自分の意志でないことを主張した。

「喧嘩だろ、忘れたのか」

「ああ、わかってる」

通りすがりに金魚すくいとヨーヨーすくいの屋台をのぞいてみたが、連中の姿が見えなかった。

「今日はこないよ、焼きそば食べよう、腹が減ったよ」クジラが言った。

「まだ六時前だぜ、早いよ」

「それより、用意した物はあるのか」

「うん、縄とうどん粉と胡椒、神社に隠してある」

「よし」住友がどこかの親分みたいな口調で偉そうに言った。

「何、こそこそ話してんのよ」突然久美ちゃんが会話の中に入ってきた。「あんたたち、またへんなこと考えてんじゃないでしょうね」

「なんのことさ」わたしが訊いた。

「懲りずに、万引きするんじゃないでしょうね」久美ちゃんは健ちゃんから万引き事件のことを聞いて知っていた。

「冗談言うなよ」

「はら減ったよ、何か食べようぜ」クジラが繰り返した。

「さんせー」関さんのかわいげな反応でわたしたちは屋台を物色し始めた。

最初に目に入ったのは大判焼き屋だった。小倉あん、白あん、クリーム入りなど多くの種類を夫婦で焼いており、たくさん仕上がってケースに並べられていた。その隣がチョコバナナやジャガイモ焼きなどという得体の知れない屋台が続いた。焼きそば屋は出来上がりのそばを盛っている最中でたいそう混んでいた。子供たちに混じって大人も物欲しそうな顔をして焼きそばのじゅうじゅうする音に聞き入りながら並んでいた。そのとなりのお好み焼きも人気があって行列が出来ていた。ちょうど焼きあがったようで中年のオヤジさんが忙しそうに鉄板上に作ったお好み焼きにソースや青海苔をかけているところだった。焼きそば屋のオヤジの額に丸い汗の粒が光っているのが遠くからでも見えた。キャベツと濃いソースが焼けている、それに紅生姜に鰹節、天かすとすべてのにおいが絡まってお好み焼きへ引きつけられていく。

「お好み焼きにしよう」わたしが言った。

「メチャクチャ、混んでるよ」住友は待つのが嫌なようだった。

「夜は長いって」

「隣はすいてるぞ」クジラが水飴屋を指さして言った。

どういうわけかその隣の水飴屋は道路に水たまりでもあるかのようにぽっかりとあいており客がいなかった。だいだい色の模造紙に墨汁で「あんず飴」と書いた手作りの看板が立っていた。

割り箸を半分の長さにした棒に刺したあんずにとろけた水飴を巻いて氷の台のうえに整然と並べてある。中身はあんずだけではなくさくらんぼ、ミカン、スモモが色鮮やかに置いてあった。前列に並べられた果物の缶詰は外国製のようで、英語で中身を説明してあるようだった。売り子のおばさんの前には大きな金ダライのような入れ物があってそこには水飴がたっぷりと入っていた。おばさんは腕に金色のブレスレットをつけ、ふくよかな丸い手でスモモに棒を刺しそして器用に水飴を取って着色料で真っ赤に着色されたスモモにくるみ氷の台に置く動作を繰り返していた。

わたしは縁日に来ると売っているものよりも、そこの売り子のことを考えてしまう変な癖があった。おばさんは若そうだけど三十代前半なのだろうか、ずいぶんおしゃれしているけれど結婚はしているのだろうか、どうしてこの仕事に就いているのだろうか。そんなことを考えながらずっとその動作に見とれていると、ほかのみんなも集まってきた。おばさんはわたしたちに向かって「ゲームもあるよ、当たればもう一本もらえるよ」そう言うとわたしたちの頭越しに遠くの客に「いらっしゃい、当たればおまけが付くよ!」と大きな声で呼び込みをした。だんだん客が集まりだした。わたしはそろばん塾の帰りに健ちゃんに買ってきてもらう甘酸っぱいスモモを思い出した。

「おばちゃん! スモモひとつ」わたしは勢いよく言って握りしめていたお金をつきだした。

「あいよ!」と言っておばさんはお金を受け取ると、氷の台にあるスモモをくるんだ水飴を一本取ってわたしに渡し「じゃあ、このゲームやってね」と商品ケースの前に置いてある円盤のようなゲーム機を指さした。

ゲーム機といっても子供が夏休みの自由研究で作った木製ルーレットのようなもので、軸をつかんで回すと中の矢印が回転し、円を一六分割ほどしてあるどこかに納まる。その中に「はずれ」と「一本」「二本」「三本」の位置があり、矢印がそのどこかに収まるという代物だった。「はずれ」の場所がほとんどで「一本」の当たりは三箇所、「二本」の当たりは二箇所、「三本」の当たりは一箇所しかなかった。わたしはこの手のゲームで当たった試しがない。神様に祈りながら勢い込んで回した。

案の定「はずれ」で追加の飴はもらえなかった。

「坊や残念だね、またどうぞ」おばさんは機嫌良さそうに言った。坊やという言葉に少しこだわっていると「オレもやる」と言いながら後ろから住友がわたしの背中を押しながら進み出てきた。やつは飴よりゲームの方に興味があるらしい、根っからのギャンブラーなのだ。住友はミカンを注文しルーレットに向かった。

「じゅん、こういうのはおもいっきりやらなくちゃだめなんだ。いいかよく見ろよ」自分はプロだとも言いたげに片手に水飴を持ちながらルーレットの木の軸をいじくりまわした。

「関係ないよ、確率が悪すぎるんだ」わたしは言い返した。

彼が思いっきり回すと中の矢印はカラカラと乾いた音を立てて回り、スピードを徐々に緩めた後、青く塗られた地の色に白抜きで「三本」と書かれた場所に固定された。

「ヒヤッホー!」住友が叫んだ。

「やったね兄ちゃん、三本おまけ、何にしますか」おばさんが負けずに大声で叫んだ。「久美ちゃん、何にする?」住友が林久美子に向き直り注文を取った。

「いいの?」

「何でも注文しろよ」

「じゃあ、わたしもスモモ」久美ちゃんが言った。

「関さんは?」

「じゃあ、ミカンお願い」関さんが幼児声で言った。

「クジラ、おまえも頼めよ」

「いいのかい、兄貴」いつの間にか住友は兄貴分になっていた。

水飴屋のおばさんが何で住友を「兄ちゃん」と呼びわたしを「坊や」と呼んだのかを考えていた。おばさんの三〇代の人生なんてもうどうでもよく、わたしはお好み焼きをやめて水飴屋を選んだことに後悔し始めていた。

「ありがと、住友君」久美ちゃんと関さんが水飴をなめながら言った。

「いいってことよ」住友は上機嫌だった。

わたしたちは水飴をなめながら、再び金魚すくいの屋台の方に向かった。みなスモモの着色料で舌と唇が真っ赤になっていた。久美ちゃんは赤く染まった唇が浴衣姿によく似合い、中学生か高校生のように見えた。水飴では腹が膨れないわたしたちは次に何かを食べようと屋台を探索しながらぶらぶら歩いていた。

「そろそろ別行動の方がいいんじゃないか」わたしは住友にアドバイスした。久美ちゃんたちは一緒にいると邪魔だし、計画がばれそうな予感がした。それにこのままだと計画は実行されずに「復讐の縁日」がただの楽しい縁日に変貌してしまう。住友も承知していて「そうだな」と応じた。

「あのー、久美ちゃん、じゃあオレたち駅の方に行くから」住友が言った。

「えー、お好み焼きおごってくれないの?」久美ちゃんが甘えるように言った。

「もうすいてきたかも」関さんも一緒に行きたそうだった。

「こんどね」わたしが幼児を宥めるように言った。

「もう、帰るの?」

「いや、そうじゃないけど」

「ふーん変なの、じゃあまたあとでね」久美ちゃんが不思議そうな顔をした後ニッコリしながら諦めて言った。

久美ちゃんたちはお好み焼きの屋台の方に向かい、わたしたちは金魚すくい屋の方に向かった。

そのとき突然、住友が「おい、やつらだ」と押し殺したような声で言った。「大勢いるぞ」とクジラが付け加えた。わたしはぎくりとして今までの空腹感が吹っ飛んでしまった。やはりその日は普段の縁日とは違うのだと改めて思った。

奴らはわた飴を食べながら神社の方に向かっていた。神社の近くには金魚すくいがある。わたしたちが立てた行動計画が現実味を帯びてきた。

豊島小学校の連中は、いつもの四人組に加えてあと数人が来ていた。

「まずいよ、大人数だ。今日はやめて遊んで帰ろう」クジラが弱気になってきた。

「うーむ、そうだな」わたしも同調しそうになった。

「冗談じゃない。今日じゃなきゃ、いつやるんだよ?」住友が怒りだした。

わたしたちは彼らを気づかれないように尾行を始めた。

小川と仲間たちは綿飴を食べ終わると、金魚すくい屋の前で足を止めた。予定通りの行動になるのだろうか。

「オレ、金魚すくいやるから、おまえたちどうする?」小川が言った。

いつもの四人組が行動をともにし、他の連中は別行動になった。

「おいチャンスだ、人数が少なくなったぞ。やめる理由はどこにもない」住友が言った。

「よし、決行だ」わたしも同調した。

「クジラ、神社で用意していろ」と住友が命令した。

「おう」と言ってクジラは神社に向かって駆けだした。

彼らは前の子供たちが終わるのを後ろで待っていた。しばらくして彼らの番になり、針金と薄い紙で作ってあるワッカの金魚すくいを手に持ち小川が桶の前に進み出た。

「おい、始めるぞ」と住友が言った。

小川が金魚すくいをまさに始めようというところだった。わたしは月光仮面のお面をかぶった。住友はひょっとこのお面をかぶった。

「チャンス到来だな」わたしがつぶやいた。

「じゃあ、おまえやれよ」住友がわたしに言った。

「まさか、いいだしっぺがやれよ」わたしは反論した。

「言ってみただけだよ、心配するな」と住友が言い、実行犯になることになった。

住友は金魚すくいをやるようなふりをして小川の後ろに近づいた。小川はつま先を立ててしゃがみ込み、金魚すくいに夢中になっている。住友は無防備な小川のお尻の下に、そっと手を入れて持ち上げ、そして前へ強く押した。

「うわー!」小川は叫び声をあげ、金魚すくいの桶に頭を突っ込んだ。大きな体をそのまま倒れるようにあずけたので、四角い桶が大きく揺れ中の水と金魚がこぼれ出した。驚いてのけぞった客が後ろの客を押したため数人が将棋倒しになった。ヤツの仲間や同時に金魚すくいを楽しんでいた子供たちも水と金魚をかぶりあたりは大騒ぎになった。桶にあった半分以上の金魚が道にばらまかれた。住友とわたしたちは騒ぎに合わせるようにして後ずさりしてその場の様子を眺めていた。周りの子供たちが巻き添えになったことが少し気になったが、まさに痛快、大成功だ。異常な騒ぎに周辺にはいつの間にか人だかりができ始めていた。わたしたちは人だかりに阻まれ外に出られなくなった。

「金魚を桶に戻せ!」誰かが叫んだ。

「バケツを持って来い!」「桶に水を足せ」

「金魚を踏むな!」あちこちから怒号が飛んだ。

「おい、ぼうず何やってるんだ。気をつけろ!」金魚屋のおやじが小川に文句を言っている。

「後ろから押されたんだよ」小川が言い訳をしながら金魚を拾っては桶に戻していた。周りの子供たちも面白がってはねる金魚をつかんでは桶に投げ込んでいた。

小川は金魚を拾う手を止めて、後ろを振り返った。ひょっとこのお面をつけた住友を見ると「おまえ、お面取れよ!」と凄んだ。

「関係ないだろ!」住友が拒否したが完全に怪しまれていた。

「てめえ押したな」小川が言った。

住友は少しビビリながら「ちがわい」と言ったあと「勝手に転んでなにいってんだよ」と言い返した。

「お面の奴ら小川君の後ろにいたぞ」黒縁メガネのチビが叫んだ。

「だからどうした」お面をつけていたので強気にわたしが言った。

「てめえらちょっとこいよ」長谷川が言った。

「行くぞ!」住友が叫んで、それを合図に人混みを無理矢理かきわけて人だかりの外へ出ようとした。

「このヤロー、ちょっと待て!」小川は興奮して息を切らしていた。

わたしと住友はその言葉を無視して駆けだした。追いかけてくるかと思ったら彼らは躊躇していた。それを見て住友は挑発的に「ばかやろー、金魚の代金弁償しとけ!」と言い放った。それを聞いて彼らは、わたしたちが犯人であることを確信したのか、ものすごい勢いで追跡を始めた。

「きたぞ、神社だ」わたしと住友は猛スピードで神社に向かって走り出した。

空き地を通って突き当たりを左に曲がり、神社の階段を上がって、反対の出口に抜けると神社の庭の狭い道に向かった。彼らも懸命に追いかけてきた。小川を先頭に三人ぐらいの様子だった。

「いいぞ、作戦通りだ」

細い抜け道に来たところで、なわとびを用意しているはずのクジラに声をかけた。

「来たぞ、すぐ後ろだ」そう叫んでわたしたちはすぐそばの茂みに飛び込み、用意してあった水の入ったバケツを住友が、小麦粉入りのバケツをわたしが手にとって身構えた。クジラが茂みの中に待機していた。クジラは準備をするとき楽しげに木の枝にロープを巻きつけ、高さを調節したりして、引っ張るタイミングを練習していた。失敗するはずはなかった。

「クジラ頼むぞ」とわたしは声を掛けた。

「まかしとき」とクジラが答え思いっきり引っ張った。ロープは地上二〇センチくらいのところにピンと張った。そしてその瞬間彼らが駆け込んで来た。最初に小川が縄に足を取られてつまずき、後から駆けてきた奴らは次々とその上に倒れ込んで行った。そのとき、住友が用意してあったバケツの水を彼らにかけ、そのあとわたしがもう一つのバケツいっぱい入っていた小麦粉を彼らにまぶした。小麦粉は長い間おいておいたせいか固まって放り出された。しかし彼らに命中すると、塊がいっぺんに砕け、白い破片となって、最後は粉になって巻き散らされた。周辺は白い水蒸気が上がったような状態になった。最後の仕上げにクジラが胡椒の粉を大量にばらまいた。

「なんだ、これは!」

「プハー、のどが詰まる」彼らは咳き込みながら涙を流しているようだった。

思いがけない攻撃で、先頭の小川は面喰らい、小麦粉で目が見えずその場にうずくまった。頭を上げるとおもしろいように真っ白で目と鼻の穴の位置だけが確認できる顔になっていた。

