第十一章 それ逃げろ

第十一章  それ逃げろ

1

崖の大騒ぎと、転落した誰かの悲鳴で、駅員が我々の存在に気がついた。いつも彼らとはいたちごっこで捕まらないのだが、子供の人数も多かったせいか、その日は大勢がこちらに向かってきた。わたしは「まずい」と思った。喧嘩は中止にしてここは逃げ出すしかない。駅員に捕まったら面倒なことになる。

「逃げろ」誰かが叫んだ。

「ヤバイ、バラバラに逃げよう」

わたしたちは、みなてんでの方向に蹴散らされるように逃げた。住友は崖の方へ、クジラは駅のホームへ、健ちゃんとわたしは貨物線路の方へ逃げた。崖は滑りやすいから、落ちたらすぐに捕まってしまう。山手線は時間本数が多いが、貨物線路なら列車はあまり通らない。逃げ出す直前振り返ると駅員達は数十人がおり、崖と線路方面と手分けをしてわたしたちを捕まえようとしていた。崖方向は逃げた人数が多いせいかもう多くの駅員がそちらの方に振り向けられていた。貨物線路の方は数人が追ってきたようだ。数十メートルそこそこまで近づいていた。駅員はわたしたちに向かって

「ばか、やめろー! そっちは危ないぞー」

「電車に轢かれるぞ!」と叫んでいた。

「嚇かしやがって、貨物はもう来ない、さっき通ったばっかりだ」とわたしは思った。

夕暮れが近づき日が沈みかけていた。前を走る健ちゃんの長い頭の影をふんづけながら懸命に走った。マラソンを一生走る気持ちで全力で走り続けた。いつも大塚駅の都電の道を遊び場にしてきたので、線路の枕木の上を走るのは得意だった。しかしその時は勝手が違ってうまく走れない。枕木は意地悪に不規則で歩幅があわず砂利の上ばかりを走っている。薄っぺらな運動靴では足の裏が痛くなった。急いで間隔の広い枕木の間を飛び越そうとして転倒した。右膝から血がにじんでた。立ち上がって前を見ると、健ちゃんの頭の影が遠のいていくのがわかった。健ちゃんは確実に枕木の上を三段跳び競技の選手のように足を伸ばして飛びながら軽快に走っている。健ちゃんとの距離は開く一方だった。膝がじんじん痛んだ。「もう走れない」と思い、捕まる覚悟をしてスピードを緩め、後ろを振り向いた。駅員達はいなかった。かわりに、林久美子が駆け足でややはなれたところまでついてきていた。「え、なんで久美ちゃんが」彼女は橋の上にいたはずだ。

「じゅんちゃん、待ってよ」久美ちゃんが泣きそうな声でわたしを呼んだ。

「なんでこんなところに」

「だって、ごめん」久美ちゃんは何か言いたそうだったが、言葉になっていなかった。

「いいから走ろう」健ちゃんに追いつかなくてはとわたしは焦った。

線路は大きく左にカーブしていた。後ろの方を振り返ると、もう大塚駅のホームは見えなくなっていた。前方には、池袋駅が見えてきていた。ずいぶん走ったのだ。レールは鋭く光っていて直線で駅までまっすぐに伸びるラインだった。そのとき鉄道の線路はその上に立って見るのが最も美しいと思った。表面の輝きと対照的に側が錆びた茶色のH字鋼、それを支える枕木とさびた鉄粉を帯びた砂利、その端々から生長する雑草類、すべてが見ていて完璧だと思った。わたしたちが逃げた線路は貨物用で普段はあまり多く電車は通過しなかった。それでも電車来たらどうしようという不安があった。しかし、それは的中しそれを最初に風で感じた。次に音と線路のわずかな振動でそれは現実だと感じた。振り向いたとき電車は見えなかったが、久美ちゃんと目が合った。振動にあわせるように揺れる視線はこれから来るかもしれない貨物列車を暗示していた。健ちゃんは線路に耳をつけて電車の音を聞いていた。

