第十二章 境内の一夜

第七章 境内の一夜

1

わたしたちはなるべく目立たないようにその場から離れた。健ちゃんもう家には帰らないようだ。爪先は自宅と反対の方向に向いている。わたしも数歩遅れて後に続いた。泥だらけの服と運動靴に引っ掻き傷だらけの手足、健ちゃん自慢のリーゼントはべったりとしぼんでしまい前髪がたれて目にかかっていた。健ちゃんはわたしの首一つ半ほど背が高い。遠目からは物乞いを終えて塒に帰る乞食の兄弟に見えるかもしれない。

「じゅん、やっぱゴーグジに行こう、あそこなら見つからない」

「家に帰った方がいいんじゃない?」おそるおそる言ってみた。

「今夜はどっかに行きたい気分なんだ」ずいぶんとカッコを付けている。普段ならここで髪に櫛を入れるところだろうけれど、櫛は騒動でなくしたようだった。

「でもぼくたち何も悪いことしてないよ。逃げただけじゃないか。確かにケンカと線路の上を走ったことはいけないと思うけれど」

「そんなことはかまわないさ」

「健ちゃんが切りつけたあいつのケガのこと?」

「もう、いいんだよ。じゅん、帰ってもいいぞ」

「いや、ぼくも行くよ」

健ちゃんはまっすぐ前を見て口元を固く結び、何度も自分で頷いていた。暗く人通りの少なくなった春日通りを五分ほど歩くと仲町に出た。交差点を右に曲がり富士見坂を下ると護国寺前交番の赤い電灯が見えてきた。わたしは交番の警官にすべてをうち明け自首した方がいいと思った。

「健ちゃん、ごめん」わたしは下を向いて殊勝に言った。

「なにが?」

「今日、ぼくが健ちゃんにケンカの助けを頼んだばっかりに」健ちゃんの腕に刻まれた新しいナイフ傷を見てわたしはしきりに反省した。

「気にするな、オレは暇だったし。家には誰もいない。おまえから頼まれれば断れないし」健ちゃんが明るくかわした。でもわたしの気持ちは相変わらず沈んで行くばかりだった。

「珠恵さんは?」

「義兄さんのところへ戻ってくる」

「じゃあ今夜は、ぼくたちの帰りが遅いと心配する大人は今のところいないね」

「ああ、今日の事件がばれていなければな」

当面は騒ぎになってないと思いわたしは少し安心した。自分の家のことが気になったが、その日は健ちゃんの家に泊まる許可を得ているので問題ないはずだ。「すべては明日考えよう」そう思った。面倒なことは先送りする。わたしの一番嫌悪すべき性癖だ。

夜の護国寺は去年の夏休みにやった肝試しの時以来だった。交番の警官と正門の両脇ににある金剛力士像が怖いので手前の参道から護国寺に入った。この参門は通学の時にもよく利用していた。通るたびに敷いてある長い石畳の数を勘定するのが子供たちの常であった。自分の冷静さを確かめたくって、頬をつねる動作の代わりに石畳を数えた。いつものように八八枚あった。わたしはまだ正気でこれは現実なんだということを思い知らされた。

本坊を抜けて正面の階段を上れば本堂に通じる。本堂に向かう長い階段を上るときわたしは何度も後ろを振り返り尾行されていないかを確かめた。夜遅くお寺に向かう子供を見かけたら誰でも不審に思うに違いない。

「あそこに隠れよう」健ちゃんが本堂の階段下に目をやった。わたしたちが学校帰りに荷物や遊び道具を隠しているおなじみの場所だ。

縁の下を囲っている鉄の柵を手慣れた動作で取り外して中に入った。石灯籠が並んでいる比較的明るい場所を選んでわたしたちは座り込んだ。境内の照明と敷き詰めた白い砂利のおかげで隠れ家としては必要以上に十分な明るさだった。床下の地面は乾いた砂土で床下の梁には蜘蛛の巣もない。干上がった湖の底のような匂いをのぞけばすこぶる快適だ。柱の出っ張りは至る所にあるが二人で座り込んでも狭さは感じない。