「天ぷらを揚げる用意が出来たぜ」住友が勝ち誇ったように言った。

「さあ、引き上げるぞ」住友が逃走の指示を出した。わたしもくしゃみと咳で顔が腫れ上がりそうだったがお面が役に立ち大きな被害を最小限に食い止められた。

小麦粉と胡椒の攻撃は彼らを完全に戦闘不能にするはずであった。ところが小川は一瞬ひるんだもののすぐに立ち上がり追っ手を捜し始めた。

「このやろー、どこだ、出てこい」小川とその仲間たちは次々に立ち上がると体勢を立て直して再び追いかけようとした。しかし彼らは方向感覚を失い神社の周辺をうろうろするばかりだった。わたしたちは彼らに見つからないように茂みの中を横切り境内を抜け電車通りから再び縁日の雑踏の中に紛れ込んだ。

「もう、大丈夫だろう」お面を外しながらわたしが言った。住友もお面を取ったが胡椒の粉を吸ったせいか目が真っ赤に腫れ上がっていた。

「危なかったけど、なんとか成功だな」

「バケツとロープは明日取りに来よう」

「顔は割れてないはずだ」

「あれ、クジラは?」

「捕まったか?」

わたしと住友が思案しているとクジラのカエルのお面が遠くに見えた。何とか逃げ切れたようだ。

「あいつ何やってんだ、早くお面はずせってーのに」住友が舌打ちした。

最後は手間どったが、想像以上の成功にわたしたちはその日の成果にとても満足していた。いままでの胸のつかえがなくなった。

その日は意気揚々と帰ったが、本当はここからが事件の始まりだった。

第十章 決闘の日

その日は一学期の終業式だった。待ち望んでいた夏休みの始まりで気持ちは高ぶっていた。そんなそぶりを見せていないようなやつも多い。「学校があるほうが退屈しない」などと信じられないことを言う輩もいる。わたしにとっては一年間で最高に楽しい瞬間だった。一学期の成績なんてどうでもいい。ふつう程度の勉強すれば問題ない。気になるのは通信簿に書かれた担任からの一言だったが、そんなことは夏休みが始まろうとしている有り余る自由で膨大な時間の前にはどうでもいいことだった。

手始めにその日は健ちゃんの家で泊まり込むことにしていた。母親は反対したが健ちゃんの父親からの直接のお願いもあり外泊が可能になった。健ちゃんの父親は一週間の出張で、監視役を兼ねた遊び相手としてわたしが必要だったのだ。もろもろは近くに嫁いでいる姉の珠恵さんが面倒を見てくれる。夕食の準備をしたあと珠恵さんは帰る。今晩はわたしが泊まることになったので二人分の夕食を用意しておいてくれているはずだ。健ちゃん宅での夕食の前に、みんなと午後に空蝉橋で遊ぶ約束をしていた。

「崖崩れってそんなにひどかったの?」久美ちゃんが聞いた。

「ああ、応急工事をしただけで、まだそのままだからいい遊び場になってるんだ」

その日は終業式の後、空蝉橋の遊び場を見せようと林久美子にも声をかけて連れてきていた。

「たのしみね。ほかに誰か遊びに来るの?」

「うん、住友と、クジラが行ってると思う」

「いつものメンバーか。仲がいいのね」久美ちゃんが退屈そうに言った。

「それに、ものすごい宝物もある」気がとがめたが久美ちゃんの気を引くため秘密を漏らしてしまった。

「宝物って?」久美ちゃんが少し身を乗り出していった。

「ああ、ブリキ缶に遊び道具がいっぱいさ」

「ブリキ缶に?」

「だから、この夏休みはここでどんどん遊ぼうよ。崖の修復が本格的に始まったらそれまでだけどね」わたしは得意げに言った。

「つかの間の楽しみってわけね」

「夏休みは明日から、長いんだ。それに工事はなかなか始まりそうもないしいっぱい遊べるよ」

「今年の夏休みは、短いかも」久美ちゃんが乾いた空を見上げて言った。

「なんで? この猛暑なのに」

「はは、そうじゃなくて」久美ちゃんは思わせぶりに笑いながら言った。区民プールから右に折れると崖崩れ現場が見えてきた。

「だから、どうして」

「忙しくなりそうだし」久美ちゃんが言いかけたとき、クジラが息を切らして崖の下から重力に反して駆け上がってきた。足の回転は忙しいのになかなか近づいて来ない。

「おい、全部なくなってる、おまえどこかに移したのか!」クジラは相当慌てていた。久美ちゃんの存在も駆け付けてきたとき野球帽を風で飛ばされたことも気づかなかったようだった。

「なんのことだよ」

「だから、オレたちの宝のことだよ、何処か他に隠したとか」

「いや、なにもしてない」

「なんてこった!」クジラは目を丸くした後、眉間にしわを寄せそして肩を落とした。

「住友は?」わたしは聞いた。

「下にいるよ、橋の下の隠し場所に」

「久美ちゃん、ここで待って、見てくる」そう言って、わたしは滑らないように腰を落として注意深く崖を降りた。クジラも後からついてきた。住友が顔をしわくちゃにして生活指導の先生のように腰に手を当て考え込んでいた。

「おう、大変なことになってるよ」わたしを見つけると住友が言った。

「なくなってるって、ブリキ缶ごと、全部?」

「じゅん、おまえ、隠してないような」疑り深い念を押した。

わたしたちが掘った縦穴の中は空だった。それにゴミが入れられていた。おまけに水か小便がかけられたような跡がある。

「まだ、濡れている、犯人は近くにいるはずだ」刑事のような口調で住友が言った。

「どうする」

「探そう」

「どうやって」

「この場所はオレたちしか知らないはずだよな」

「ああ、でも豊島小学校の奴らは昨日も来てたし」

「探し出したのかもしれない」

「奴らに決まっている」わたしたちはたぶん同じことを考えていた。

わたしたちが義憤に駆られて、犯人探しに出かけようと立ち上がり橋の上を見ると豊島小学校の連中が四、五人が柵にひじをつきながらこちらを見下ろしてていた。ニヤニヤしているやつもいる。

「あいつら」住友はうなるように言った。

彼らはわたしたちがあわてて右往左往しているのを見物していた。犯人は奴らに違いないと確信した。ともかく、わたしたちは線路から崖へ息を切らしながら登った。そこでわたしは信じられない光景を見た。富田がいた。富田が豊島小学校の連中と一緒だった。わたしたちを見て静かに笑っていた。

「おい住友、見たか?」わたしは震える声で言った。

「ああ、あいつが教えたんだ」住友が低い声で呟いた。

「こすっぱいやつだ」クジラも呆れて皺いっぱいの顔になった。

「富田のヤロー許せない、ぶっ殺してやる」住友が一番興奮していた。

橋の欄干にたむろしている奴らの方に向かった。住友が最初に上までたどり着いた。

「おい、おまえら話がある、こっちに来いよ」住友が興奮しながら小川に声をかけた。わたしも住友に続いた。そしてクジラが最後に上がってきた。

「なんか文句あるのかい、おにいちゃん」一番体のでっかい小川が橋の上から声をかけた。

「富田、出てこい!」住友が言った。

「卑怯だぞ、おまえのやったこと言って見ろ」わたしも応した。

「汚いやつだ、出て来いよ」クジラも思いっきり大きな声を振り絞るようにして叫んだ。

富田は薄笑いを浮かべて前に出た。

「おう、みなさん、段ボール滑りの調子はどうかな?」

「ふざけるなよ、オレたちの隠したもの何処にやったんだよ」

「何のことだかぜんぜんわからないよ」富田が小川の方を向いていった。

「おまえたち人のものかすめようなんて、泥棒よりたち悪いぞ」小川が言った。

「ともかく、富田と話がある、こっちへ渡せよ」

「どうする、富田?」小川が富田に聞いた。

「あいつらとは遊びたくない」

「やだってよ」

「てめーらふざけんなよ、盗んだもの全部返せよ」ついに住友がぶち切れた。

「おまえらこそ、くすねたもの出せよ。万年筆、時計、どこやったんだよ」富田が言った。

「汚い奴らだ。盗んだやつ出てこい」わたしはありったけの声で叫んだ。

「盗んだやつ出ろってよ」

「何のことだかさっぱりわからねえ」彼らは口々にはぐらかすような口調で絡んできた。

「うるせーな、テメーらやる気だな」住友が言い、殴りかかろうとして一歩前進したとき、グループのうしろから中学生の深沢が出てきた。わたしが殴られたときいたやつだ。あいつが出てきたら絶対かなわないと思った。

「てめえら、なにぐずぐず言ってんだ! 早くおうちにかえってお母ちゃんのオッパイでも吸ってろ」甲高いが迫力のある声で深沢が言った。

「なんだよ、よけいなやつはひっこんでろ」住友はヤツの恐ろしさを知らないのだ。中学生に大きな口を利いてしまった。

「何もたもたしてるんだ、やるならかかって来い」

「やらないなら早く帰りな」次々に挑発してきた。

住友は、わたしに小声で「健ちゃんに電話して来てもらえ」と耳打ちした。 わたしは何も返事せず、急いで近くの電話ボックスに向かってかけだした。電話ボックスの前に来てポケットに十円玉がないのに気がついた。後ろを振り返ると久美ちゃんがいた。

「どうしたの、じゅんちゃん」久美ちゃんが心配そうに聞いた。

「うん、ちょっと」

「喧嘩になりそうなの?」

「うん、久美ちゃん十円玉持ってる?」

「あるわよ、けどじゅんちゃん聞いてよ」そう言いながら財布から十円玉を一つ取り出してわたしに渡してくれた。

「ありがとう」わたしは久美ちゃんを遮って公衆電話ボックスのドアを開いた。

健ちゃんの家の電話番号を何とか思い出し、誰かが異様な力で叩いて楕円に変形しているダイヤルを急いで回した。電話機が壊れていないことと健ちゃんが在宅していることを祈った。健ちゃんは正月のたこ揚げで糸がからまって豊島小学校の連中と喧嘩したときも勝ったことがある。応援にきてくれれば百人力だ。宝物も取り返してくれるだろう。息が切れていて苦しかった。どきどきしながら電話に反応があるのを待った。コール音が数回あったがなかなか応答がない。電話番号が違っていたのだろうか。諦めようとした瞬間、女の声が応答した。

「はい、福井です」姉の珠恵さんに違いなかった。

「木村潤ですけど、健ちゃんいますか」いつもとは違う早口で言った。

「あら、じゅんちゃん、今晩来るのよね、カレーライスを作っておいたからね。ご飯もあるからかけて食べるだけになってるわよ」いつものわたしの体を全体に包むような優しくこもった声だった。大好物のカレーライスだったが、そんな珠恵さんの言葉がまどろっこしく思った。わたしにとって一番の関心事は、健ちゃんがいるのかどうか。それだけを答えてくれればいい。続けて珠恵さんが話そうとするのを遮って「すいません、健ちゃんお願いします」わたしはぶっきらぼうに言った。珠恵さんの夕食の話に反応する余裕はなかった。

「ちょっと待ってね」珠恵さんが健ちゃんを呼ぶ声が電話口にも聞こえた。「よかった、家にいるんだ」ほっとしたけれど健ちゃんが電話口にでるまでが数時間に感じられた。

「おう、なにしてるの」健ちゃんの声はわたしを勇気づけた。

「豊島小学校の奴らと喧嘩になりそうなんだ、すぐ来てよ」

「よくやるよ」

「中学生もいるんだ、奴ら泥棒なんだ」

「カツアゲか?」

「まあ、そんなとこ」

「場所は?」

「イッセンバシ」

「待ってろ、すぐ行く」

電話を切った後振り返ると、久美ちゃんが心配そうにわたしを見ていた。

「十円、明日返すから」

「そんなのいいけど、宝物盗まれたってどういうこと?」

「久美ちゃん、今日の遊びは中止だ。ごめん、うちに帰っててくれ」

「そんな」

「じゃあ、オレ行くから」

「ちょっとそんなのないでしょ」

「ともかく今日は家に帰ってよ」

「なによ。人の話聞かないんだから」

久美ちゃんの不満げな声を聞き流してわたしは現場に急いだ。話し合いがこじれているのはすぐわかった。健ちゃんがここまで来るのにかけだしてきて五分、自転車で三分と言うところだろうか。それまでは何とか持ちこたえなければとわたしは思った。

「言いがかりをつけるなよ。なんか証拠があるのかよ」

「盗んだもの早く出せよ」住友が凄みを利かせた声で言った。

「知らねえって、言ってんだろ」脅すように小川が言った。

「それよりこないだは世話になったなあ」小川がそう言って住友の胸を押した。

「なんのことさ」住友は少しひるんだ。

「うどん粉のことだよ」ランニング姿のちびが言った。

「お面なんかかぶりやがって、卑怯なやろうどもだ、もっと正々堂々とやったらどうだ」小川がすごんだ。

「オレたち縁日に行ってないよ」クジラが言った

「縁日? 何で縁日の喧嘩のこと知ってるんだ」

まずい、クジラのやつ墓穴を掘った、馬鹿だなとわたしは思った。

「うわさで聞いたし」クジラが反論したが明らかに形勢は不利だった。

「それこそ証拠がないよ」住友も続いて反論したが、ますます向こうのペースにはまっていた。

クジラは小川に捕まれていた。住友は中学生にこづかれそうになっていた。

「ちょちょっと、話し合おうぜ」時間稼ぎにわたしが言った。

「何だおまえ、また来たのか、さっき逃げたくせに」

「逃げてなんかいないよ。なんだよ。その言いぐさは!」わたしも頭に血が上ってきた。もう話し合いの余地はなかった。

そのとき健ちゃんが駆けつけてきた。

「ああ、健ちゃん」

「何があったんだ、小学生をいじめるのは良くないな」と余裕のある低い声で言いながら近づいてきた。背は向こうの中学生よりも高かった。胸幅だって広い。

「オレに任せろ、大将は誰だ」健ちゃんが訊いた。

「あの、ひげ面の中学生のヤツだよ」わたしが深沢の方を指して言った。

「何しに来たんだ? よけいなやつはひっこんでろ」深沢が顔に凄みを利かせながら怒鳴った。

「おまえが、リーダーか? とった物返してやれよ。どーせたいしたもんじゃないんだろ」

「こいつらが盗ったんだよ」クジラが叫んだ。

「だから知らねって、証拠もないくせに」小川が深沢の後ろから顔を出した。

「富田に聞け、やつが知ってるはずだ、裏切りやがって」

「裏切るも何もないさ。いっとくけどオレ、一度もおまえたちの仲間になったことないぞ」富田はふてぶてしかった。

「それより縁日の落とし前つけてくれよ」

「てめえたちが縁日にいたのはわかってんだよ」長谷川が言った。

「とったもの返せよ」クジラはそれには答えず同じ言葉を繰り返した。

話し合いはつかなかった。

「おまえの親父いま刑務所だってな」いきなり黒縁メガネのチビがクジラに向かって切り出した。そして後ろにひっこんだ。

「大塚の高利貸し刺して捕まったんだって?」長谷川が付け加えた。

「こんど、盗んだ金で家建て直して御殿にするらしいぜ」小川も言った。

「てめえら、かってなこというな」住友がクジラをかばった。

「話をそらすなよ」わたしも応戦した。富田のヤツが吹聴したに違いない。

「刑務所ヤロウ、何とか言って見ろ!」小川がクジラに向かって挑発した。

クジラの鼻に汗がにじみ、顔はどす黒く、そして赤味が増していった。怒りを通り越し驚愕しながら手をこぶしに握って震えている。

突然クジラが叫んだ。「おまえら、きたねーぞ!」そう言って小川に体当たりした。そして頭を勢いよく持ち上げ、相手の顎に激しい頭突きを食らわした。小川はもんどり打って倒れた。口の中を切ったのだろうか血が出ていた。続けて長谷川に捨て身で体当たりした。