「じゅん! 貨物がくるぞ!」

「でも、そんなはずは。さっき通ったばかりだし」

「さっき通ったのと反対方向の貨物列車のお出ましだ」

「むこうの線路に移ろう」わたしは叫んだ。

「だめだ」

「どうして?」

「運転手に見つかるとめんどうだ、側溝に飛び込め」健ちゃんが言った。

線路に沿ってある側溝はわたしたちがいつも「ザリガニ」を捕っている泥水の小排水路だった。後ろを振り向くと貨物列車がかなり近くにこちらに向かって走ってきた。

「久美ちゃん、こっちだ」手を引っ張って線路脇に促した。

「でも、そこドブだよ」久美ちゃんが嫌がっているようだった。

「轢かれるよ、早く」貨物は迫ってきていた、音も振動もさっきの数十倍以上に感じていた。健ちゃんが最初に側溝に飛び込んだ。わたしも追いついて同じ場所に身を隠した。続いて久美ちゃんも飛び込んできた。ぬるぬるして気持ちの悪い匂いがする。吐き気のするような膝までの深さの泥水だった。貨物列車の車輪音は確実に近づいて、やがてわたしたちの目の上を轟音をたててがちゃがちゃと金属音を響かせながら走っていった。わたしたちの周辺が上下に規則正しく揺れ小さな小石がどび散ったりするのが目の前に見えた。久美ちゃんは顔を下に向けて耳をふさいでいた。

「迫力だよなあ、こんな近くで見るの初めてだよ」

となりで健ちゃんはいつものように貨車の数を勘定していた。

「七〇台を越えた、最高に長いぞ今日は」

余裕の健ちゃんを見て少し安堵感がわいてきた。

わたしも負けずに余裕を見せるつもりで「ここ、ザリガニがすごくいるよ」と言った。事実。足やおしりのへんには何か生き物が動いていく感触がした。

「そんなものどうだっていい」健ちゃんが不機嫌そうに言った。自分は貨物の数を数えていたくせにと思った。

貨物列車が通り抜けた後もわたしたちはしばらく動かないで、側溝にじっとしていた。あたりは虫の声以外は何も聞こえず静かだった。まわりは日が落ちてうっすらと暗くなっていた。

「追っ手は来ないようだ、行くぞ」健ちゃんが言いながら側溝から立ち上がった。側溝の泥水で身体はすっかり真っ黒だった。洋服はもちろん、手で顔をこすったりするものだから墨を塗ったように黒くて、最前線の兵士のようだった。

「何で女がいるんだよ」

「久美ちゃんだよ」

「なんだ、久美ちゃんか。真っ黒で分からないよ」健ちゃんが顔をこすりながら言った。

「崖の遊び場を見せにつれてきてこんなことになっちゃって。久美ちゃん、ごめんな」

「いいのよ。でもこの臭い何とかならないの」

「でも、久美ちゃんどうしてここにいるの?」わたしは素朴に訊いた。

「あら、失礼ね。だって、上で見ているわけに行かないじゃない、応援にしたまで降りていったのよ」

「でも喧嘩だし」

「気に入った、いい子だ」健ちゃんが言った。

「誰も追ってこないみたいだ、線路から出よう」

駅の近くでは山手線と貨物線の線路は同じ平面を走っていたが、ここまでくると、いつの間にか数メートルの上下の段差が出来ていた。わたし達のいた貨物線は上に、山手線は崖下になっていた。そして、どちらの線路も周辺はずっと両側が高い石垣で遮断されておりいつまでたっても道路にはでられなかった。どういうわけか山手線は電車が停滞していた。事故でもあったのだろうかと思った。

「もうすぐ池袋の大踏切に出るはずだ。そこまで行けば線路から外にでられる」健ちゃんが言った。

線路は幾分左にカーブしており幾分上り坂になっていた。十分間以上も駆けていただろうか、わたしの足と腰は、がくがくになっていた。すりむいた右膝がひりひりしていた。もう一度走り出しかけた時、健ちゃんが言った。

「踏切はやばい、きっと待ち伏せしているはずだ。壁を登ろう」

「どうやって? 五メートル以上はあるよ」

「もっと低い場所を探すんだ」

「どっかに梯子がついてるとこ見たぞないかい」

「あれば楽だけど、ともかく行こう」

しかしいくら先に進んでも、壁は高くなるばかりだった。結局飛び込んだ場所の石垣の壁が一番低く斜面も緩やかなようだった。わたしたちはそこまで戻り斜面をはいつくばるように登った。わたしが一番先に登り、久美ちゃんは健ちゃんにお尻を押されながら登った。

道路まで上がり、ガードレールに捕まってわたしたちは休息した。まだ、胸の鼓動は収まっていない。静脈の流れる音が耳元でごうごうと鳴っていた。健ちゃんと久美ちゃんの泥だらけの顔を見ていると、たった今空爆を受け逃げてきた外国の難民のようでとてもおかしかった。