健ちゃんは乾いた砂土を手ですくい握りしめては落とす動作を繰り返していた。そしていくつもある蟻地獄の巣を興味深げに、穴の主との出会いを期待するように黙って見ていた。わたしは仲間と共用の遊び道具が入れてある段ボール箱を奥に隠してあることを思い出した。縁の下のさらに奥まで這って行きて段ボール箱にたどり着くとそこから中に敷いてある新聞紙を取り出した。

「健ちゃんこれ、おしりに敷こうよ」わたしは身体を埃だらけにしてせき込みながら新聞を半分に破いて渡した。

「ああ、それよりマンガと懐中電灯はないか?」健ちゃんが新聞紙を折り畳み尻に敷きながら言った。

「ないと思うけど。探してみる」わたしはもう一度腹這いになって進んだ。この手の仕事はわたしの得意分野だ。段ボールの中を探ってみると学校に提出して戻された工作、縄跳び、ビー玉、野球のグローブがあった。マンガはなかったがその年の春休みに自分で作ったトランジスタラジオがあった。このラジオは初めて自分で作った作品で、ラジオの製作雑誌を見て組み立てた。秋葉原まで自転車で行って部品を買いそろえて実体配線図と照合しながら、みよう見まねで作った代物だった。

「ラジオがあるよ」わたしはビニール袋からラジオを取り出して、そっとスイッチを入れた。ガリガリというノイズとピューンという発振音がたよりない音で聞こえてきた。

「音楽のリクエスト番組に回してくれ」と健ちゃんがいった。ダイヤルを回していくとJOQRでアメリカンポップスを放送していた。女性のディスクジョッキーの曲紹介でエルビス・プレスリーの「テディベア」が流れてきていた。続いてジョニー・ソマーズの「ワンボーイ」がかかるとお気に入りらしく「ワァン ボォーイ ワンスペシャァル ボォーイ」と健ちゃんが鼻にかかった声でラジオから流れてくる曲に合わせて歌いだした。久美ちゃんが好きだと言っていた曲だ。

健ちゃんは「ワンボーイ」は良い曲と歌詞だが、プレスリーの「テディベア」はひどい歌詞だといっていた。歌詞を解釈して丁寧に自分に陶酔しながらわたしに教えてくれたが何のことやら分からなかった。

「テディベア」が何故悪いかと聞くと「中学二年生が英文解釈してひどいことが分かってしまうぐらいひどいということさ。でも好きだよオレ、単純で、うん」自分で何度も頷いていた。

「おまえ、コーラ飲んだことあるか」

「ないけど」

「今の歌詞の中で、to laugh with, to joke with, have coke withってとこ」

「ちんぷんかんぷん」

「たぶん、最後の歌詞でコークウイズのところはたぶんコカコーラのことだと思うんだ」健ちゃんは新種の生物を発見した学者の記者発表のように得意そうに言った。

「ふーん」コーラがどんな飲み物か知らないし、そんな話題はわたしの興味の範囲外であった。

「アメリカの恋人同士は、冗談言って、笑って、コーラ飲んだりするもんなのさ」

「ぼくは、ラムネの方がいいな」

「ハハハ、じゅんらしいや」首を振るのを曲にあわせ機嫌良さそうに言った。

「健ちゃん、ポテトチップって食べたことある?」わたしは住友の家で食べた洋風の菓子を思い出した。新しい食べ物のことも少しは知っていることを示したかった。

「ああ、ジャガイモを薄く切って揚げたヤツ?」

「うん。あれって、うまいよね」

「そうかな」

「いや、いつも南京豆とか、花林糖とか、せんべいとかばかりだと飽きちゃって、ポテトチップって衝撃的だよね、やっぱり」

「そうかな」健ちゃんは音楽に聴き入っていて、わたしの話は聞いていないようだった。

「なんか、いろんな味が入っていて、不思議な感じしちゃってさ」

「オレは、柿の種のほうがいいな」ワンボーイのエンディングに入るとやっと自分の意見を開陳した。

「その、新しい味っていうか、大人の感じっていうのか、酸っぱいつうのか甘辛いってのか」そのあとこれも住友の家で出されておいしかった冷やし中華の話もしようとしたら、本堂に向かって来る小さな明かりが見えた。