「おまえら、ちょっと待て」健ちゃんが叫んだけれどもう戦いは始まってしまった。小川が立ち上がり今度はクジラのことを思いきり蹴り上げた。クジラは「ぐえ」と低い悲鳴のような声を出してその場にうずくまった。

クジラを助け起こそうとわたしが近づくと、今度は長谷川がげんこつを作ってわたしに向かってきた。わたしはとっさに後ずさって落ちていたこぶし大の石を拾った。長谷川の顔めがけて投げつけると石は逸れて後ろにいた深沢の目の上に当たった。薄くて消えそうな眉毛の上から血が吹き出た。それを見た長谷川はひるんで数歩下がり深沢を気遣った。深沢は右手を額に当てた。手にはべっとりと血が張り付いた。指の間から流血の跡がくっきりと見えた。

「やっちまえ」深沢が般若の形相で叫んだ。彼らは腰を低くして戦闘態勢に入った。わたしたちも一斉に喧嘩の構えをした。わたしは周辺の石をまた拾い身構えた。

そのとき中学生の深沢はポケットに左手を突っ込んだかと思うと光る物を取り出した。ナイフだった。そしてゆっくりと右手に持ち替えていつでも相手を斬りつける勢いに見えた。

「石を投げたヤツ出てこい」と深沢が言った。わたしは全身で身震いした。

ナイフの刃は十数センチくらいあっただろうか鈍く光っていた。わたしたちは予想外の展開に足が凍り付いた。そして助けを求めるように健ちゃんの方を振り返った。健ちゃんはわたしたちに下がっているように手で合図した。

「本当にやる気なんだな」健ちゃんが落ち着いた低い声で言った。その声でわたしたちも少し安心した。

「ああ、切り刻んでやる」深沢が言うと同時にナイフを健ちゃんに向けてちらつかせた。そして素早い動作で健ちゃんに斬りつけてきた。健ちゃんが振り払ったときナイフの刃の先端が二の腕をかすめた。一直線に血がにじんだのが見えた。

「いてっ!」健ちゃんがかすかな声で呟いたのが聞こえた。わたしはやつが本気だと思った。まずいことになったことを改めて感じた。深沢の顔は真っ赤に充血して、額からはまだ血が固まらずに滴っていた。深沢は見るからに偏執的で怒ると何をするかわからない性格のようだった。この喧嘩は収まりがつかないと思った。

そしてその後とても信じられない光景が展開したのだ。健ちゃんもお尻のポケットからジャックナイフを取り出した。刃渡りは深沢のよりも短かったが、刃はよく手入れされているようでより輝いていた。

「よし、やろうぜ」

「健ちゃん!」わたしは止めるのか応援するのか何とも曖昧な声で呼びかけた。

「じゅん、おまえたちはひっこんでろ」健ちゃんもこれまでに見たこともない形相に変わっていた。たぶん、ナイフの喧嘩は見たことないから健ちゃんだって初めてなのじゃないかと思った。わたしの不安は広がった。

ナイフの二人はしばらく動かなかった。最初に動いたのは深沢だった。ナイフを突き出したが腰が引けていて健ちゃんに届かない。わたしはアメリカ映画の中に自分がいるように感じた。ジェームズ・ディーンが健ちゃんで相手が非行少年グループだ。健ちゃんは中学生だけれども髪をリーゼントにしてアメリカの若者を気取っていた。長い髪をいつも持ち歩いている櫛で流れるように分けられ映画の雰囲気にも合っていた。「理由なき反抗」の喧嘩は拮抗していた。でもこの喧嘩は健ちゃんの方が圧倒的に有利だった。健ちゃんは落ち着いて相手の動きを見ていた。深沢が思いきり顔をめがけて切りつけてきたが健ちゃんは軽いフットワークでこれをかわした。相手が攻めあぐねているのを見ると、一度相手の顔を切りつけるフェイントを見せて、相手が顔を背けた隙に健ちゃんのナイフは深沢の足をねらい、太腿にナイフが浅く刺さった。深沢はよろけて少しひるんだ。

「ほれ、どうした? 今のは手加減したんだぞ」余裕を持った健ちゃんの声が聞こえた。深沢は完全にひるんでいる。それを見てこの喧嘩は収まりそうだとわたしは安堵しかけた。

そのときクジラはうずくまってじっとしていたが、何を思ったか急に飛び出して来て深沢に勢いよく体当たりした。

「やめろ!」健ちゃんが言ったが、クジラは聞かなかった。

「ふざけやがって、ふざけやがって!」クジラは何度も同じことを叫びながら、次々に彼らに体当たりと頭突きをしていった。相手から何度も殴られても動じなかった。次の瞬間、クジラは深沢からナイフを奪い取ると斬りかかっていった。完全にクジラは狂っていた。そして深沢に向かってナイフを突き立てたまま体当たりをした。ナイフは深沢の腹に刺さり「ぐえっ」という嗚咽にも似た声が聞こえた。深沢はうつぶせに道路に倒れた。クジラは小川にも体当たりして、すもうの押し出しのように崖に向かって突き進んでいった。二人はそのまま崖の上で坂に足をとられ一気に下まで落ちていった。

クジラは何であんなに狂ったのだろう。親父さんへの侮辱が悔しかったのか。健ちゃんと深沢の対峙をそばで見ていて、怒りの感情が再点火したのだろうか。

そのあとは、みな斜面を転がりながら落ちていき入り乱れての殴り合いになった。わたしも崖を駆け下りるというか、転び落ちながら乱闘に加わった。

第十一章  それ逃げろ

崖の大騒ぎと、転落した誰かの悲鳴で、駅員が我々の存在に気がついた。いつも彼らとはいたちごっこで捕まらないのだが、子供の人数も多かったせいか、その日は大勢がこちらに向かってきた。わたしは「まずい」と思った。喧嘩は中止にしてここは逃げ出すしかない。駅員に捕まったら面倒なことになる。

「逃げろ」誰かが叫んだ。

「ヤバイ、バラバラに逃げよう」

わたしたちは、みんなてんでんばらばらに蹴散らされるように逃げた。住友は崖上の橋の方へ、クジラは駅のホームへ、健ちゃんとわたしは崖下の貨物線路の方へ逃げた。崖は滑りやすいから、落ちたらすぐに捕まってしまう。山手線は時間本数が多いが、貨物線路なら列車はあまり通らない。逃げ出す直前に振り返ると駅員達は数十人おり、崖と線路方面と手分けをしてわたしたちを捕まえようとしていた。崖方向は逃げた人数が多いせいかもう多くの駅員がそちらの方に振り向けられていた。貨物線路の方は数人が追ってきたようだ。数十メートルそこそこまで近づいていた。駅員はわたしたちに向かって

「ばか、やめろー! そっちは危ないぞー」

「電車に轢かれるぞ!」と叫んでいた。

「脅かしやがって、貨物はもう来ない、さっき通ったばっかりだ」とわたしは思った。

夕暮れが近づき日が沈みかけていた。前を走る健ちゃんの長い頭の影をふんづけながら懸命に走った。マラソンを最後まで走り続ける気持ちで全力で走り続けた。いつも大塚駅の都電の道を遊び場にしてきたので、線路の枕木の上を走るのは得意だった。しかしその時は勝手が違ってうまく走れない。枕木は意地悪に不規則で歩幅があわず砂利の上ばかりを走っている。薄っぺらな運動靴では足の裏が痛くなった。急いで間隔の広い枕木の間を飛び越そうとして転倒した。右膝から血がにじんでいた。立ち上がって前を見ると、健ちゃんの頭の影が遠のいていくのがわかった。健ちゃんは確実に枕木の上を三段跳びの選手のように足を伸ばして上手に飛びながら軽快に走っている。健ちゃんとの距離は開く一方だった。膝がじんじん痛んだ。「もう走れない」と思い、捕まる覚悟をしてスピードを緩め、後ろを振り向いた。駅員達はいなかった。かわりに、林久美子が駆け足でやや離れたところまでついてきていた。「え、なんで久美ちゃんが」彼女は橋の上にいたはずだ。

「じゅんちゃん、待ってよ」久美ちゃんが泣きそうな声でわたしを呼んだ。

「なんでこんなところに」

「だって、ごめん」久美ちゃんは何か言いたそうだったが、言葉になっていなかった。

「いいから走ろう」健ちゃんに追いつかなくてはとわたしは焦った。

線路は大きく左にカーブしていた。後ろの方を振り返ると、もう大塚駅のホームは見えなくなっていた。前方には、池袋駅が見えてきていた。ずいぶん走ったのだ。レールは鋭く光っていて直線に駅までまっすぐ伸びるラインだった。そのとき鉄道の線路はその上に立って見るのが最も美しいと思った。表面の輝きと対照的に側が錆びた茶色のH字鋼、それを支える枕木とさびた鉄粉を帯びた砂利、その端々から生長する雑草類、すべてが見ていて完璧だと思った。わたしたちが逃げた線路は貨物用で普段はあまり多くの貨物列車は通過しなかった。それでも電車が来たらどうしようという不安があった。しかしそれは的中し、それを最初に風で感じた。次に音と線路のわずかな振動でそれは現実だと感じた。振り向いたとき電車は見えなかったが、久美ちゃんと目が合った。振動にあわせるように揺れる視線はこれから来るかもしれない貨物列車を暗示するようだった。健ちゃんは線路に耳をつけて電車の音を聞いていた。

「じゅん! 貨物がくるぞ!」

「でも、そんなはずは。さっき通ったばかりだし」

「さっき通ったのと反対方向の貨物列車のお出ましだ」

「むこうの線路に移ろう」わたしは叫んだ。

「だめだ」

「どうして?」

「運転手に見つかるとめんどうだ、側溝に飛び込め」健ちゃんが言った。

線路に沿ってある側溝はわたしたちがいつも「ザリガニ」を捕っている泥水の小排水路だった。後ろを振り向くと貨物列車がかなり近くにこちらに向かって走ってきていた。

「久美ちゃん、こっちだ」手を引っ張って線路脇に促した。

「でも、そこドブだよ」久美ちゃんが嫌がっているようだった。

「轢かれるよ、早く」貨物は迫ってきていた、音も振動もさっきの数十倍に感じていた。健ちゃんが最初に側溝に飛び込んだ。わたしも追いついて同じ場所に身を隠した。続いて久美ちゃんも飛び込んできた。ぬるぬるして気持ちの悪い匂いがする。吐き気のするような膝までの深さの泥水だった。貨物列車の車輪音は確実に近づき、やがてわたしたちの目の上を轟音をたててガチャガチャと金属音を響かせながら走っていった。わたしたちの周囲が上下に規則正しく揺れ、小さな小石が飛び散ったりするのが目の前に見えた。久美ちゃんは顔を下に向けて耳をふさいでいた。

「迫力だよなあ、こんな近くで見るの初めてだよ」

となりで健ちゃんはいつものように貨車の数を勘定していた。

「七〇台を越えた、最高に長いぞ今日は」

余裕の健ちゃんを見て少し安堵感が湧いてきた。

わたしも負けずに余裕を見せるつもりで「ここ、ザリガニがすごくいるよ」と言った。事実。足やおしりのへんには何か生き物が動いていく感触がした。

「そんなものどうだっていい」健ちゃんが不機嫌そうに言った。自分は貨物の数を数えていたくせにと思った。

貨物列車が通り抜けた後もわたしたちはしばらく動かないで側溝にじっとしていた。あたりは虫の声以外は何も聞こえず静かだった。まわりは日が落ちてうっすらと暗くなっていた。

「追っ手は来ないようだ、行くぞ」健ちゃんが言いながら側溝から立ち上がった。側溝の泥水で身体はすっかり真っ黒だった。洋服はもちろん、手で顔をこすったりするものだから墨を塗ったように黒くて、最前線の兵士のようだった。

「何で女がいるんだよ」

「久美ちゃんだよ」

「なんだ、久美ちゃんか。真っ黒で分からないよ」健ちゃんが顔をこすりながら言った。

「崖の遊び場を見せにつれてきてこんなことになっちゃって。久美ちゃん、ごめんな」

「いいのよ。でもこの臭い何とかならないの」

「でも、久美ちゃんどうしてここにいるの?」わたしは素朴に訊いた。

「あら、失礼ね。だって、上で見ているわけに行かないじゃない、応援にしたまで降りていったのよ」

「でも喧嘩だし」

「気に入った、いい子だ」健ちゃんが言った。

「誰も追ってこないみたいだ、線路から出よう」

駅の近くでは山手線と貨物線の線路は同じ平面を走っていたが、ここまでくると、いつの間にか数メートルの上下の段差が出来ていた。わたし達のいた貨物線は上に、山手線は崖下になっていた。そして、どちらの線路も周辺はずっと両側が高い石垣で遮断されておりいつまでたっても道路にはでられなかった。どういうわけか山手線は電車が停滞していた。事故でもあったのだろうかと思った。

「もうすぐ池袋の大踏切に出るはずだ。そこまで行けば線路から外にでられる」健ちゃんが言った。

線路は幾分左にカーブしており幾分上り坂になっていた。十分間以上も駆けていただろうか、わたしの足と腰は、がくがくになっていた。すりむいた右膝がひりひりしていた。もう一度走り出しかけた時、健ちゃんが言った。

「踏切はやばい、きっと待ち伏せしているはずだ。壁を登ろう」

「どうやって? 五メートル以上はあるよ」

「もっと低い場所を探すんだ」

「どっかに梯子がついてるとこないかい」

「あれば楽だけど、ともかく行こう」

しかしいくら先に進んでも、壁は高くなるばかりだった。結局飛び込んだ場所の石垣の壁が一番低く斜面も緩やかなようだった。わたしたちはそこまで戻り斜面をはいつくばるように登った。わたしが一番先に登り、久美ちゃんは健ちゃんにお尻を押されながら登った。

道路まで上がり、ガードレールに掴まってわたしたちは休息した。まだ、胸の鼓動は収まっていない。動脈の流れる音が耳元でゴウゴウと鳴っていた。健ちゃんと久美ちゃんの泥だらけの顔を見ていると、たった今空爆を受け逃げてきた外国の難民のようでとてもおかしかった。

周辺は路地が迷宮のようにつながっている緑の多い地域で、安アパートや古い木造の一戸建てが建ち並ぶ下町の風情がある。線路に並行して細道が駅まで続いている。周辺に植えられた花が終わった大きな紫陽花が路地をよけい狭くしていた。丁寧に並べられた鉢植えも同様にわたし達には邪魔者以外の何物でもなかった。人気のない空き地の隅でわたし達は固まってしばらく動かずに過ごした。あたりはすでに真っ暗になっていた。