周辺は路地が迷宮のようにつながっている緑の多い地域で、安アパートや古い木造の一戸建てが建ち並んでいる下町の風情がある。線路に並行して細道が駅まで続いている。周辺に植えられた花が終わった大きな紫陽花が路地をよけい狭くしていた。丁寧に並べられた鉢植えも同様にわたし達には邪魔者以外の何物でもなかった。人気のない空き地の隅でわたし達は固まってしばらく動かずに過ごした。あたりはすでに真っ暗になっていた。

2

「くせーな」

「お尻のところがまだぬるぬるしてる」

「おまえの顔、真っ黒だぜ」

「健ちゃんだって」

「このままでは家に帰れない」

「オレだって」

「おふろにでも入りたい気持ち」久美ちゃんが言った。

「よし入りに行こう、混浴でもいいのか」健ちゃんが優しく慰めるように言った。

「え?」久美ちゃんが大きいな目を見開いてわたしの方を振り向いた。

「そんなの知らないよ」わたしは大きく手を横に振りながら自分のアイディアではないことを強調した。

「まあいいじゃないか、ひとっぷろ浴びよう、ぬるめだけど文句無いよな? そこの彼女」健ちゃんが久美ちゃんの顔をのぞくようにして言った。

「人目のあるところにはいけないよ」わたしが言った。

「見つかったら警察に、捕まるかもよ」久美ちゃんが小声でわたしに言った。

「ついて来いよ」そう言って健ちゃんは天祖神社の方に向かった。わたしたちは少しそのままじっとしていたが、すぐに健ちゃんを追いかけた

「すこし冷たいかもしれないけれどがまんしろよ」といって入り口を探した。

神社の隣にあるいつも通い慣れた区民プールだった。プールはもちろん開業していたけれども夜間は閉鎖されていた。入り口には鍵がかけられていたが、金網を乗り越えれば侵入できる。

「乗り越えよう」健ちゃんが最初に金網にヤモリのようにしがみついて登っていった。金網の高さは二メートルほどで健ちゃんはいとも簡単に中に忍び込んでいった。そしてベンチに座り靴を脱いできれいにそろえておいた後、洋服を着たままプールの中に沈み込んでいった。わたし達も続いて金網にへばりつきながら登った。振り返って下を見ると久美ちゃんも泥だらけの顔をしかめながらわたしの後に続いて登ってきていた。金網の上はしっかりした鉄棒があり有刺鉄線など無かった。鉄棒に座る要領で腰を下ろし久美ちゃんが登ってくるのを待った。近づいてきた久美ちゃんに手を貸した。泥だらけの手はすでにカラカラに乾いており、しっかりと握りあうことが出来た。彼女を金網の上に引っ張り上げ、健ちゃんの泳ぎを見ていた。遠くに山手線の線路と電車が通る音が聞こえた。闇に目が慣れてきたのか久美ちゃんの幾分ふくよかさがなくなった顔が近くにはっきり見えた。わたしは勢いよく金網から飛び降りた。久美ちゃんはゆっくりと登ってきたときと同じスタイルで金網に縛りつきながら降りてきた。降りきったのを見届けてからわたしは、健ちゃんと同じようにベンチで靴を脱いでから足から静かにプールに入った。水はかなり冷たかったが、汗と泥を気持ちよく流してくれた。健ちゃんはすでに二五メートルプールの端まで泳ぎ着いていた。

わたしが頭まで潜ってから水面に顔を出すと、顔と頭にこびりついた泥がプールの水を汚した。数秒のうちに闇の中のせいか、泥の黒い渦潮は、拡散してなくなり元の透き通った水に戻ったように見えた。水の中で洋服をすべて脱ぎ、いつの間にかわたしと健ちゃんは全裸になりはしゃいで泳ぎまくっていた。