2

懐中電灯の明かりだ。

「やばい、隠れろ」わたしたちは縁の下の奥へ移動した。

光源の目標が定まらずに左右に揺れている。やはり何かを探しているようだった。光は地を這うようにこちらに近づいてくる。やがて目的を定めたようにまっすぐこちらに向かってきた。だいぶ近づいて来たので人影が確認できた。お寺の提灯の明かりだけなのでぼんやりとしたシルエットしか見えない。

「警官かな?」

「いや、違う」

「お坊さん?」

「坊主にしては袈裟を着てないみたいだ」

近づくにつれ安心してきた、子供のようだった。

「おい、久美ちゃんじゃないか?」健ちゃんが言った。

「うん、そういえば女の子みたいだ」髪が長い女の子だ。細い身体に白いブラウス。久美ちゃんに間違いなかった。わたしは縁の下を飛び出した。久美ちゃんは自分の前に立ちはだかったわたしを見て一瞬ひるんで「きゃっ」と小さな叫び声をあげた。

「久美ちゃん。どうしたの?」わたしが叫んだ。

「ああ、じゅんちゃん、驚いた、急に飛び出さないでよ、大きい狸かと思ったわよ」わたしだと分かると姿勢を正して体勢を整えた。

「脅かしてごめん。でも久美ちゃん、何でここが分かったの」

「だって大塚駅で別れるとき、ゴーグジにでも行こうかって言ってたじゃないの」

「ああそうか、いい感してるじゃない」わたしはそれまでの経過を思い出し納得した。

久美ちゃんは家でまともなお風呂に入ったらしい。長い髪にはもう籾殻はひとつもなく、甘いシャンプーの香りがした。髪をまとめずにおろしているのでいつもより子供っぽく見えた。

「いつも学校の帰り、境内の下に隠れて遊んでるじゃないの、あそこだなってピンと来たわ」

「ここに来るまで怖くなかった? お母さんに見つからなかった?」わたしは矢継ぎ早に質問した。

「家に帰ったら、裏のドアには鍵かかかってなかったの」

「それで」

「だから、そっと家の中に入ってお風呂に・・」

「あの汚いかっこ見られなかったの?」

「ええ、服はお風呂の中でもう一度洗って、あとは洗濯機にぽいっと」

「よく見つからなかったね」わたしは感心していった。

「母さん、いつの間にか帰ってお風呂から上がったわたしの顔見て驚いていたけど、でも引っ越しの準備でてんやわんやで、助かったわ」

「そうか引っ越しだね」

「久美ちゃん、家の人、今日のケンカのこと何か言ってなかったかい?」健ちゃんも床下から出てきて訊いた。

「ううん。うちでは何も」

「じゃあ、大したことないってことか」

「そうかも、それより余ったご飯でおにぎり作ってきたけど、食べません?」久美ちゃんが健ちゃんとわたしを交互に見て言った。

「すごい、ありがとう」わたしは感激して言った。

「それから懐中電灯とお菓子も」久美ちゃんは経木にきちんと包んだおにぎりと袋に詰めたお菓子を手渡した。

「久美ちゃん気が利くな、ありがとう。ところで今何時だい?」健ちゃんが訊いた。

「家を出てきたのが九時くらいかな」

「へえ、そんな時間か。お母さん事故やケンカのこと知っていた?」わたしが健ちゃんと同じことをもう一度訊いた。

「いいえ、何もいっていなかったわよ。まさかわたしがケンカに巻き込まれたなんて思ってもいないのかもしれないけれど」久美ちゃんの言葉にわたしは少し安心した。大した話じゃなかったのかもしれない。わたしはそう思いたかった。