「くせーな」

「お尻のところがまだぬるぬるしてる」

「おまえの顔、真っ黒だぜ」

「健ちゃんだって」

「このままでは家に帰れない」

「オレだって」

「おふろにでも入りたい気持ち」久美ちゃんが言った。

「よし入りに行こう、混浴でもいいのか」健ちゃんが優しく慰めるように言った。

「え?」久美ちゃんが大きな目を見開いてわたしの方を振り向いた。

「そんなの知らないよ」わたしは大きく手を横に振りながら自分のアイデアではないことを強調した。

「まあいいじゃないか、ひと風呂浴びよう、ぬるめだけど文句無いよな? そこの彼女」健ちゃんが久美ちゃんの顔をのぞくようにして言った。

「人目のあるところにはいけないよ」わたしが言った。

「見つかったら警察に、捕まるかもよ」久美ちゃんが小声でわたしに言った。

「ついて来いよ」そう言って健ちゃんは天祖神社の方に向かった。わたしたちは少しそのままじっとしていたが、すぐに健ちゃんを追いかけた

「すこし冷たいかもしれないけれどがまんしろよ」といって入り口を探した。

神社の隣にあるいつも通い慣れた区民プールだった。プールはもちろん開業していたけれども夜間は閉鎖されていた。入り口には鍵がかけられていたが、金網を乗り越えれば侵入できる。

「乗り越えよう」健ちゃんが最初に金網にヤモリのようにしがみついて登っていった。金網の高さは二メートルほどで健ちゃんはいとも簡単に中に忍び込んでいった。そしてベンチに座り靴を脱いできれいにそろえておいた後、服を着たままプールの中へ入っていった。わたし達も続いて金網にへばりつきながら登った。振り返って下を見ると久美ちゃんも泥だらけの顔をしかめながらわたしの後に続いて登ってきていた。金網の上はしっかりした鉄棒があり有刺鉄線など無かった。鉄棒に座る要領で腰を下ろし久美ちゃんが登ってくるのを待った。近づいてきた久美ちゃんに手を貸した。泥だらけの手はすでにカラカラに乾いており、しっかりと握りあうことが出来た。彼女を金網の上に引っ張り上げ、健ちゃんの泳ぎを見ていた。遠くに山手線の線路と電車が通る音が聞こえた。闇に目が慣れてきたのか久美ちゃんの幾分ふくよかさがなくなった顔が近くにはっきり見えた。わたしは勢いよく金網から飛び降りた。久美ちゃんはゆっくりと登ってきたときと同じスタイルで金網にへばりつきながら降りてきた。降りきったのを見届けてからわたしは、健ちゃんと同じようにベンチで靴を脱いでから足から静かにプールに入った。水はかなり冷たかったが、汗と泥を気持ちよく流してくれた。健ちゃんはすでに二五メートルプールの端まで泳ぎ着いていた。

わたしが頭まで潜ってから水面に顔を出すと、顔と頭にこびりついた泥がプールの水を汚した。数秒のうちに闇の中のせいか、泥の黒い渦は、拡散してなくなり元の透き通った水に戻ったように見えた。いつの間にかわたしと健ちゃんは、服を着たままはしゃいで泳ぎまくっていた。

「今夜は疲れたな。あと、おまえらどうする?」

散々泳いだ後、健ちゃんがプールから上がり、脇に寝そべりながら訊いた。

「もう少しここで泳いで、健ちゃんの家に行こうよ」

「でも俺の家、まずいかもしれない」健ちゃんはそう言いながら、濡れた体のまま立ち上がった。

「どこ行くの」わたしが聞くと、健ちゃんは少し間を置いて眉間にしわを寄せた。

「俺は家の様子を見てくる、じゅんは護国寺の境内に行ってろ」

「一人で行くの」わたしは少し不満そうに言った。

「あとで俺も行くから、安心しろ」健ちゃんはそう言い残すと、足早に去っていった。

久美ちゃんは、プールの端に腰をかけて洋服を着たまま足を洗っていた。水をすくい顔を洗っている。

「プールに入りなよ。気持ち良いよ」久美ちゃんに勧めた。

「このまま?」久美ちゃんが言った。

「脱いでもいいけど」わたしが言った。

久美ちゃんは靴と靴下を脱いでプールの端に置くと洋服を着たままそろそろと足から水に入った。久美ちゃんのスカートが少し膨らんだがすぐに水の中に入ってしぼんでしまった。そして、ゆっくりとした平泳ぎで二五メートルプールの反対側まで泳いでいった。ターンして戻ってきた。一番深いところでイルカのように一度伸び上がってからまた潜り、しばらく出て来なかった。わたしが水面を見渡して探していると、いきなり潜水から復帰し目の前に勢いよく顔を出した。

「やあ、じゅん元気?」敬礼のまねをしながら久美ちゃんがいたずらそうに言った。

「泳ぎうまいね」

「下田の海で毎年やってるわ、もぐりは得意よ」そう言うとまた潜水で反対の方に泳いでいった。わたしも潜って彼女の後を追った。いつか見た記憶のある場面のように思えた。そうだ、いつもの夢の中で見るシーンだ。彼女の肢体にはスカートがまつわりついて泳ぎにくそうだったが、足で勢いよく水を蹴っていた。不思議な気持ちになってわたしは思わず自分が全裸であることに改めて気がついた。久美ちゃんの足は青白くてか細かった。スカートがまくれ上がって腰のあたりまで透き通った様に見える瞬間があった。追いかけて彼女の足に触れそうになった。

わたしはあわてて向きを変え反対の方に泳ぎプールからでて、縁にかけておいた下着を着た。久美ちゃんは反対の縁に上がった。洋服を着たまま泳いでいたので全身から水が滴っており、長い髪はべっとりと頬と肩にへばりついていた。スリップは体にぴったりと張り付き、ずぶ濡れの久美ちゃんは鳥ガラのようにやせて見えた。でも、横を向いたとき光源を背にしたシルエットには久美ちゃんの胸もとは乳首の周りだけがすこし膨らんでいるようにもみえた。ぬれた髪を上に上げているので普段見えないおでこが丸見えになった。前髪に半分隠れていた眉毛が案外太くて凛々しい事もわかった。形の良いおでこには、これまでなかったであろうと思われる小さなニキビがぽつぽつと膨らんでいた。久美ちゃんの体は確実に変わってきていることをそのとき実感した。わたしたちは水浸しの洋服をそのまま着て靴下の水を絞り、靴を洗ってから履き元の金網から外に出た。いっこうにやまない雫を引きずりながら、わたしたちはまた歩き出した。泥はすっかり落ち気持ちはすっきりしたが、濡れた半ズボンとシャツが体にへばりつきものすごく寒かった。

「そうだ、神社の空き地に行こう」わたしは天祖神社のとなりの空き地にある籾殻の山を思い出した。籾殻は暖かそうだし、たぶんバスタオルの代わりになると思った。このあいだ果物屋の兄ちゃんのリンゴを取り出す作業を手伝ったあとにはたくさんの籾殻の山ができた。箱を持って現れ、何度も籾殻を捨てにくる。いつもリンゴの数をごまかしているあれだ。

「久美ちゃん、ずぶ濡れだね、夕立? 傘なかったの?」わたしがからかった。

「じゅんちゃんこそ、川でおぼれかかった孤児みたいよ」久美ちゃんが応戦した。

「どこかでキャンプファイヤーでもやっていないの」久美ちゃんが小刻みに震えながら言った。

プールから少し坂を下ると神社の鳥居がみえた。神社を突っ切りその裏の空き地に抜けた。空き地には籾殻の山がまだ燃やされずに残っていた。

「籾殻がタオル代わりさ」わたしが明るく言った。

「だいじょうぶ?」

「よし、やってみるからね」わたしはそう言って籾殻の山の中に潜り込んでいった。籾殻は太陽のぬくもりがまだあり暖かかった。手でほじくると地面に接しているところは冷たく湿気も感じられたが、上澄みは十分すぎるほど柔らかで乾燥していた。わたしは籾殻を吸い込まないように息を止めて、顔に振りかけてシャワーで洗うように手でこすった。

「少し痛いけど、寒くなくなったよ」

久美ちゃんも籾殻の中に入ってきた。そして人心地がつくと、二人で籾殻を掛け合った。口や鼻や目や耳に籾殻が入り込み気持ちが悪かったが、寒さを通り越して暑くなってきた。

「いい衣がついた、これなら寒くない」わたしも楽しくなってきた。

「洋服も何とか乾燥させることが出来たわ」久美ちゃんが機嫌良く言った。

「久美ちゃんがここにいるなんて信じられないな」感激の意味を込めてわたしが言った。

「わたしだって」

「とんだ巻き添えだよね、どうして線路に降りてきたの?」

「だって、さっきも言ったでしょ」

「なんて?」

「喧嘩していて鯨岡君が崖から滑って落ちたでしょ、絶対ケガしたと思ったわ、助けなきゃと思ったの」

「それで崖を降りてきた?」

「うん、ナイチンゲールの心境よ。そうしたら駅員さんが気づいて、あの大騒ぎ。じゅんちゃん! ってなんども呼んだけどどんどん逃げて行くばかりで」

「ごめん、ほんとに気がつかなかったんだよ」

「ほかの連中どうしたか知っている?」

「住友君は下で動けなくなっていた、でも大したけがじゃないといいんだけれど」

「ほかには?」

「鯨岡君は山手線のホームの方に逃げていったと思うの」

「途中で駅員が皆引き上げていったろ、あれはどうしてなんだろう」

「だから、山手線の方で何か事故でもあったんじゃないかと思ってそれが心配なのよ」

「電車を止めちゃったとか。そうだとしたら。学校で大目玉だな」わたしは声が詰まった。

「あーあ」久美ちゃんは後悔しているとも楽しんでいるともわからないようなため息を漏らした。

「とんだ夏休みになっちゃたね」わたしは慰める意味合いで籾殻を握りつぶしながら言った。

「いい思い出になるかも」

「学校で怒られるな。久美ちゃんのことは黙ってるから安心してよ」

「ありがとう」

「まあいいや、夏休みは遊んで、二学期の始業式で怒られればいいんだ」

「わたし二学期の始業式には学校に行かないと思うわ」

「こんな事件起こしたから ?」

満面に笑顔を浮かべて

「あはは、違う違う、わたしねこの夏休み中に転校するわ」籾殻をいっぱい髪や顔につけて言った。

「久美ちゃんが?」

「パパの転勤で」

「どこへ」

「ロンドン、パパは先月からもう行ってるの」久美ちゃんはあまりにもさらりと言った。

「えっ? ロンドンって、イギリスの?」籾殻を一つひとつゆっくりと顔から取り除きながら次の言葉を考えた。

「アハハ、そう、イギリスのロンドン。向こうには日本人の学校があるって。だから心配はないと思うけれど」

「久美ちゃんのお父さん、放送局の記者だったよね」

「うん、支局のそばには大きな公園もあるし二階建てバスも走っているんだって、きのう絵はがきが来たわ」

「そう、ずいぶん遠くだな」

「五年生の時、誕生日会にうちに誘ったの覚えてる?」

「知らないよ」

「ほんと? とぼけてんだから」

「そんな昔のこと」

「約束したのにすっぽかして」

「そういえば、久美ちゃんのおばさんがうちに来て、待ってたのにどうして来なかったんですかとか言ってたよね」

「ほら、覚えているくせに」鋭く続けた。

ほんとに忘れていたのだ、でもそのころはもっと楽しい遊びが他にたくさんあった。女の子の家にお呼ばれなんてかっこわるいと思っていた。それならきちんと断ればよかったのだ。いい加減な性格があらわになった。

「じゅんちゃんって変だよ」

「なにが」

「不良じゃないのに不良仲間に入っていて」

「え?」

「全然似合わないよ」

「そう見えるのかなあ」

「富田君とか鯨岡君はちょっとまずいよ」久美ちゃんは眉を上げながらわたしのほうに向き直っていった。クジラをまずいというのには腑に落ちなかったが彼女も周りのうわさだけに流されている。自分で確かめたわけじゃないんだ。反論しようとしたが、その会話はこの場の雰囲気にとても似つかわしくないように感じた。

「久美ちゃんも行っちゃうのか」わたしは話題を変えた。ずいぶんと長いポーズがあった。遠くに早稲田行きの都電のヘッドライトが見えた。電車の音が近づく前に久美ちゃんが沈黙をやぶった。

「でも、じゅんちゃんには関さんがいるじゃない、じゅんじゅんコンビで仲良くやって」サバサバとした乾燥ぎみの声で、わたしの目を覗き込みながら言った。

「関さんは関係ないよ」

「好きなくせに」

「ちょっと、違うんだよ」籾殻を集めてもう一度自分の全身にまぶした。籾殻は全身をマスクするようでこんな話もあまり照れずにできた。

「なにが違うの」久美ちゃんの髪には籾殻が中まで入り込んで点々としていた。肩までの長い髪に籾殻が白ごまのようにまぶされていた。いつも自信ありげに引き締まっている唇は、縁日の時の透き通ったスモモの赤とは反対に、その夜はたくさんの絵の具を混ぜすぎたような色に染まっていた。寒さのせいかかすかに震える唇に一つ二つ籾殻が揺れて金色に光っていた。

「住んでる世界が」久美ちゃんの方が関さんよりずっと大人で悪い女に見えることがあった。関さんは愛くるしくて快活で誰もが好きなお嬢さんだ。わたしとは全然住んでる世界が違うということを言いたかった。

「はは、気取ってる」唇の籾殻を手で払いながら久美ちゃんがからかうように言った。久美ちゃんの顔がずるそうに笑ったので、わたしはすこし戦闘的になった。

「もみがらあたま!」そう叫んで、手にいっぱいつかんでいた籾殻を久美ちゃんにぶつけた。

「しらみあたま!」久美ちゃんも負けずにプールで水を掛け合うような仕草でわたしに籾殻の塊をすごい勢いで連射してきた。籾殻は神社から漏れる提灯の明かりで金の小粒のようにキラキラと光った。空はビロードのように真っ黒だった。応戦しようともう一度手元の籾殻をすくい上げようとしたとき何か堅い物が手に触れた。石ころよりは柔らかい感触だった。

「ちょっと、待って」

もしかしたらと思い籾殻の中を探してみた。まさぐる手をふざけて久美ちゃんの足を触った。

「きゃあ!」と久美ちゃんが叫んだがその声を無視してまさぐった。あるある小さいリンゴが一つ出てきた。その日の事件のことも忘れてすこしうれしくなった。久美ちゃんに渡しながら「夕食にありつけたよ」とわたしは笑いながら言った。