「俺は家に帰って風呂に入る、おまえらどうする?」健ちゃんが訊いた。

「もう少しここで泳いで、追っかけて健ちゃんの家に行くよ」

「捕まらないように用心しろよ」健ちゃんはそう言い残すと、濡れた体を拭きもせずに去っていった。

久美ちゃんは、プールの端に腰をかけて洋服を着たまま足を洗っていた。水をすくい顔を洗っている。

「おい、入れよきもちいいぞ」脱いだ洋服と靴をプールの縁にかけながら久美ちゃんを促した。

「このまま?」久美ちゃんが言った。

「脱いでもいいけど」わたしが言った。

久美ちゃんは靴と靴下を脱いでプールの端に置くと洋服を着たままそろそろと足から水に入った。久美ちゃんのスカートが少し膨らんだがすぐに水の中に入ってしぼんでしまった。そして、ゆっくりとした平泳ぎで二五メートルプールの反対側まで泳いでいった。ターンして戻ってきた。一番深いところでイルカのように一度伸び上がってからまた潜りしばらく出て来なかった。わたしが水面を見渡して探していると、いきなり潜水から復帰し目の前に顔を出した。

「やあ、じゅん元気?」敬礼のまねをしながら久美ちゃんがいたずらそうに言った。

「泳ぎうまいね」

「下田の海で毎年やってるわ、もぐりは得意よ」そう言うとまた潜水で反対の方に泳いでいった。わたしも潜って彼女の後を追った。泳ぎながら、いつか記憶のある場面のように思えた。そうだ、いつもの夢の中で見るシーンだ。わたしが夢精を初めて体験した時の場面と同じだ。彼女の肢体にはスカートがまつわりついて泳ぎにくそうだったが、足で勢いよく水を蹴っていた。不思議な気持ちになってわたしは思わず自分が全裸であることに改めて気がついた。久美ちゃんの足は青白くてか細かった。スカートがまくれ上がって腰のあたりまで透き通った様に見える瞬間があった。追いかけて彼女の足に触れそうになった。

わたしはあわてて向きを変え反対の方に泳ぎプールからでて、縁にかけておいた下着を着た。久美ちゃんは反対の縁に上がった。洋服を着たまま泳いでいたので全身から水が滴っており、長い髪はべっとりと頬と肩にへばりついていた。スリップは体にぴったりと張り付き、ずぶぬれの久美ちゃんは鳥殻のようにやせて見えた。でも、横を向いたとき光源を背にしたシルエットには久美ちゃんの胸もとは乳首の周りだけがすこし膨らんでいるようにもみえた。ぬれた髪を上に上げているので普段見えないおでこが丸見えになった。前髪に半分隠れていた眉毛が案外太くて凛々しい事もわかった。形の良いおでこには、これまでなかったであろうと思われる小さなニキビがぽつぽつと膨らんでいた。久美ちゃんの体は確実に変わってきていることをそのとき実感した。わたしたちは水浸しの洋服をそのまま着て靴下の水を絞り、靴を洗ってから履き元の金網から外に出た。いっこうにやまない雫を引きずりながら、わたしたちはまた歩き出した。泥はすっかり落ち気持ちはすっきりしたが、濡れた半ズボンとシャツが体にへばりつきものすごく寒かった。

3

「そうだ、神社の空き地に行こう」わたしは天祖神社のとなりの空き地にある籾殻の山を思い出した。籾殻は暖かそうだし、たぶんバスタオルの代わりになると思った。このあいだ果物屋の兄ちゃんのリンゴを取り出す作業を手伝ったあとにはたくさんの籾殻の山ができた。箱を持って現れ、何度も籾殻を捨てにくる。いつもリンゴの数をごまかしているあれだ。

「久美ちゃん、ずぶ濡れだね、夕立? 傘なかったの?」わたしがからかった。

「じゅんちゃんこそ、川でおぼれかかった孤児みたいよ」久美ちゃんが応戦した。

「どこかでキャンプファイヤーでもやっていないの」久美ちゃんが小刻みに震えながら言った。

プールから少し坂を下ると神社の鳥居がみえた。神社を突っ切りその裏の空き地に抜けた。空き地には籾殻の山がまだ燃やされずに残っていた。

「籾殻がタオル代わりさ」わたしが明るく言った。

「だいじょうぶ?」

「よし、やってみるからね」わたしはそういっても身柄の山の中に潜り込んでいった。籾殻は太陽のぬくもりがまだあり暖かかった。手でほじくると地面に接しているところは冷たく湿気も感じられたが、上澄みは十分すぎるほど柔らかで乾燥していた。わたしは籾殻を吸い込まないように息を止めて、顔にまぶしシャワーで洗うようにをこすった。