「ともかく、ごちそうをいただこう」健ちゃんが言った。

「こんな冒険初めてよ。母さんに黙って、夜遅く家を抜け出すなんて」久美ちゃんが快活に言い放って、その場は華やいだ雰囲気になった。

わたしたちは床下に戻り、にぎりめしをほうばった。腹が減っていたせいか涙がでるほどうまかった。塩をつけて握っただけのようなのにご飯の味は深みがあった。白いご飯がこんなにうまかったなんてその時まで気がつかなかった。健ちゃんとわたしで大きめのおにぎりを四つたいらげた。

「もっとないの?」わたしが図々しく言った。

「余ったご飯を握っただけだから。それよりじゅんちゃん家に帰った方がいいんじゃない」

「もう少しここにいるよ」

「じゅんちゃんのお母さん心配してるかも」

「今日は健ちゃんち泊まるっていってあるし。たぶん今日も仕事が忙しくてそれどころじゃないと思うよ」

「でも・・」久美ちゃんは反論しかけたがわたしが遮った。

「心配してくれて、ありがとう。それよりもう遅いから久美ちゃんこそ帰りなよ」

「わたし帰るわ、引っ越しの準備もしなきゃ」

「外国に行くなんて信じられないよ」

「あたしも信じられない。それも来週」

「不安はないの?」

「不安だらけよ。わたしこう見えても神経質だから。向こうで気が狂っちゃうかも。そうしたらじゅんちゃん迎えに来てよね。でも、気に入れば日本よりも快適だってお父さんが言ったし。その時はじゅんちゃん遊びに来てよね」

「ああ、航空券さえ送ってくれればねいつでも」

「あっはは。そうね」

「飛行機の乗り方教えてくれれば」わたしは真剣に答えた。

「手紙書くわ」

「久美ちゃん、転校すんのか?」健ちゃんがぶっきらぼうに訊いた。

「はい」久美ちゃんはニッコリ笑って答えた。

「へえ、おまえたちの長すぎた腐れ縁も幕を引くときが来たか」健ちゃんが茶化した。わたしは久美ちゃんに何かあげようとポケットの中をまさぐって手がかりを探したが全く空だった。縁の下の段ボールにビー玉のことを思い出した。その中に出来損ないのビー玉が一つある。ガラスが溶けて固まらないうちに転げ落ちたのだろうか、球がひしゃげていて、おまけに排泄したばかりのウンチのように頭がとんがっていた。すべてがお揃いのビー玉の中で唯一の変わり者だった。わたしはこのビー玉が気になっていた。自分の分身にも思えていた。分身ならば十分に餞別で遠くに行かせる役目は担えると思った。

「久美ちゃん、餞別でもあげたいけど、こんなものでもいい?」わたしはひしゃげたビー玉を差し出した。

「あら、かわいい。ありがとう」そういうと手にとって薄明かりに何度も照らして不思議な形を観察していた。

「なにこれ、水滴の形? それとも」

「ガラスのウンチに見えない?」わたしはそう言ってからしまったと思った。

「いやだなあ、変なこと言って」

「久美ちゃんならそんなのしそうだよね。透明で臭わない」健ちゃんが声を上げて笑いながら言った。

「やめてよ!」

「久美ちゃんのはそんなに固いわけないさ」わたしは弁護ともからかいとも分からない助け船を出した。久美ちゃんはわたしたちの会話を無視して暫くビー玉を見ていた。

「そうだこれガラスのタマネギよ。そっくりだわ」ガラスを眼鏡のようにしてわたしを覗いた。

「すごい! これってレンズになっていて、じゅんちゃんが横長に見える」

「どれどれ」わたしもガラスのタマネギ越しに覗くとすべてが横長で曲がって見えた。

「でもお別れだね」わたしはビー玉を久美ちゃんにわたしながら言った。

「そんな大袈裟な。まだしばらく入るし。足の怪我はどう?」そう言いながら久美ちゃんはひしゃげたビー玉をもう一度眺め、そしてスカートのポケットにしまった。

「ああ、そんなの忘れていたよ」膝のすりむいたところはもう血が固まっていて痛みもなくなっている。久美ちゃんに指摘されたとたんひりひりと痛みだした。でもそんなことより唯一気楽に話ができる女友達を失う痛みの方がずっと大きかった。