「わたしはいいわ、もう家に帰らなきゃ、きっと心配してるわ」そういいながらリンゴを私に押し付けた。

「俺は、腹ペコだ」

「ナイフがないわね」皮を剥くポーズをしながら久美ちゃんが言った。

「いいさ、皮のまま食べよう」わたしはリンゴをシャツの袖で磨き始めた。

「じゅんちゃん、あんたナイフなんか持ってないよね」久美ちゃんが鋭い声で訊いた。

「持ってないよ」わたしは何故か怯んだように答えた。

「健ちゃんは、何でナイフ持ってたの?」久美ちゃんが素朴な疑問を投げかけた。

「いざというときのためじゃないの」嫌な予感が当たったと思った。

「喧嘩のために?」久美ちゃんは怒っていた。

「ああ、そうじゃないの」

「ルール違反だわ」

「だから、最初は使うつもりはなかった」わたしは健ちゃんの代弁をした。

「でも、警察に捕まったら絶対不利じゃない?」

「そりゃそうだけど、健ちゃんは俺たちのためにやってくれた」そう言いながら、わたしの額には自然と汗がにじんでいた。

ナイフはわたしの主義に反していた。喧嘩は素手が原則だ。やっぱり健ちゃんは不良かもしれないと思った。

「だって」と反論する久美ちゃんの言葉を遮って「久美ちゃんリンゴ半分こしようぜ」わたしは無理やり手で半分に割ったリンゴを差し出しながら言った。

「皮のまま食べるの?」顔を思い切りひしゃげて、自分は嫌だと主張した。

「俺は、そのまま食べるよ」

「おなかこわすよ」久美ちゃんが母親のような優しさで心配してくれた。

「いいよ、皮に栄養があるんだ」テレビでやっていたクイズ番組の回答を思い出しながらわたしがやや不機嫌に言った。

「いや、皮の近くに栄養があるのよ」物知り顔で久美ちゃんが訂正した。

リンゴは何回もシャツの袖で拭いていたので鋭い光を放っていた。空腹感はあまりなくなっていた。夢中でかぶりついた。みずみずしいリンゴは甘い汁が唇をぬらし渇いたのども潤した。硬い皮が歯にはさまった。固い皮が少し苦く感じた。食べ終わって捨てたリンゴはひょうたん型になって見る見るうちに酸化して茶色に変色していった。

「籾殻が髪の中に入って取れないわ」久美ちゃんは顔をしかめながら髪についた籾殻を手櫛で何度も払う。

「ごめん、とんだ夏休みになりそうだね」

「いいわよ、いい思い出になりそうよ」

「そうかなあ」わたしはうつむき泥が詰まって真っ黒になっている手の爪を見ながら言った。

「じゅんちゃん、これからどうするの?」わたしの顔を下から覗き込むようにして訊いた。

「健ちゃんと護国寺の境内で落ち合うことになってるけど、後はわからない」わたしはため息をついた。

本当にどうしたらいいのか分からなかった。それよりクジラや住友のことが気がかりだった。住友は崖の方へ駆けだしていった。クジラは駅のホームから乗客に紛れて逃げたに違いない。たぶん皆逃げ切れて今頃は銭湯の湯船に浸かっているのかも知れない。わたしが一番へまをしただけだ。そんな気がした。

「住友君が崖を登っていくのは見たんだけれど、逃げ出したのかなあ」久美ちゃんが心配そうに言った。

「クジラは鈍いから、捕まったかもな」

「捕まっていたら、オレも学校に呼び出し食らうな」わたしは独り言のように言った。

「久美ちゃん、早く帰りな。風邪引くよ」寒さで小刻みにふるえている久美ちゃんに帰宅を勧めた。

「わかったわ。じゅんちゃんも家に帰った方がいいと思うけど」

「オレのことはいいから」わたしはそっけなく言った

「ホントに? じゃああたし帰るけど」

久美ちゃんは、普段と違った泥にまみれたみすぼらしい身なりで何度も振り返りながら帰路についた。

久美ちゃんを見送った後、わたしは疲れがどっと出てプールの端で眠り込んでしまった。わたしは今日起こったことが夢の中で夢であってほしいと願った。平和で楽しい夏休みが台無しになるのではないかとそればかり危惧していた。夏休み直前のあの甘い日々に戻ってほしいと願った。

わたしはほっぺたに何か冷たいものが触れた感触で目覚めた。目を開けると健ちゃんが私の頬を何度もたたいている。

「あれ、帰ったんじゃないの」わたしは寝ぼけながら聞いた。

「やっぱ家には帰れない。一緒に護国寺で一晩明かそう」健ちゃんがわたしの肩をつかんで起こしながら言った。

第十二章 境内の一夜

わたしたちはなるべく目立たないようにその場から離れた。健ちゃんもう家には帰らないようだ。爪先は自宅と反対の方向に向いている。わたしも数歩遅れて後に続いた。泥だらけの服と運動靴に引っ掻き傷だらけの手足、健ちゃん自慢のリーゼントはべったりとしぼんでしまい前髪がたれて目にかかっていた。健ちゃんはわたしの首一つ半ほど背が高い。遠目からは物乞いを終えて塒に帰る乞食の兄弟に見えるかもしれない。

「じゅん、やっぱ護国寺に行こう、あそこなら見つからない」

「家に帰った方がいいんじゃない?」おそるおそる言ってみた。

「今夜はどっかに行きたい気分なんだ」ずいぶんとカッコを付けている。普段ならここで髪に櫛を入れるところだろうけれど、櫛は騒動で無くしたようだった。

「でもぼくたち何も悪いことしてないよ。逃げただけじゃないか。確かにケンカと線路の上を走ったことはいけないと思うけれど」

「そんなことはかまわないさ」

「健ちゃんが切りつけたあいつのケガのこと?」

「もう、いいんだよ。じゅん、帰ってもいいぞ」

「いや、ぼくも行くよ」

健ちゃんはまっすぐ前を見て口元を固く結び、何度も自分で頷いていた。暗く人通りの少なくなった春日通りを五分ほど歩くと仲町に出た。交差点を右に曲がり富士見坂を下ると護国寺前交番の赤い電灯が見えてきた。わたしは交番の警官にすべてをうち明け自首した方がいいと思った。

「健ちゃん、ごめん」わたしは下を向いて殊勝に言った。

「なにが?」

「今日、ぼくが健ちゃんにケンカの助けを頼んだばかりに」健ちゃんの腕に刻まれた新しいナイフ傷を見てわたしはしきりに反省した。

「気にするな、オレは暇だったし。おまえから頼まれれば断れないし」健ちゃんが明るくかわした。でもわたしの気持ちは相変わらず沈んで行くばかりだった。

「珠恵さんは?」

「義兄さんのところへ戻ったと思うよ」健ちゃんは曖昧に応じた。

「じゃあ今夜は、ぼくたちの帰りが遅いと心配する大人は今のところいないよね」

「ああ、今日の事件がばれていなけりゃな」

わたしは今日のことが騒ぎになっていないか少し不安だった。自分の家のことが気になったが、その日は健ちゃんの家に泊まる許可を得ているので問題ないはずだ。「すべては明日考えよう」そう思った。面倒なことは先送りする。わたしの一番嫌悪すべき性癖だ。

夜の護国寺は去年の夏休みにやった肝試しの時以来だった。交番の警官と正門の両脇にある金剛力士像が怖いので手前の参道から護国寺に入った。この参門は通学の時にもよく利用していた。通るたびに敷いてある長い石畳の数を勘定するのが子供たちの常であった。自分の冷静さを確かめたくって、頬をつねる動作の代わりに石畳を数えた。いつものように八十八枚あった。わたしはまだ正気でこれは現実なんだということを思い知らされた。

本坊を抜けて正面の階段を上れば本堂に通じる。本堂に向かう長い階段を上るときわたしは何度も後ろを振り返り尾行されていないかを確かめた。夜遅くお寺に向かう子供を見かけたら誰でも不審に思うに違いない。

「あそこに隠れよう」健ちゃんが本堂の階段下に目をやった。わたしたちが学校帰りに荷物や遊び道具を隠しているおなじみの場所だ。

縁の下を囲っている鉄の柵を手慣れた動作で取り外して中に入った。石灯籠が並んでいる比較的明るい場所を選んでわたしたちは座り込んだ。境内の照明と敷き詰めた白い砂利のおかげで隠れ家としては必要以上に十分な明るさだった。床下の地面は乾いた砂土で、床下の梁には蜘蛛の巣もない。干上がった湖の底のような匂いを除けばすこぶる快適だ。柱の出っ張りは至る所にあるが二人で座り込んでも狭さは感じない。

健ちゃんは乾いた砂土を手ですくい握りしめては落とす動作を繰り返していた。そしていくつもある蟻地獄の巣を興味深げに、穴の主との出会いを期待するように黙って見ていた。わたしは仲間と共用の遊び道具が入れてある段ボール箱を奥に隠してあることを思い出した。縁の下のさらに奥まで這っていって段ボール箱にたどり着くとそこから中に敷いてある新聞紙を取り出した。

「健ちゃんこれ、おしりに敷こうよ」わたしは身体を埃だらけにしてせき込みながら新聞紙を半分に破いて渡した。

「ああ、それよりマンガと懐中電灯はないか?」健ちゃんが新聞紙を折り畳み尻に敷きながら言った。

「ないと思うけど。探してみる」わたしはもう一度腹這いになって進んだ。この手の仕事はわたしの得意分野だ。段ボールの中を探ってみると学校に提出して戻された工作、縄跳び、ビー玉、野球のグローブがあった。マンガはなかったがその年の春休みに自分で作ったトランジスタラジオがあった。このラジオは初めて自分で作った作品で、ラジオの製作雑誌を見て組み立てた。秋葉原まで自転車で行って部品を買いそろえて実体配線図と照合しながら、みよう見まねで作った代物だった。

「ラジオがあるよ」わたしはビニール袋からラジオを取り出して、そっとスイッチを入れた。ガリガリというノイズとピューンという発振音が頼りない音で聞こえてきた。

「音楽のリクエスト番組に回してくれ」と健ちゃんがいった。ダイヤルを回していくとJOQRでアメリカンポップスを放送していた。女性のディスクジョッキーの曲紹介でエルビス・プレスリーの「テディベア」が流れてきていた。続いてジョニー・ソマーズの「ワンボーイ」がかかるとお気に入りらしく「ワァン ボォーイ ワンスペシャァル ボォーイ」と健ちゃんが鼻にかかった声でラジオから流れてくる曲に合わせて歌いだした。久美ちゃんが好きだと言っていた曲だ。

健ちゃんは「ワンボーイ」は良い曲と歌詞だが、プレスリーの「テディベア」はひどい歌詞だといっていた。歌詞を解釈して丁寧に自分に陶酔しながらわたしに教えてくれたが何のことやら分からなかった。

「テディベア」が何故悪いかと聞くと「中学二年生が英文解釈してひどいことが分かってしまうぐらいひどいということさ。でも好きだよオレ、単純で、うん」自分で何度も頷いていた。

「おまえ、コーラ飲んだことあるか」

「ないけど」

「今の歌詞の中で、to laugh with, to joke with, have coke withってとこ」

「ちんぷんかんぷん」

「たぶん、最後の歌詞でコークウィズのところはたぶんコカコーラのことだと思うんだ」健ちゃんは新種の生物を発見した学者の記者発表のように得意そうに言った。

「ふーん」コーラがどんな飲み物か知らないし、そんな話題はわたしの興味の範囲外であった。

「アメリカの恋人同士は、冗談言って、笑って、コーラを飲んだりするもんなのさ」

「ぼくは、ラムネの方がいいな」

「ハハハ、じゅんらしいや」首を振るのを曲にあわせ機嫌良さそうに言った。

「健ちゃん、ポテトチップって食べたことある?」わたしは住友の家で食べた洋風の菓子を思い出した。新しい食べ物のことも少しは知っていることを示したかった。

「ああ、ジャガイモを薄く切って揚げたヤツ?」

「うん。あれって、うまいよね」

「そうかな」

「いや、いつも南京豆とか、花林糖とか、せんべいとかばかりだと飽きちゃって、ポテトチップって衝撃的だよね、やっぱり」

「そうかな」健ちゃんは音楽に聴き入っていて、わたしの話は聞いていないようだった。

「なんか、いろんな味が入っていて、不思議な感じしちゃってさ」

「オレは、柿の種のほうがいいな」ワンボーイのエンディングに入るとやっと自分の意見を開陳した。

「その、新しい味っていうか、大人の感じっていうのか、酸っぱいつうのか甘辛いってのか」そのあとこれも住友の家で出されておいしかった冷やし中華の話もしようとしたら、本堂に向かって来る小さな明かりが見えた。

懐中電灯の明かりだ。

「やばい、隠れろ」わたしたちは縁の下の奥へ移動した。

光源の目標が定まらずに左右に揺れている。やはり何かを探しているようだった。光は地を這うようにこちらに近づいてくる。やがて目的を定めたようにまっすぐこちらに向かってきた。だいぶ近づいて来たので人影が確認できた。お寺の提灯の明かりだけなのでぼんやりとしたシルエットしか見えない。

「警官かな?」

「いや、違う」

「お坊さん?」

「坊主にしては袈裟を着てないみたいだ」

近づくにつれ安心してきた、子供のようだった。

「おい、久美ちゃんじゃないか?」健ちゃんが言った。

「うん、そういえば女の子みたいだ」髪が長い女の子だ。細い身体に白いブラウス。久美ちゃんに間違いなかった。わたしは縁の下を飛び出した。久美ちゃんは自分の前に立ちはだかったわたしを見て一瞬ひるんで「きゃっ」と小さな叫び声をあげた。

「久美ちゃん。どうしたの?」わたしが叫んだ。

「ああ、じゅんちゃん、驚いた、急に飛び出さないでよ、大きい狸かと思ったわよ」わたしだと分かると姿勢を正して体勢を整えた。

「脅かしてごめん。でも久美ちゃん、何でここが分かったの」

「だって別れるとき、護国寺に行くって言ってたじゃないの」

「ああそうか、いい感してるじゃない」わたしはそれまでの経過を思い出し納得した。

久美ちゃんは家でまともなお風呂に入ったらしい。長い髪にはもう籾殻はひとつもなく、甘いシャンプーの香りがした。髪をまとめずにおろしているのでいつもより子供っぽく見えた。

「いつも学校の帰り、境内の下に隠れて遊んでるじゃないの、あそこだなってピンと来たわ」

「ここに来るまで怖くなかった? お母さんに見つからなかった?」わたしは矢継ぎ早に質問した。

「家に帰ったら、裏のドアには鍵がかかってなかったの」

「それで」

「だから、そっと家の中に入ってお風呂に・・」

「あの汚いかっこ見られなかったの?」

「ええ、服はお風呂の中でもう一度洗って、あとは洗濯機にぽいっと」

「よく見つからなかったね」わたしは感心していった。

「母さん、いつの間にか帰ってお風呂から上がったわたしの顔見て驚いていたけど、でも引っ越しの準備でてんやわんやで、助かったわ」

「そうか引っ越しだね」

「久美ちゃん、家の人、今日のケンカのこと何か言ってなかったかい?」健ちゃんも床下から出てきて訊いた。

「ううん。うちでは何も」

「じゃあ、大したことないってことか」

「そうかも、それより余ったご飯でおにぎり作ってきたけど、食べません?」久美ちゃんが健ちゃんとわたしを交互に見て言った。

「すごい、ありがとう」わたしは感激して言った。

「それから懐中電灯とお菓子も」久美ちゃんは経木にきちんと包んだおにぎりと袋に詰めたお菓子を手渡した。

「久美ちゃん気が利くな、ありがとう。ところで今何時だい?」健ちゃんが訊いた。

「家を出てきたのが九時くらいかな」

「へえ、そんな時間か。お母さん事故やケンカのこと知っていた?」わたしが健ちゃんと同じことをもう一度訊いた。

「いいえ、何もいっていなかったわよ。まさかわたしがケンカに巻き込まれたなんて思ってもいないのかもしれないけれど」久美ちゃんの言葉にわたしは少し安心した。大した話じゃなかったのかもしれない。わたしはそう思いたかった。