「少し痛いけど、寒くなくなったよ」

久美ちゃんも籾殻の中に入ってきた。そして人心地つくと、二人で籾殻を掛け合った。口や鼻や目や耳に籾殻が入り込み気持ちが悪かったが、寒さを通り越して暑くなってきた。

「いい衣がついた、これなら寒くない」わたしも楽しくなってきた。

「洋服も何とか乾燥させることが出来たわ」久美ちゃんが機嫌良く言った。

「久美ちゃんがここにいるなんて信じられないな」感激の意味を込めてわたしが言った。

「わたしだって」

「とんだ巻き添えだよね、どうして線路に降りてきたの?」

「だって、さっきも言ったでしょ」

「なんて?」

「喧嘩していて鯨岡君が崖から滑って落ちたでしょ、絶対ケガしたと思ったわ、助けなきゃと思ったの」

「それで崖を降りてきた?」

「うん、ナイチンゲールの心境よ。そうしたら駅員さんが気づいて、あの大騒ぎ。じゅんちゃん! ってなんども呼んだけどどんどん逃げて行くばかりで」

「ごめん、ほんとに気がつかなかったんだよ」

「ほかの連中どうしたか知っている?」

「住友君は下で動けなくなっていた、でも大したけがじゃないといいんだけれど」

「ほかには?」

「鯨岡君は山手線のホームの方に逃げていったと思うの」

「途中で駅員が皆引き上げていったろ、あれはどうしてなんだろう」

「だから、山手線の方で何か事故でもあったんじゃないかと思ってそれが心配なのよ」

「電車を止めちゃったとか。そうだとしたら。学校で大目玉だな」わたしは声が詰まった。

「あーあ」久美ちゃんは後悔しているとも楽しんでいるともわからないようなため息を漏らした。

「とんだ夏休みになっちゃたね」わたしは慰める意味合いで籾殻を握りつぶしながら言った。

「いい思い出になるかも」

「学校で怒られるな。久美ちゃんのことは黙ってるから安心してよ」

「ありがとう」

「まあいいや、夏休みは遊んで、二学期の始業式で怒られればいいんだ」

「わたし二学期の始業式には学校に行かないと思うわ」

「こんな事件起こしたから ?」

満面に笑顔を浮かべて

「あはは、違う違う、わたしねこの夏休み中に転校するわ」籾殻をいっぱい髪や顔につけて言った。

「久美ちゃんが?」

「パパの転勤で」

「どこへ」

「ロンドン、パパは先月からもう行ってるの」久美ちゃんはあまりにもさらりと言った。

「えっ? ロンドンって、イギリスの?」籾殻を一つひとつゆっくりと顔から取り除きながら次の言葉を考えた。

「アハハ、そう、イギリスのロンドン。向こうには日本人の学校があるって。だから心配はないと思うけれど」

「久美ちゃんのお父さん、放送局の記者だったよね」

「うん、支局のそばには大きな公園もあるし二階建てバスも走っているんだって、きのう絵はがきが来たわ」

「そう、ずいぶん遠くだな」

「五年生の時、誕生日会にうちに誘ったの覚えてる?」

「知らないよ」

「ほんと? とぼけてんだから」

「そんな昔のこと」

「約束したのにすっぽかして」

「そういえば、久美ちゃんのおばさんがうちに来て、待ってたのにどうして来なかったんですかとか言ってたよね」

「ほら、覚えているくせに」鋭くつづけた。

ほんとに忘れていたのだ、でもそのころはもっと楽しい遊びが他にたくさんあった。女の子の家にお呼ばれなんてかっこわるいと思っていた。それならきちんと断ればよかったのだ。いい加減な性格があらわになった。

「じゅんちゃんって変だよ」

「なにが」

「不良じゃないのに不良仲間に入っていて」

「え?」

「全然似合わないよ」

「そう見えるのかなあ」

「富田君とか鯨岡君はちょっとまずいよ」久美ちゃんは眉を上げながらわたしのほうに向き直っていった。クジラをまずいというのには腑に落ちなかったが彼女も周りのうわさだけに流されている。自分で確かめたわけじゃないんだ。反論しようとしたが、その会話はこの場の雰囲気にとても似つかわしくないように感じた。

「久美ちゃんも行っちゃうのか」わたしは話題を変えた。ずいぶんと長いポーズがあった。遠くに早稲田行きの都電のヘッドライトが見えた。電車の音が近づく前に久美ちゃんが沈黙をやぶった。