「ばい菌が入るといけないわ、あそこの水道で洗ってこれを巻いておくといいわ」そう言って白い木綿のハンカチを差し出した。

「ありがとう。でももういたくないよ久美ちゃん」そういいながら、わたしはハンカチを受け取った。洗い立てのガーゼのように柔らかいハンカチだった。

「健ちゃんも。今日はありがとうございました」そう言って気だての良い律儀な小学生風に頭を下げた。

「ああ、久美ちゃんも元気でな」健ちゃんがそう言うと、あとは何度も振り返りながら元来た道を早足で帰っていった。この先、久美ちゃんにはもう会えないような気がして、わたしは後ろ姿が暗闇の中に消えるまで見送った。

「久美ちゃんて可愛いよな。じゅん好きなのか?」

「え? 幼なじみってだけかな。好きとか嫌いとかそんなこと全然ないよ」わたしは素直に答えた。健ちゃんの目から見ても久美ちゃんは可愛く見えるということがむしろ驚きだった。

久美ちゃんがいなくなりわたしは気が抜けたようになった。そしておにぎりで腹が膨れて余裕がでてきたのか、ものすごい睡魔がおそってきた。

3

いつのまにか寝入っていたらしい。逃亡している夢を見ていた。追いかけられているが、自分の足がクラスの一番どんくさいやつよりさらに遅くなっている。みんなが逃げていくのに自分は捕まりそうになる。追いかけてくるのは警棒を持った警官だ。万引きをしたあと追いかけられているのだろうか。すぐ先に区民プールが見えた。金網を乗り越えて中に入ろうとするが、この金網がとてつもなく高くそびえ立っている。懸命に登って行くがいっこうに終わりが見えない。追いかけてきている警官の数が何十人にも増えている。下を見ると同じ顔をした警官が黒い制服を着てゴキブリのようにびっしりと金網に張り付いている。やっと金網の上に出たので下を見るとプールが遙か眼下に見えている。警官は直ぐ後ろに迫っていた。思い切ってプールに向かって飛び降りた。空中を体がくるくると舞う。飛び込んだ感覚はないのに体はプールの中にあった。前を見ると久美ちゃんが泳いでいる。いつもの見慣れている夢になった。水着姿の久美ちゃんを捕まえようとして抱きつこうとすると、前から警官が制服を着たまま泳いでくる。何十人という数になりわたしの周りを覆い尽くした。一瞬まわりが警官の制服で真っ黒になったと思ったとたん、水中からわたしは飛び出して、また追いかけられている場面になった。逃げ走る道が急に舗装から線路に変わった。追いかける人間も警官から駅員に変わった。あい変わらず走る速度は極端にのろいのでついに捕まってしまう。わたしの体は図体の大きい駅員に押さえつけられてしまった。そして体が痛いのと、誰かがわたしの上にしかかってくるような感覚があり、半分恐怖感を伴って目を覚ました。

ごそごそ人間が動く気配がした。続いて低い声で話をする声がする。誰と話しているのだろうか。わたしの体にのしかかる重さは大柄の人間の身体のようだった。そして誰か他人の手がわたしの顔に触れた瞬間、わたしはのしかかる身体を振り払い飛び起きた。目に飛び込んできたのは、暗がりに浮かぶひげ面の大男だった。わたしの首を絞めようと毛むくじゃらの手を伸ばしてきた。真っ黒の顔で目だけが丸く光る、本堂に来るときに通りがかりの仁王門で見た恐ろしい形相の金剛力士像の復活を見ているようだった。

「や、やめろ!」わたしは恐怖のため大声を上げた。

「おお、小僧、起きたか」男は低い声で言った。

その男の後ろで健ちゃんの笑っている姿が目に入った。

「だれだ、おまえ」

「じゅん、寝ぼけるなよ」健ちゃんが冷静な声で言った。

「健ちゃん、知ってる人?」

「まあな」

「びっくりするなあ。だから誰なの?」

「古い知り合いってとこかな。寺の住人だよ」健ちゃんは相変わらず笑っている。

彼が有名な「おけいちゃん」だった。本当にいたのだ。猫や犬を食べてるとか、小学生が脅かされたとか、墓場を荒らしているとか、酔っぱらって森の中をうろついているとかいろいろの噂があった。ともかく護国寺の森の住人らしい。おけいちゃんはずいぶん年寄りに見えた。すすけた顔がそう見せているのかもしれない。長く肩までのびた髪はずっとお風呂に入っていないらしくごわごわに固まっているようだった。太った体はヒグマそっくりだった。よく見ると目が丸くて下ぶくれの輪郭でそんなに恐ろしい顔でもない。