「ともかく、ごちそうをいただこう」健ちゃんが言った。

「こんな冒険初めてよ。母さんに黙って、夜遅く家を抜け出すなんて」久美ちゃんが快活に言い放って、その場は華やいだ雰囲気になった。

わたしたちは床下に戻り、にぎりめしをほうばった。腹が減っていたせいか涙がでるほどうまかった。塩をつけて握っただけのようなのにご飯の味は深みがあった。白いご飯がこんなにうまかったなんてその時まで気がつかなかった。健ちゃんとわたしで大きめのおにぎりを四つたいらげた。

「もっとないの?」わたしが図々しく言った。

「余ったご飯を握っただけだから。それよりじゅんちゃん、家に帰った方がいいんじゃない」

「もう少しここにいるよ」

「じゅんちゃんのお母さん心配してるかも」

「今日は健ちゃんち泊まるっていってあるし。たぶん今日も仕事が忙しくてそれどころじゃないと思うよ」

「でも・・」久美ちゃんは反論しかけたがわたしが遮った。

「心配してくれて、ありがとう。それよりもう遅いから久美ちゃんこそ帰りなよ」

「わたし帰るわ、引っ越しの準備もしなきゃ」

「外国に行くなんて信じられないよ」

「あたしも信じられない。それも来週」

「不安はないの?」

「不安だらけよ。わたしこう見えても神経質だから。向こうで気が狂っちゃうかも。そうしたらじゅんちゃん迎えに来てよね。でも、気に入れば日本よりも快適だってお父さんが言ったし。その時はじゅんちゃん遊びに来てよね」

「ああ、航空券さえ送ってくれればね、いつでも」わたしは笑いながら冗談を言った。

「あっはは、そうね」久美ちゃんも素直に笑ってくれた。

「久美ちゃん、転校すんのか?」健ちゃんがぶっきらぼうに訊いた。

「はい」久美ちゃんはニッコリ笑って答えた。

「へえ、おまえたちの長すぎた腐れ縁も幕を引くときが来たか」健ちゃんが茶化した。

わたしは久美ちゃんに何かあげようとポケットの中を探ってて手掛かりを探したが全く空だった。縁の下の段ボールにビー玉のことを思い出した。その中に出来損ないのビー玉が一つある。ガラスが溶けて固まらないうちに転げ落ちたのだろうか、球がひしゃげていて、おまけに排泄したばかりのウンチのように頭がとんがっていた。すべてがお揃いのビー玉の中で唯一の変わり者だった。わたしはこのビー玉が気になっていた。自分の分身にも思えていた。分身ならば十分に餞別で遠くに行かせる役目は担えると思った。

「久美ちゃん、餞別でもあげたいけど、こんなものでもいい?」わたしはひしゃげたビー玉を差し出した。

「あら、かわいい。ありがとう」そういうと手にとって薄明かりに何度も照らして不思議な形を観察していた。

「なにこれ、水滴の形? それとも」

「ガラスのウンチに見えない?」わたしはそう言ってからしまったと思った。

「いやだなあ、変なこと言って」

「久美ちゃんならそんなのしそうだよね。透明で臭わない」健ちゃんが声を上げて笑いながら言った。

「やめてよ!」

「久美ちゃんのはそんなに固いわけないさ」わたしは弁護ともからかいとも分からない助け船を出した。久美ちゃんはわたしたちの会話を無視して暫くビー玉を見ていた。

「そうだこれガラスのタマネギよ。そっくりだわ」ガラスを眼鏡のようにしてわたしを覗いた。

「すごい! これってレンズになっていて、じゅんちゃんが横長に見える」

「どれどれ」わたしもガラスのタマネギ越しに覗くとすべてが横長で曲がって見えた。

「でもお別れだね」わたしはビー玉を久美ちゃんにわたしながら言った。

「そんな大袈裟な。まだしばらく入るし。足の怪我はどう?」そう言いながら久美ちゃんはひしゃげたビー玉をもう一度眺め、そしてスカートのポケットにしまった。

「ああ、そんなの忘れていたよ」膝のすりむいたところはもう血が固まっていて痛みもなくなっている。久美ちゃんに指摘されたとたんヒリヒリと痛みだした。でもそんなことより唯一気楽に話ができる女友達を失う痛みの方がずっと大きかった。

「ばい菌が入るといけないわ、あそこの水道で洗ってこれを巻いておくといいわ」そう言って白い木綿のハンカチを差し出した。

「ありがとう。でももう痛くないよ久美ちゃん」そういいながら、わたしはハンカチを受け取った。洗い立てのガーゼのように柔らかいハンカチだった。

「健ちゃんも。今日はありがとうございました」そう言って気だての良い律儀な小学生風に頭を下げた。

「ああ、久美ちゃんも元気でな」健ちゃんがそう言うと、あとは何度も振り返りながら元来た道を早足で帰っていった。この先、久美ちゃんにはもう会えないような気がして、わたしは後ろ姿が暗闇の中に消えるまで見送った。

「久美ちゃんて可愛いよな。じゅん好きなのか?」

「え? 幼なじみってだけかな。好きとか嫌いとかそんなこと全然ないよ」わたしは素直に答えた。健ちゃんの目から見ても久美ちゃんは可愛く見えるということがむしろ驚きだった。

久美ちゃんがいなくなりわたしは気が抜けたようになった。そしておにぎりで腹が膨れて余裕がでてきたのか、ものすごい睡魔がおそってきた。

いつのまにか寝入っていたらしい。逃亡している夢を見ていた。追いかけられているが、自分の足がクラスの一番どんくさいやつよりさらに遅くなっている。みんなが逃げていくのに自分は捕まりそうになる。追いかけてくるのは警棒を持った警官だ。万引きをしたあと追いかけられているのだろうか。すぐ先に区民プールが見えた。金網を乗り越えて中に入ろうとするが、この金網がとてつもなく高くそびえ立っている。懸命に登って行くがいっこうに終わりが見えない。追いかけてきている警官の数が何十人にも増えている。下を見ると同じ顔をした警官が黒い制服を着てゴキブリのようにびっしりと金網に張り付いている。やっと金網の上に出たので下を見るとプールが遙か眼下に見えている。警官は直ぐ後ろに迫っていた。思い切ってプールに向かって飛び降りた。空中を体がくるくると舞う。飛び込んだ感覚はないのに体はプールの中にあった。前を見ると久美ちゃんが泳いでいる。いつもの見慣れている夢になった。水着姿の久美ちゃんを捕まえようとして抱きつこうとすると、前から警官が制服を着たまま泳いでくる。何十人という数になりわたしの周りを覆い尽くした。一瞬まわりが警官の制服で真っ黒になったと思ったとたん、水中からわたしは飛び出して、また追いかけられている場面になった。逃げ走る道が急に舗装から線路に変わった。追いかける人間も警官から駅員に変わった。あい変わらず走る速度は極端にのろいのでついに捕まってしまう。わたしの体は図体の大きい駅員に押さえつけられてしまった。そして体が痛いのと、誰かがわたしの上にしかかってくるような感覚があり、半分恐怖感を伴って目を覚ました。

ごそごそ人間が動く気配がした。続いて低い声で話をする声がする。誰と話しているのだろうか。わたしの体にのしかかる重さは大柄の人間の身体のようだった。そして誰か他人の手がわたしの顔に触れた瞬間、わたしはのしかかる身体を振り払い飛び起きた。目に飛び込んできたのは、暗がりに浮かぶひげ面の大男だった。わたしの首を絞めようと毛むくじゃらの手を伸ばしてきた。真っ黒の顔で目だけが丸く光る、本堂に来るときに通りがかりの仁王門で見た恐ろしい形相の金剛力士像の復活を見ているようだった。

「や、やめろ!」わたしは恐怖のため大声を上げた。

「おお、小僧、起きたか」男は低い声で言った。

その男の後ろで健ちゃんの笑っている姿が目に入った。

「だれだ、おまえ」

「じゅん、寝ぼけるなよ」健ちゃんが冷静な声で言った。

「健ちゃん、知ってる人?」

「まあな」

「びっくりするなあ。だから誰なの?」

「古い知り合いってとこかな。寺の住人だよ」健ちゃんは相変わらず笑っている。

彼が有名な「おけいちゃん」だった。本当にいたのだ。猫や犬を食べてるとか、小学生が脅かされたとか、墓場を荒らしているとか、酔っぱらって森の中をうろついているとかいろいろの噂があった。ともかく護国寺の森の住人らしい。おけいちゃんはずいぶん年寄りに見えた。すすけた顔がそう見せているのかもしれない。長く肩までのびた髪はずっとお風呂に入っていないらしくごわごわに固まっているようだった。太った体はヒグマそっくりだった。よく見ると目が丸くて下ぶくれの輪郭でそんなに恐ろしい顔でもない。

「君、何年生だい?」おけいちゃんが訊いた。言葉の丁寧さと落ち着いた低い声がわたしを驚かせた。

「六年」と反射的に答えた。堅い土の上で寝たせいか肩と首が痛かった。

「学校はどうした?」

「今日は、終業式。あしたから夏休みさ」

おけいちゃんはわたしには六〇歳代にみえた。でも声は若く張りがあった。

「あしたから夏休みか、最高だな」

「うん、最高っす」わたしはオウム返しに答えた。

「人生これからだ」

「まだまだ、たっぷり休みがあるよ」健ちゃんも嬉しいのだろうか。

「オレは、夏休みの終わりって感じかな」

「おけいちゃん夏休みがあるんですか?」わたしは変だと思ったが、バカな質問をしてしまった。

「人生の黄昏ってことよ。つまり使い果たしちゃったオレと。これから始まるおまえたちがいる」そう言って泥だらけの上着の内ポケットから携帯用のウイスキー瓶を取り出して一口飲んだ。

「夏休みは何日ある?」おけいちゃんが訊いた。

「そうさな、四〇日ぐらいか?」健ちゃんが素直に答えた。

「一ヶ月と一〇日、六週間だよ」わたしが補足した。

「わしの人生はちょうど夏休みの終わる前日ってとこかな」

「残り長く生きられないということ?」わたしが訊いた。おけいちゃんはわたしの質問には答えず話を続けた。

「休みの初めは、えらく長く感じる」おけいちゃんが言った。

「永遠に続くようにも感じる」わたしが詩の朗読を読むように言った。

「でもあっという間さ。終わりに近づかないと分からない」

「八月の終わりに分かるっていうこと?」

「まあ、そんなことかな。たとえば本堂の裏の土台に焦げた後がある、わしが子供の頃焦がした後だ。でも何年経ってもそのままだよ。そしてそれを見ると昨日のことのように思える。それでやっと人生短いなって分かるんだ」おけいちゃんは酔っぱらっているようだったが語気は鋭かった。

「なんで焦がしたの? 重要文化財火気厳禁って札があるよ。焚き火でもしたの?」わたしは真面目に訊いた。

「おまえさんもお寺の柱にでも印でも付けておいてごらん、半世紀経ってそれを見つけることができることがあれば、同じように感じるかもな。まあ、お寺が残っていればの話だけれど」

「小学校は建て替えてもお寺は残るだろうね」健ちゃんが寝ころびながら言った。ラジオからは歌謡曲が流れてきていた。

「島倉千代子は好きなのかい?」

「別に、普通だけど」健ちゃんが退屈そうに言った。

ウイスキーの瓶をラッパ飲みしながら、おけいちゃんが「八一〇キロに合わせてくれ」といった。

「なにそれ?」わたしは素っ頓狂な声で応じた。

「エイトテンFENだよ、聞いたことないかい?」

「極東放送ってやつだろ」健ちゃんが言った。わたしは久美ちゃんが聞いていると言っていた英語の放送局のことを思い出した。

八一〇キロサイクルに同調するとラジオからべらぼうな早口で英語らしい言葉をまくし立てる声が聞こえてきた。重大ニュースでも入ったのかものすごくエキサイトしている。その叫びにも似た早口の英語が静まるとやがてトランペットの響きが聞こえた。ずいぶん昔に聴いたような曲だ。おけいちゃんは「おう」といって新聞を丸めてたたみ、口元に持っていった。

「それ、なんなの?」わたしが訊いた。

「トランペットのつもりだろ。サッチモだよ」健ちゃんが言った。

「え、誰?」

「ルイ・アームストロング、黒人のトランペット奏者だよ」

長いトランペットの演奏が終わり、歌のパートになるとおけいちゃんはしわがれ声でラジオと一緒に歌まねをした。

「ラビアンローズ?」健ちゃんがおけいちゃんに訊いた。

おけいちゃんは応えないで気持ちよさそうにのどをつぶれたように唄った。完全に酔っぱらいの演歌という感じもしたが、しっかりそれらしい雰囲気を出している。歌詞の中身は分からないが黒人の魂の叫びとかだろうか。首を左右に振りながら口をひくひくしながら苦しそうだった。あまり苦しそうなのでもうやめたらいいと思ったとき歌が終わり大げさなトランペットのエンディングになった。わたしは思わず拍手した。

「おけいちゃんって体つきがアームストロングに似ているね」健ちゃんが言った。

「ありがとう、声は?」

「声も」わたしはその時聞くのが初めてだったがそう断言した。

「いい観客だ」とおけいちゃんはいった。

「なんで上手なの」

「いや、基地で働いていたからな」

「米軍の」

「まあ、そうさ」

続いて英語のアナウンスが始まった。相変わらず早口で何を言っているのか皆目見当がつかないがおけいちゃんは頷いていた。

アナウンスが終わると今度はカントリーアンドウエスタンの曲が流れ出した。ハンク・ウイリアムズだとか、ハンク・スノウの渋い歌声が続いた。

「カントリーはいいなあ」曲が終わるとメロディを口ずさみながら健ちゃんが言った。

「でも東京生まれで、田舎なんかないじゃないか」わたしが言うと「いや、カントリー音楽の話だよ」と付け加えた。

「おまえら、歌の意味知ってるのかい」また、おけいちゃんが話に入り込んできた。

「故郷のみんなに会いに帰るんだろ、やっぱり生まれた土地はいいなあって」健ちゃんが優等生的に答えた。

「そうだけど、みんな夢なんだ」

「ゆめ?」

「本人は牢獄の中さ」

「けど、ジェイルなんて歌詞は聞こえなかったよ」

「直接の言葉はないけど、分かるだろ」

「ぜんぜん」健ちゃんもお手上げのようだった。

「看守と神父が出てくる、夜明けに彼らと一緒に歩いていくってことは、死刑が執行される直前だな」おけいちゃんは当然だというような顔をしてうなずきながら、ちょっと臭い感じで説明を続けた。わたしは電池の消耗を避けるためラジオのスイッチを切った。