「でも、じゅんちゃんには関さんがいるじゃない、じゅんじゅんコンビで仲良くやって」サバサバとした乾燥ぎみの声で、わたしの目を覗き込みながら言った。

「関さんは関係ないよ」

「好きなくせに」

「ちょっと、違うんだな」籾殻を集めてもう一度自分の全身にまぶした。籾殻は全身をマスクするようでこんな話もあまり照れずにできた。

「なにが違うの」久美ちゃんの髪には籾殻が中まで入り込んで点々としていた。肩までの長い髪に籾殻が白ごまのようにまぶされていた。いつも自信ありげに引き締まっている唇は、縁日の時の透き通ったスモモの赤とは反対に、その夜はたくさんの絵の具を混ぜすぎたような色に染まっていた。寒さのせいかかすかに震える唇に一つ二つ籾殻が揺れて金色に光っていた。

「住んでる世界が」久美ちゃんの方が関さんよりずっと大人で悪い女に見えることがあった。関さんは愛くるしくて快活で誰もが好きなお嬢さんだ。わたしとは全然住んでいる世界が違うことを言いたかった。

「はは、気取ってる」唇の籾殻を手で払いながら久美ちゃんがからかうように言った。久美ちゃんの顔がずるそうに笑ったので、わたしはすこし戦闘的になった。

「もみがらあたま!」そう叫んで、手にいっぱいつかんでいた籾殻を久美ちゃんにぶつけた。

「しらみあたま!」久美ちゃんも負けずにプールで水を掛け合うような仕草でわたしに籾殻の塊をすごい勢いで連射してきた。籾殻は神社から漏れる提灯の明かりで金の小粒のようにキラキラと光った。空はビロードのように真っ黒だった。応戦しようともういちど手元の籾殻をすくい上げようとしたとき何か堅い物が手に触れた。石ころよりは柔らかい感触だった。

「ちょっと、待って」

もしかしたらと思い籾殻の中を探してみた。まさぐる手をふざけて久美ちゃんの足を触った。

「きゃあ!」と久美ちゃんが叫んだがその声を無視してまさぐった。あるある一つ二つ、リンゴが一個てきた。その日の事件のことも忘れてすこしうれしくなった。久美ちゃんにひとつ渡しながら「夕食にありついたよ」とわたしは笑いながら言った。

「ああ」わたしは久美ちゃんに小さい方を渡した。

「わたしはいいわ、もう家に帰らなきゃ、きっと心配してるわ」そういいながらリンゴを健ちゃんに手渡した。

「はらぺこだ」

「ナイフがないわね」

「いいさ、皮のまま食べよう」わたしはリンゴをシャツで磨き始めた。

小振りの青リンゴは磨くと夜の薄暗い照明の中でもはっきりとわかるように光り出した。

「これをつかえよ」健ちゃんは喧嘩で使った折り畳みナイフをポケットから取り出した。豊島小学校の奴らを斬りつけたナイフだ。健ちゃんはわたしがリンゴを磨いたようにナイフをシャツで丁寧に拭いた。ナイフの刃には血の跡がうっすらとついていた。ナイフを渡す無神経さとわたしたちの会話に割り込んできた健ちゃんに少し腹が立った。