「君、何年生だい?」おけいちゃんが訊いた。言葉の丁寧さと落ち着いた低い声がわたしを驚かせた。

「六年」反射的に答えた。堅い土の上で寝たせいか肩と首が痛かった。

「学校はどうした?」

「今日は、終業式。あしたから夏休みさ」

おけいちゃんはわたしには六〇歳代にみえた。でも声は若く張りがあった。

「あしたから夏休みか、最高だな」

「うん、最高っす」わたしはオウム返しに答えた。

「人生これからだ」

「まだまだ、たっぷり休みがあるよ」健ちゃんも嬉しいのだろうか。

「オレは、夏休みの終わりって感じかな」

「おけいちゃん夏休みがあるんですか?」わたしは変だと思ったが、バカな質問をした。

「人生の黄昏ってことよ。つまり使い果たしちゃったオレと。これから始まるおまえたちがいる」そう言って泥だらけの上着の内ポケットから携帯用のウイスキー瓶を取り出して一口飲んだ。

「夏休みは何日ある?」おけいちゃんが訊いた。

「そうさな、四〇日ぐらいか?」健ちゃんが素直に答えた。

「一ヶ月と一〇日、六週間だよ」わたしが補足した。

「わしの人生はちょうど夏休みの終わる前日ってとこかな」

「残り長く生きられないと言うこと?」わたしが訊いた。おけいちゃんはわたしの質問には答えず話を続けた。

「休みの初めは、えらく長く感じる」おけいちゃんが言った。

「永遠に続くようにも感じる」わたしが詩の朗読を読むように言った。

「でもあっとゆう間さ。終わりに近づかないと分からない」

「八月の終わりに分かるっていうこと?」

「まあ、そんなことかな。たとえば本堂の裏の土台に焦げた後がある、わしが子供の頃焦がした後だ。でも何年経ってもそのままだよ。そしてそれを見ると昨日のことのように思える。それでやっと人生短いなって分かるんだ」おけいちゃんは酔っぱらっているようだったが語気は鋭かった。

「なんで焦がしたの? 重要文化財火気厳禁って札があるよ。焚き火でもしたの?」わたしは真面目に訊いた。

「おまえさんもお寺の柱にでも印でも付けておいてごらん、半世紀経ってそれを見つけることができることがあれば、同じように感じるかもな。まあ、お寺が残っていればの話だけれど」

「小学校は建て替えてもお寺は残るだろうね」健ちゃんが寝ころびながら言った。ラジオからは歌謡曲が流れてきていた。

「島倉千代子は好きなのかい?」

「別に、普通だけど」健ちゃんが退屈そうに言った。

ウイスキーの瓶をラッパ飲みしながら、おけいちゃんが「八一〇キロに合わせてくれ」といった。

「なにそれ?」わたしは素っ頓狂な声で応じた。

「エイトテンFENだよ、聞いたことないかい?」

「極東放送ってやつだろ」健ちゃんが言った。わたしは久美ちゃんが聞いていると言っていた英語の放送局のことを思い出した。

八一〇キロサイクルに同調するとラジオからべらぼうな早口で英語らしい言葉をまくし立てる声が聞こえてきた。重大ニュースでも入ったのかものすごくエキサイトしている。その叫びにも似た早口の英語が静まるとやがてトランペットの響きが聞こえた。ずいぶん昔に聴いたような曲だ。おけいちゃんは「おう」といって新聞を丸めてたたみ口元に持っていった。