「かわいそうに、なにしたの?」

「そんなの知らないけれど、死刑なんだからよっぽど重い罪を犯したんじゃないのか」細かいこと聞くなという気持ちがありありした表情をした。

「人殺しとか?」

「まあな」

「でも悪いやつじゃなさそうだし」

「過失だったのかもな」

「過失って」

「故意じゃなくて誤って誰かを殺しちゃうとか」

「それでも罪になるの?」

「場合によるだろうけれど」わたしは不安になってきた。わたしは健ちゃんに向かって小声で訊いた。

「今日の事件でも、誰か死んでいたら死刑になるかな」

「事件って、今日のことか?」

「うん」

「まさか、子供は死刑にならないんだよ」

「でも、このあいだ、少年死刑囚ってテレビでやってたよ」

事実、わたしはそのテレビを見てから恐ろしくて寝付けない日々が一ヶ月も続いたのだ。子供が大人を殺す物語で、殺人のシーンは障子に影が映って刺し殺す瞬間、血しぶきが障子に飛んだ。

「テレビでは、子供は最後に死刑になったと思ったけど」わたしは主張した。

「あれは、作り話」

「でも」反論するわたしの言葉を遮って。

「じゅん、おまえ意外と心配性だな」健ちゃんが諭すように言った。

おけいちゃんがウイスキーを飲み込む音が聞こえた。

わたしはまたラジオのスイッチを入れた。FENからほかの番組にチューニングをしているとNHKのニュースが入ってきた。その日は池田内閣の経済政策がどうかとか、日米安保条約がどうのこうのという政治ネタばかりだった。全国ニュースのあと関東地方のニュースに切り替わった。小河内ダムの水不足の話題に続いてアナウンサーの声からは信じられない言葉が聞こえてきた。

「昨日午後七時ごろ東京都豊島区の大塚駅構内で文京区大塚坂下町の小学六年生、鯨岡祐二君一三歳が山手線の電車に轢かれ大怪我をしました。鯨岡君は都立大塚病院に運ばれましたが重体です。巣鴨署の調べでは、鯨岡君は工事中の空蝉橋から電車線路に入り込んだため入ってきた内回りの山手線電車に跳ねられた模様です。なお、目撃者によると鯨岡君は空蝉橋の崖から構内に入り込み線路を横切ってホームに上がろうとしたところを跳ねられたとの証言もあり事故として調べを進めています。この事故のため山手線は一時間ほど運休しました」

だいたいそんな内容だった。第一に驚いたのは自分の友達の名前がラジオで告げられたことだった。そしてそれがニュースの中でである。さらに付け加えるとクジラが電車に轢かれたということについてだった。わたしの聞き違いだと思って健ちゃんの方を振り返った。

「聞いた? 今のニュース」

「ああ、間違いなさそうだな」

「そんなバカな。あいつ逃げたはずだよ」

「確かめたのか? じゅん」

「そうじゃないけど。クジラが轢かれる訳ないじゃないか」

「でもあいつはホームへ逃げた」

「ちょっと待ってよ、きっと何かの間違いに決まっている」わたしにはそんな事実を受け入れる度量も余裕もなかった。

「おまえさんの知り合いかい?」おけいちゃんが訊いた。

「知り合いって、さっきまで遊んでいたヤツだよ。きっと人違いだよ」わたしは信じたくなかった。クジラはホームに逃げた。たぶんホーム池袋側の先端の階段から上がり、ほかの乗客に混じって逃げたのに違いない。轢かれたのは誰か違うヤツだ。どうしても納得が行かなかった。

「きっと誰かほかのヤツの間違いだよね、健ちゃん」わたしは同意を求めた。

「でも、ラジオではっきり小学生の鯨岡って言ってたな」

「だってあいつ、にぶいけれど、そんなへまやるヤツじゃないよ」わたしは懸命にクジラの事故を否定できる材料を探していた。

「事故だって言ってたな」おけいちゃんが冷静にラジオの原稿でも読むような調子で言った。

「ああ、電車なんか、突っ込むか、押されるかしなければ轢かれるもんじゃないよ。クジラのヤツどうしたんだ」健ちゃんは下を向いて腕を組んだ。

「もうだめだよ。交番に行こう」わたしはすべてに嫌気がさして健ちゃんに懇願した。

「鯨岡のヤツ、死にはしないよ」健ちゃんがそう言って縁の下の土を一握り掴み漆喰にぶつけた。電池がなくなったのだろうか、放送が終了したのだろうかラジオからの音声はいつの間にか消えていた。

クジラは大丈夫だろうか。何度も何度も同じ疑問が頭の中を反射して繰り返された。繰り返される疑問の答えが出ないことが分かると、今度は頭の中に大塚病院の地下で何人もの子供が神妙な顔をしてクジラの死体を運ぶ場面が連続して映し出された。

「世の中受け入れなくちゃいけない事実がほとんどだ」おけいちゃんが言った。

「事実かも知れないけれど信じられない」わたしは微かな声で呟いた。

「別に信じなくたっていいさ」

「でも」とわたしは反論しようとした。

「受け入れて行動するしかない」

「そんなことできないよ」

「オレもそうだった、受け入れられなくてこのざまだ」おけいちゃんが手を広げながら言った。

「おけいちゃんが?」

「まあ、いい。オレは御陵に帰る。おまえたちも帰れ。そして事実を受け入れて行動するんだ」

「どうやって?」

「常識に従って」

「具体的には?」

「簡単だよ。家に帰って親の教えに従う」

「なんだよ」つまらない結論に私はがっかりした。

「それが大人の常識ってもんだ」

「もう帰りな、夏の間はいるからまたおいで」おけいちゃんが言った。

「ああ、鑑別所行きじゃなかったらね」健ちゃんの変な冗談にわたしは本気で怯えた。

「いいかい焦ることはない。おまえたちには時間はたっぷりある。常識に従ってな、ゆっくりやるんだ」そう言い残しておけいちゃんはお墓の方に帰っていった。

おけいちゃんの大柄な後ろ姿を見ていると、夜明けとともに去るドラキュラみたいだなとも思った。

「やっぱり、帰ろうか」健ちゃんがぽつりと言った。

「どこへ?」わたしが聞いた。

「とりあえず、自分の家さ」当たり前の答えしか返ってこなかった。

「うん」わたしもそれしかないと思った。

おけいちゃんの姿も森の中に消えたきりもう出てくることはなかった。これから始まる夏休みでわたしはいろいろなものを失うような気がした。得るものはあるのだろうか、その時までの出来事をすべて消去して新しく始めたかった。それまでのすべての出来事が幻想であってほしいと思った。そしてクジラが死んだというニュースも誰かのとんでもない勘違いであってほしいと祈った。

クジラは次の日の夜に死んだ。ほとんど即死に近い状態だったそうだ。わたしのわずかな希望は絶たれた。彼の死は無理な線路の横断による事故として扱われた。家族の意向とかで葬式は親戚のみでひっそりと行われたらしい。結局あの日、崖下へ落ちていく姿がクジラを見た最後だった。

住友は崖から転落して肋骨を折り都立大塚病院に入院し、退院したのは夏休みの終わる寸前だった。健ちゃんはケンカで刃物で相手を傷つけた罪で警察に捕まった。少年院に行かされることは免れたけれど保護観察処分になった。ケンカのことで父親が激怒し全寮制の中学へむりやり転校させられた。久美ちゃんは夏休みが始まってほどなく母親と英国に発って行った。わたしといえば幸いケガも補導もされなかったが警察から何度となく調べに呼び出され、校長室で何人もの教師から母親と一緒に大目玉を食った。学校はこの事件の処理のため長いあいだ混乱していた。

深沢は健ちゃんに刺された傷で入院した。傷は軽いようだったが、窃盗とその他の余罪が見つかり少年院に移送された。豊島小学校のグループはその場からは逃げられたが、深沢の証言から芋ずる式に補導され警察で調べを受けた。ブリキ缶の財宝は深沢と中学の不良グループが万引きをした品物で、すべて警察に見つかり押収されてしまった。小川たちは深沢から品物を隠すことを依頼されただけのようだった。

夏休みは瞬く間に過ぎ二学期はだらだらと過ごした。クジラがいなくなってからは住友と遊ぶ機会が少なくなった。富田は相変わらずどのグループにも入らず狡猾に活動していた。しかしそんなことはわたしにはどうでもいいことだった。仲間を裏切った富田を恨む気持ちもあまりなかった。わたしは毎日勤勉を装い部屋に引きこもって音楽を聴き、本を読み耽る生活が続いた。いや、事実勤勉だったかも知れない。これまでのように仲間と外で遊び歩いたり万引きをしたりすることも全くなくなった。親の監視も少しきつくなったこともあるけれどあの事件以来、むかしの遊びには興味を失っていった。何年も忘れていた机の前に向かう感覚もよみがえってきた。秋口になって久美ちゃんから連絡があった。ヨーロッパはもう寒さが厳しくなっているらしい。風景がすばらしい絵はがきに青いインキがにじんでいた。絵はがきはいつものペン習字の美しさと丁寧さでかかれた文字で埋められていた。

「じゅんちゃん元気ですか。こちらは寒くてもう冬支度です。でも景色が良くてすばらしいところです。しばらく帰れないと思うけれどクラスのみんなによろしく。さようなら」そんな内容だった。

そして卒業の時期が来た。次の年は同じ公立中学に進学して楽しくやるはずだったが、みな異なる進路をたどることになった。クジラは死んでしまったし、久美ちゃんはロンドン郊外の日本人学校だ。住友は二学期からは野球をやめ、受験勉強に入り兄と同じ名門の私立中学に入学した。仲間のうち、わたしだけが予定通り地域の区立中学校に進学した。中学も相変わらず家から遠い道のりだった。希望を持って進学するという気持ちにはならなかった。新しい友達を作ろうという意欲もなかった。いつまで経っても喪失感はぬぐい去れなかった。おまけにその日の行動を毎日日記に書けと母親から言われ戦利品のモンブランと以前に文房具屋で万引きしたインクで書き綴った。そのおかげで毎日ものごとを内省する癖がついてしまった。

外ではしゃぐ生徒たちを幼いと思い、自分は違うと思うようになってきた。明らかにわたしは変わろうとしていた。毎日の生活には希望は持てなかったが、そのうち必ず何か生産的なことができるようになるという確信もあった。少し大人になったような気分を感じた。

「焦ることはない時間はたっぷりある。常識に従ってゆっくりやる」そう言ったおけいちゃんの言葉が何故か頭に残って離れなかった。たぶんあの夏の出来事は一生忘れないだろう。あのときの仲間たちはみんな好きだった。

第十三章 通夜の席

ずいぶん冷え込んできたと思っていたら小雪が北風に舞っている。空蝉橋にはどれくらい立っていたのだろうか。身体が芯から寒かった。わたしはコートの襟をもう一度立てて防備し、ポケットから手袋を取り出して着用した。腕時計を覗くと通夜の始まる時間はとうに過ぎていた。会場に向かい歩き始めたが、もう一つ確かめることがあることに気がついた。子供のころ発見したあの硯石だ。わたしは欄干まで戻り、薄暗い光の中に変形した硯石を探した。思っていたより目立たなかったが、石は黒く鈍い光を放ってそのままの形で張り付いていた。ぼくは手袋を外し硯石に触った。冷たくざらついたその感触は今までの記憶が確かだったことを裏付けているように感じた。自分でも意味のないことをやっていると感じざるを得なかったが、一つの儀式とでも言うのだろうか。過去とのつながりが確実になって心が落ち着くように思えた。

わたしは覚悟を決めて、久美ちゃんの眠る通夜会場に向かって歩き出した。

葬儀場の入り口にはたくさんの花輪が整然と並べられていた。中に入ると受付に人はいなかった。コートを脱ぎ取り香典を用意していると中年の婦人が出てきて記帳をすすめた。香典を渡し記帳をしたあと、数ページ繰ってみると知った名前がちらほらあった。祭壇に行くと時間に遅れたせいか僧侶の読経や喪主の挨拶も終わったようで弔問客は誰もいなかった。

一人で焼香をすませ親族に挨拶をした。喪主は健ちゃんだった。健ちゃんは下を向いたまま黙礼して顔を上げた。わたしに気がつき少し驚いたようにして何か話そうとしたが、その場でまた深くお辞儀をした。奥の部屋に進むと、そこでは弔問客が集まって酒を飲みながら通夜振る舞いのサンドイッチや寿司をつまんでいた。時間が経っているせいか、かなり酔いが進んでいる客もいる。入り口付近に座ると珠恵さんがすぐにわたしを見つけて近寄ってきた。

「じゅんちゃん、忙しいのによく来てくれたわね」珠恵さんが労うように優しく声をかけてくれた。珠恵さんの頭はすっかり白くなっていたが気丈そうで美しい。

「ご無沙汰してます。元気そうですね。信州にも遊びに来てください」わたしはもっと親しく話したかったが型どおりの挨拶をした。

「このたびはご愁傷さまでした」わたしは座り直して深く頭を下げた。

「そう、急だったんでね。私もびっくりしているのよ。久美ちゃんとは義妹以上の仲のつき合いだったんだけど。じゅんちゃんも小さいときからの仲良しだったもんね」珠恵さんは相変わらずわたしを小学生のように扱う。全く昔と変わっていない。

「結局、どういうことだったんですか? 久美ちゃん」わたしは話を切り出した。

「事故なのよ。駅前のホテルあるでしょ」

「ええ、来るとき見ました。窓に灯りがあまりついていなかったけど」

「景気がいいときに健ちゃんが建てたのよ。今じゃ客が入らず苦労しているけど。あそこの最上階が住居だったんだけれど」

「そうなんですか」

さっき橋の上から眺めていたホテルが健ちゃんの所有物だとは驚きだった。

「洗濯物を取り込んでいるときにベランダから落ちて」

「えっ?」わたしは初めて、久美ちゃんが亡くなった理由を聞いた。

「病気じゃなかったんですか?」

「転落事故だったのよ」

「ほんとに?」わたしはなんと返事していいか分からなかった。その先の言葉は出なかった。子供じゃあるまいしベランダから落ちるなんて考えられない。

「突然だったから、健ちゃんも大変よ」

「あとで健ちゃんと話ができるかな」わたしは珠江さんに尋ねた。

「ええ、わたしが呼んでくるから待っていて」

「はい、いろいろすみません」

「じゅんちゃんの知っている弔問のお客様も来ているはずよ。奥にも行ってみたら」

「珠恵さん、そのことなんだけれど。クジラ、いや白いジャンパーを着た小柄な男が来ませんでしたか?」

「ジャンパーの男?」

「白いスタジアムジャンパーで、野球帽で」

「ああ、たぶんあの男のことかな? 来たわよ」少し考えてから珠恵さんは言った。

「ほんとに?」珠恵さんがあっさりと放った言葉にわたしは飛び上がりそうになった。死んだはずのクジラが来るはずはない。

「野球帽を深く被っていたんで顔は分からなかったけれど」

「それで、どんな様子でした?」

「なにかとても気持ち悪い人で、受付も無視して焼香だけしていったようだけど」

「何か話していきましたか?」わたしの口からは質問ばかりが突いて出た。

「いいえ何も、様子がおかしいから香典泥棒かと思って、注意していたんだけれど。だいたい野球帽を被ったままお焼香をするなんて非常識よね」

やはりあの男は通夜に来たんだ。でも本当にクジラだったのだろうか。そうならば誰かに挨拶するだろうし。珠恵さんは知らなくても健ちゃんは彼を知っている。

「その人じゅんちゃんの知り合い?」珠恵さんは怪訝な顔で尋ねた。

「いや、駅で会ったものだから同級生に似ていたんだよ。だから久美ちゃんの通夜にきた客かと思ったんだけど」

「じゃあ、誰なの?」

「いや、その人、落とし物をしたみたいなんで届けようとしたんだけれど」わたしは脱ぎ捨ててある自分のコートにしまったはずのマフラーを取り出そうとポケットの中をまさぐった。しかし、コートのポケットの中にはタバコとライターがあるだけだった。手袋を取り出したときに落としたのだろうか?