「健ちゃん何でなんでナイフ持ってたの?」

「いざというときのためさ」健ちゃんは破けたジーンズの膝を揺すりながら大人っぽく言った。

「喧嘩のために?」

「ああ」

「ルール違反だよ」

「だから、使うつもりはなかった」

「でも、警察に捕まったら絶対不利だよ」

「おまえたちのためだぞ」それはそうだ。健ちゃんは私たちのためにやってくれた。

「だって」健ちゃんは反論しようとするわたしの言葉を遮りながら

「奴らをやっつけるのに、役に立ったし」そういいながら、ナイフでリンゴを半分に割った。

「久美ちゃん半分こしようぜ」

ナイフはわたしの主義に反していた。喧嘩は素手が原則だ。やっぱり健ちゃんは不良かもしれないと思った。

「やるよ」健ちゃんはナイフで半分に割ったリンゴの一方を久美ちゃんに差し出した。わたしは小さい方を渡したことに少し後悔していた。

「ありがとう」素直に言って半分に割ったリンゴを受け取った。

「わたし剥くわ、ナイフ貸して」

「じゅん、おまえは一つ食っていいよ」健ちゃんは割った半分のリンゴとナイフを久美ちゃんに渡した。久美ちゃんはナイフで丁寧に皮を剥いて健ちゃんに渡した。

「久美ちゃん器用だね」

「そんな」妙に女らしくにっこりと笑った。

「ぼくは、そのまま食べる」

「剥いてもらえよ」

「いいよ、皮に栄養があるんだ」テレビでやっていたクイズ番組の回答を思い出しながらわたしがやや不機嫌に言った。

「いや、皮の近くに栄養があるんだ」物知り顔で健ちゃんが訂正した。

リンゴは何回もシャツで拭いていたので鋭い光をはなっていた。空腹感はあまりなくなっていた。夢中でかぶりついた。みずみずしいリンゴは甘い汁が唇をぬらし渇いたのども潤した。硬い皮が歯にはさまった。固い皮が少しにがく感じた。食べ終わって捨てたリンゴはひょうたん型になって見る見るうちに酸化して茶色に変色していった。

少年マガジンの裏表紙広告の通信販売で買ったという健ちゃんの腕時計は七時一〇分で止まっていた。とっくに九時はすぎていると思う。わたしたちは久美ちゃんを自宅近くまで送っていくことにした。

「籾殻が髪の中に入って取れないわ」久美ちゃんは顔をしかめながら髪についた籾殻を手櫛で何度も払う。

「ごめん、とんだ夏休みになりそうだね」

「いいよ、いい思い出になりそうよ」

「そうかなあ」わたしはうつむき泥が詰まった真っ黒になっている手の爪を見ながら言った。

「じゅんちゃん、これからどうするの?」わたしの顔を下から覗き込むようにして訊いた。

「わからない」本当にどうしたらいいのか分からなかった。それよりクジラや住友のことが気がかりだった。住友は崖の方へ駆けだしていった。クジラは駅のホームから乗客に紛れて逃げたに違いない。だぶんみんな逃げ切れて今頃は銭湯の湯船に浸かっているのかも知れない。わたしが一番へまをしただけだ。そんな気がした。

「イッセンバシの様子を見に行こう」健ちゃんの張りつめた声が聞こえた。

神社から空蝉橋まで久美ちゃんを真ん中に三人で並んで歩いた。暫くすると橋の薄暗い明かりが見えてきた。橋には野次馬らしい人だかりがあり、みな手すりに寄りかかりながら駅の方を見下ろしていた。わたしたちも人混みの中に入った。崖下は暗くて様子が分からなかったが、プラットホームは照明でくっきりと浮かび上がって見えた。ホームの線路下には駅員と警察官が数人おり、あわただしく作業をしている。駅前の広場にはパトカーが駐車してあり赤いランプがせわしく回転していた。

「何だ大げさな、子供のいたずらぐらいで」と健ちゃんが独り言のようにつぶやいた。橋にたむろしていた人たちの話を断片的に聞いていくうちに、子供がけがをして救急車で運ばれたらしいことが分かった。

「誰が怪我したんだろう」

「健ちゃんにやられた深沢じゃないか」

「住友君が崖を登っていくのは見たんだけれど、逃げ出したのかなあ」久美ちゃんが心配そうに言った。

「クジラはにぶいから、捕まったかもな」

「捕まっていたら、オレも明日学校に呼び出し食らうな。でも健ちゃんのことは言わないからね」わたしは健ちゃんに気兼ねをして言った。

「気にするな、じゅん。今夜は隠れ家でも探して、夜明かしでもしよう」

「健ちゃんの家に泊まろうよ。もともとの計画だし」

「警察が来ているかもな」

「そんなバカな。健ちゃんのことは誰も喋らないよ。来ているならぼくのうちかも」

「オレは深沢をやったんだ」

「ばれてないよ」

「足をかなり深く刺したから動けないはずだ。奴は捕まって病院行きだ。もうとっくにばれてるさ。オレは傷害罪で追われる身ってことだ」

「どこに隠れるの?」

「ゴーグジにでも行くか」

「夜のゴーグジか」少し気味悪かった。

「怖いか?」健ちゃんは意地悪そうにわたしを見た。

「ぜんぜん」わたしは強がりを言った。

「久美ちゃん、早く帰りな。風邪引くよ」わたしは護国寺に行くかどうかの判断を保留して、小刻みにふるえている久美ちゃんに帰宅を勧めた。

「わかったわ。あたしはじゅんちゃんも家に帰った方がいいと思うけど」

「オレのことはいいから」

「ホントに? じゃああたし帰るけど」久美ちゃんは、普段と違った泥にまみれたみすぼらしい身なりで何度も振り返りながら帰途についた。

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