「それ、なんなの?」わたしが訊いた。

「トランペットのつもりだろ。サッチモだよ」健ちゃんが言った。

「え、誰?」

「ルイ・アームストロング、黒人のトランペット奏者だよ」

長いトランペットの演奏が終わり、歌のパートになるとおけいちゃんはしわがれ声でラジオと一緒に歌まねをした。

「ラビアンローズ?」健ちゃんがおけいちゃんに訊いた。

おけいちゃんは応えないで気持ちよさそうにのどをつぶしたように唄った。完全に酔っぱらいの演歌という感じもしたが、しっかりそれらしい雰囲気を出している。歌詞の中身は分からないが黒人の魂の叫びとかだろうか。首を左右に振りながら口をひくひくしながら苦しそうだった。あまり苦しそうなのでもうやめたらいいと思ったとき歌が終わり大げさなトランペットのエンディングになった。わたしは思わず拍手した。

「おけいちゃんって体つきがアームストロングに似ているね」健ちゃんが言った。

「ありがとう、声は?」

「声も」わたしはその時聞くのが初めてだったがそう断言した。

「いい観客だ」とおけいちゃんはいった。

「なんで上手なの」

「いや、基地で働いていたからな」

「米軍の」

「まあ、そうさ」

続いて英語のアナウンスが始まった。相変わらず早口で何を言っているのか皆目見当がつかないがおけいちゃんは頷いていた。

アナウンスが終わると今度はカントリーアンドウエスタンの曲が流れ出した。ハンク・ウイリアムズだとか、ハンク・スノウの渋い歌声が続いた。そして誰が歌っているのか知らないが「思い出のグリーングラス」が流れた。

「故郷はいいなあ」曲が終わるとメロディを口ずさみながら健ちゃんが言った。

「でも東京生まれで、田舎なんかないじゃないか」わたしが言うと「いや、一般的な話だよ」と変な言い訳をした。

「おまえら、この歌の意味知ってるのかい」また、おけいちゃんが話しに入り込んできた。

「故郷のみんなに会いに帰るんだろ、やっぱり生まれた土地の緑はいいなあって」健ちゃんが優等生的に答えた。

「そうだけど、みんな夢なんだ」

「ゆめ?」

「本人は牢獄の中さ」

「けど、ジェイルなんて歌詞は聞こえなかったよ」

「直接の言葉はないけど、分かるだろ」

「ぜんぜん」健ちゃんもお手上げのようだった。

「看守と神父がでてくる、夜明けに彼らと一緒に歩いていくってことは、死刑が執行される直前だな」おけいちゃんは当然だというような顔をしてうなずきながら、ちょっと臭い感じで説明を続けた。わたしは電池の消耗を避けるためラジオのスイッチを切った。

「かわいそうに、なにしたの?」

「そんなの知らないけれど、死刑なんだからよっぽど重い罪を犯したんじゃないのか」細かいこと聞くなという気持ちがありありした表情をした。

「人殺しとか?」

「まあな」

「でも悪いやつじゃなさそうだし」

「過失だったのかもな」

「過失って」

「故意じゃなくて誤って誰かを殺しちゃうとか」

「それでも罪になるの?」

「場合によるだろうけれど」わたしは不安になってきた。わたしは健ちゃんに向かって小声で訊いた。

「わたしたちの事件でも、誰か死んでいたら死刑になるかな」

「事件って、今日のことか?」

「うん」

「まさか、子供は死刑にならないんだよ」

「でも、このあいだ、少年死刑囚ってテレビでやってたよ」

事実、わたしはそのテレビを見てから恐ろしくて寝付けない日々が一ヶ月も続いたのだ。子供が大人を殺す物語で、殺人のシーンは障子に影が映って、刺し殺す瞬間血しぶきが障子に飛んだ。