「そうなの、じゃあ失礼しちゃったわね」

「はあ」わたしは気が抜けながら返事をした。

「名前は? 健ちゃんに言っておくわ」

「いいよ、勘違いかも知れないし」

証拠のマフラーが見あたらないので、わたしは自信がなくなっていた。

「まあいいけど、ゆっくりしていって。あたしもう少し向こうに居なきゃいけないから」珠恵さんはそういって祭壇に戻っていった。やはりあの男は来たのだ。でもそれがクジラかどうかは分からない。死んだ人間が来るわけもない。クジラが生きていたとしても、ここに来る理由も理解できない。そして久美ちゃんが死んだ理由もわたしには理解できなかった。人の死などはみな理解なんぞ出来ないのかも知れない。

久美ちゃんは父親の赴任先のロンドンから帰ったあと、しばらく日本の大学に通っていたが卒業を待たずにアメリカのエール大学に留学した。そしてアメリカ人男性と結婚したがすぐに別れてニューヨークで一人暮らしを始めた。

健ちゃんは学校を卒業したあと広告会社に勤務していた。けれどもサラリーマンは性に合わなかったようで、定職に就かずに親父さんの不動産の仕事を手伝ったり、音楽の勉強をしたりしていた。ニューヨークにジャズを聴きに行ったとき久美ちゃんに旅程をコーディネートしてもらった。それが縁でつきあいが深まり、意気投合して大恋愛の末結婚した。二人に子供はなかったがずっと仲のよい夫婦だった。わたしも独身時代には二人にずいぶんとお世話になった。久美ちゃんのことはわたしも好きだったが女性として愛する気持ちはなかった。それに健ちゃんは尊敬していたし、二人のような夫婦になれたらと憧れていた。今でもその気持ちは同じだった。健ちゃんの親父さんが亡くなったあと家業を引き継ぎ事業に成功して地元の再開発を一手に引き受け会社を大きくしていた。地域の商店街の役員もやっていたし区議会議員にも当選した。すべて順調にいっていたと思っていたのだが、その矢先の急な事故だった。

周りを見回すとほとんどが見知らぬ人だった。ずっと会う機会がなかったためにすぐには誰か判別がつかないのだろう。宴席の奥に進んで座りコップをとり自分でビールを注ごうとすると、隣に座っていた中年の女性が話しかけてきた。

「もしかして、木村潤君?」

「ええ」わたしはビールを注ぎながら答えた。

「やっぱり、少し太ったね」急になれなれしくなり、厚化粧の顔を近づけてきて、わたしの手からビール瓶を強引に奪いとった。

「すいません。どちらさまでしたっけ」

「私そんなに変わったかなあ。当ててみたら?」そういいながら注いだばかりのコップにまたビールをつごうとした。

わたしにはその顔は全く見当がつかなかった。しかし、声の調子にはかすかに聞き覚えがあった。ちょっと甲高い、屈託のない明るい調子。

「そうか、関さん? 関順子さん」

「あたりー、まあ飲んで飲んで」

「すみません気がつかなくて。いやー、すっかり奥さんになっちゃったもんだから。いや、上品な奥さんていうか」

「じゅんちゃんと会えるなんてうれしいわ。でもこんな所でなんて」

関さんは急に暗い顔になった。久美ちゃんのことを思い出したらしい。

「みんな来てたのよ。帰ってしまった人もいるけど。住友君とか富田君とか」

「住友、富田? 何十年ぶりだろう。会いたかったな」注がれたビールを飲んでいるうちに、身体が弛緩状態に陥り始めた。

関さんと話し込んでいると健ちゃんがやって来た。

「じゅん、元気そうだな」そう言ってわたしの隣に腰を下ろした。疲れ切っているようだったが声には張りがあった。しかし顔にはいくつもの深いしわが刻まれ、以前のはつらつさはなく仕事に疲れた中年男という感じだった。リーゼントで決めていた髪はこぎれいに短く分け実務型に変わっている。わたしは正座をした。

「このたびは・・・」わたしはかしこまって言った。

「やめろよそんな挨拶。遠くから悪いな」

「いや、新幹線ができてからはすぐだよ。弁当を食べてる間もないよ」

「ああ、そうだな」

「祭壇の方はいいの?」

「ああ、もう弔問客も来ないようだし」

「十年ぶりぐらいですかね」

「おまえも年とったよな。部長だって?」

「それより、久美ちゃん、なんで」

「急なことだったんだよ」健ちゃんは赤くした目をこすりながら言った。

「事故だったんだ。久美子のやつとても疲れていて何かにおびえていたみたいだけど」

「どうして?」それはわたしが一番聞きたかったことだった。

「精神的に参っていたのかなあ」

「すべてうまくいっていたって聞いてたけど」

「ああ、おととしまではね」そう言って健ちゃんは肩を落とした。

「それまではよかったの?」

「うん、駅前のホテル知ってるか?」

「知ってる。立派だよね」わたしはここに来る前に見たホテルを思い出した。

「豪華だろ。あれおととし完成したんだ。結婚式だってできるようにした。あそこの十三階にオレの城がある」

「ほんと、あれ健ちゃんが建てたの?」

「ああ」健ちゃんは微笑んだ。

「大成功だね」わたしは称えるように言った。

「あれはオレの夢だった。おまえと遊んでた頃は楽しかったな。あのころオレは学校でも町内でも厄介者だったよな。じゅんは例外的にオレのことを慕っていてくれたけど。誰も認めてくれなかった。でもオレには変な自信はあったんだよ。今はぶらぶらしていてもそのうち何とかなる。そのうち身体の内部に溜めたエネルギーを爆発させてやる。そこらのへなちょこやろうどもに一泡噴かせてやるってな。オレの方が遙かに上等な人間だということを思い知らせてやるんだってな。学校の先コウや商店街の奴らを見返してやりたいってことだよ。親父とはずいぶんケンカしたけれど、今思うと感謝しているよ。財産だって少しは残してくれた。借金もあったけれどトータルで言えば黒だったし。オレが若いとき遊んでばかりだったけれど大目に見てくれていた。ニューヨークで食い詰めそうになったときには送金してくれた。けれど親父のやってることは小さいんだ。サラリーマンには限度があるよ」健ちゃんはそう言いながらため息をついた。

「じゅん、判るだろ。だからオレは独立した。親父の借金を返しながら思ったんだ。オレは勉強が出来ないって言われたけど、商売の才能はあるって。それに久美子が一緒だったら何でも苦労できると思った。おまえなら判るだろ。久美子の気の強さと行動力のものすごさ。楽しかったな、朝食のとき一緒に計画を立てる。そして実行する。すると夕方にはその通りになる。その繰り返しさ。だから金も貯まる。何も考えずにがむしゃらにやってきた。そうしてやっと夢が叶ったんだ。地元にでかいビルを建てる。だから大塚の駅前の土地を買い占めた。それであのホテルを建てた。オープンの日には都知事だって招いて盛大にやった。結婚式だって、芸能人のパーティだって、株主総会だってできるささ。ちょっと大塚って場所は地味だけど、立派な駅前のホテルだ。最上階にすむのが夢だった。池袋までの線路が見渡せる。新宿のビル群だってお見通し。大塚駅のプラットホームが見える。貨物列車の通るのが見える。なんならゆっくり葉巻をふかしながら貨物列車の数を数えることだってできるんだぜ。天気のいいときは富士山だって、東京タワーの頭が少し見える。そこからすべてをマネージメントする。でも久美子は少し違っていた。そんなの厭だってんだ。もっと普通の小さなマンションに住みたいって。そこで子供を育てたい。そんなこと言ったってオレたちには子供はいない。オレと一緒になる前、久美子の身体はニューヨークの初めの結婚でめちゃめちゃになってしまっていたんだ。とんでもない家庭内暴力男だったんだ。居所が分かればニューヨークでもロンドンでもオレはすぐに飛んでいってぶち殺してやる。もう子供はあきらめていた。だから久美子には何でも好きなことをやらせてきたつもりだ。でもあそこに移ってからすべてがおかしくなった。それでも最初の一年はよかった。二年目からホテルに客が全く来なくなった。このままだと借金が返せなくなる。オレは焦ったよ。そんなこんなで久美子に当たったかも知れない。迷って女遊びも少ししたさ。でも浮気じゃない。言い訳じゃないけれどこれは本当だ。信じてくれ。最近の久美子の口癖は昔に返りたい。あんた何とかしてよって。こればっかりだったよ。オレはどうせ女の更年期障害だろうと高をくくってた。でも少し様子が違った。先祖帰りってんだろうか、本人はインファンテリズムと言っていた。急にものすごく子供っぽくなるんだよ。だからじゅんと遊んでいたときのこともよく話していた。そしてまた昔に返りたいさ。オレは場所がよくないのかとも思った。あそこはオレたちの子供の頃からの遊び場だったよな。思い出しちゃうんじゃないかと。だからまた外国にでも引っ越そうかとも思ったよ。でも今のオレにはそんな余裕はない。借金を返すことで頭がいっぱいだ。外国旅行だって出来ないんだ。新規事業なんかも考える余裕がない。本当に久美子の助けがほしかった。アイディアがほしかったんだ。でも久美子にはあの前向きに進んでいく引きつけるエネルギーはもうなかったんだ。すべてが後ろ向きだ。そうやって、ここ一年はすべてが悪い方に転んでいった。ついに久美子は十三階の部屋にこもりきりになった。医者は一種の鬱病だと言っていた。だから薬も飲んでいて最近は少し調子がよくなってきていたのだけれど。掃除や洗濯なんかもしてたよ。それで少し安心してたらこんなことになっちゃって。それで昨日の事故。最悪だよ。たぶん事故なんだと思う。それ以上は考えたくはないけどな。じゅん落ち着いたら今度、ゆっくり遊びに来いよ。もっと話したい。久美子のところに行かないか?」健ちゃんは立て続けにしゃべると祭壇にわたしを誘った。

「うん、会いたい」

いつかといえばわたしは小学生の時の久美ちゃんと、ロンドンから帰ってきたときの久美ちゃんに会いたかった。はつらつとしていて、聞いてるわたしをその中にのめり込ませる。女の子というよりお話のお姉さん。ぐいぐい相手を引きつけていく。ロンドンやリバプールの話は知識の安売りじゃなくて、冒険ダン吉の少女版のような活力があって新鮮な話ばかりだった。棺の中の久美ちゃんはおだやかで、満足そうな顔をして目を閉じていた。

「久美ちゃん相変わらず美人だね」お別れをしてから健ちゃんに言った。

「そうだ、おまえにも形見分けをやろう」

「いいの?」

「ひしゃげたビー玉、それにインディアンターキーの指輪」

「ビー玉?」

「ああ、護国寺で、おまえ、餞別にやっただろ」

「あんなもの?」

「ああ、久美子に言わせるとものすごい宝物だったそうだ」

「なんでかなあ、確かにぼくも好きなビー玉だったし。よく覚えているよ」

「指輪はオレがニューヨークで買ってやったもの、これも彼女の愛用品だった」

「悪いよそんな高級なもの」

「いいさ、オレにはもっとたくさんあるからとっとけよ」

「すいません」

「おまえも久美子のこと好きだったんだろ」

「いや、ぼくは別に好きとかじゃなくて・・・」

「どっちでもいい。オレはおまえにやりたいんだ」健ちゃんはそう言うとおしぼりで顔中を拭いた。そして祭壇に向かい何度も手を合わせた。

久美ちゃんは本当に事故死だったのだろうか? クジラだと思ったあの男は誰だったのだろう? いつまで考えても答えは出ない。わたしは健ちゃんからもらったガラスのタマネギの形見分けをもう一度握った。久美ちゃんがロンドンに発つときわたしが記念にあげた餞別だ。これを久美ちゃんにあげた日、つまりクジラの死んだ日、健ちゃんも護国寺の縁の下にいた。わたしのために何かないかと形見を探してくれたそうだ。久美ちゃんはずっと持っていてそれを見ながら昔話をしたという。わたしはビールと日本酒をかなり空け相当に酔っていた。時計を見ると午前零時を少し回っていた。わたしはひしゃげたビー玉と指輪をポケットに入れ帰宅の準備をした。

「泊まっていったら」

「いや、しばらくぶりの上京だから、実家に帰らないと」

「電車まだある?」

「ちょうど山手線の終電には間に合うかな」珠恵さんが時刻表を見て言った。

「もう歩けそうもないから、車呼んでくれますか」

「分かったわ」

「健ちゃんこのたびは・・・」

わたしは、定まらない視線を健ちゃんに浴びせながら最後のお悔やみを言おうとしていたが、ろれつが回らなかった。タクシーが来た。健ちゃんと珠恵さんに送られタクシーに乗った。

「新宿まで」とわたしは家族の待つ実家の場所を告げた。

車は池袋を抜け明治通りに入った。タクシーのラジオからはオールディーズの音楽が聴こえてきた。わたしはまたクジラのことを思い出した。そして彼はまだ生きているように思え、無性に会いたくなった。

「すみません、引き返してくれますか?」

「どちらへですか」運転手の怪訝な顔がバックミラーに映った。

「大塚駅まで」

まだ、山手線の最終に間に合うだろう。大塚駅に行けばクジラに会えるかも知れない。会って本当の話が聞けるかも知れない。無駄でもいいから行ってみたかった。そして電車に乗ろうと思った。きっと、どこか行き先が表示されている山手線に乗れるだろう。

(了)

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