「テレビでは、子供は最後に死刑になったと思ったけど」わたしは主張した。

「あれは、作り話」

「でも」反論するわたしの言葉を遮って。

「じゅん、おまえ意外と心配性だな」健ちゃんが諭すように言った。

おけいちゃんがウイスキーを飲み込む音が聞こえた。

4

わたしはまたラジオのスイッチを入れた。FENからほかの番組にチューニングをしているとNHKのニュースが入ってきた。その日は池田内閣の経済政策がどうかとか、日米安保条約がどうのこうのという政治ネタばかりだった。全国ニュースのあと関東地方のニュースに切り替わった。小河内ダムの水不足の話題に続いてアナウンサーの声からは信じられない言葉が聞こえてきた。

「昨日午後七時ごろ東京都豊島区の大塚駅構内で文京区大塚坂下町の小学六年生、鯨岡祐二君一三歳が山手線の電車に轢かれ大怪我をしました。鯨岡君は都立大塚病院に運ばれましたが重体です。巣鴨署の調べでは、鯨岡君は工事中の空蝉橋から電車線路に入り込んだため入ってきた内回りの山手線電車に跳ねられた模様です。なお、目撃者によると鯨岡君は空蝉橋の崖から構内に入り込み線路を横切ってホームに上がろうとしたところを跳ねられたとの証言もあり事故として調べを進めています。この事故のため山手線は一時間ほど運休しました」

だいたいそんな内容だった。第一に驚いたのは自分の友達の名前がラジオで告げられたことだった。そしてそれがニュースの中でである。さらに付け加えるとクジラが電車に轢かれたということについてだった。わたしの聞き違いだと思って健ちゃんの方を振り返った。

「聞いた? 今のニュース」

「ああ、間違いなさそうだな」

「そんなバカな。あいつ逃げたはずだよ」

「確かめたのか? じゅん」

「そうゆうわけじゃないけど。クジラが轢かれる訳ないじゃないか」

「でもあいつはホームへ逃げた」

「ちょっと待ってよ、きっと何かの間違いに決まっている」わたしにはそんな事実を受け入れる度量も余裕もなかった。

「おまえさんの知り合いかい?」おけいちゃんが訊いた。

「知り合いって、さっきまで遊んでいたヤツだよ。きっと人違いだよ」わたしは信じたくなかった。クジラはホームに逃げた。たぶんホーム池袋側の先端の階段から上がり、ほかの乗客に混じって逃げたのに違いない。轢かれたのは誰か違うヤツだ。どうしても納得が行かなかった。

「きっと誰かほかのヤツの間違いだよね、健ちゃん」わたしは同意を求めた。

「でも、ラジオでははっきり小学生の鯨岡って言ってたな」

「だって、あいつにぶいけれど、そんなへまやるヤツじゃないよ」わたしは懸命にクジラの事故を否定できる材料を探していた。

「事故だって言ってたな」おけいちゃんが冷静にラジオの原稿でも読むような調子で言った。

「ああ、電車なんか、突っ込むか、押されるかしなければ轢かれるもんじゃないよ。クジラのヤツどうしたんだ」健ちゃんは下を向いて腕を組んだ。

「もうだめだよ。交番に行こう」わたしはすべてに嫌気がさして健ちゃんに懇願した。

「鯨岡のヤツ、死にはしないよ」健ちゃんがそう言って縁の下の土を一握り掴み漆喰にぶつけた。電池がなくなったのだろうか、放送が終了したのだろうかラジオからの音声はいつの間にか消えていた。

クジラは大丈夫だろうか。何度も何度も同じ疑問が頭の中を反射して繰り返された。繰り返される疑問の答えが出ないことが分かると、今度は頭の中に大塚病院の地下で何人もの子供が神妙な顔をしてクジラの死体を運ぶ場面が連続して映し出された。

「世の中受け入れなくちゃいけない事実がほとんどだ」おけいちゃんが言った。

「事実かも知れないけれど信じられない」わたしは微かな声で呟いた。

「別に信じなくたっていいさ」

「でも」

「受け入れて行動するしかない」

「そんなことできないよ」

「オレもそうだった、受け入れられなくてこのざまだ」

「おけいちゃんが?」

「まあ、いい。オレは御陵に帰る。おまえたちも帰れ。そして事実を受け入れて行動するんだ」

「どうやって?」

「常識に従って」

「具体的には?」

「簡単だよ。家に帰って親の教えに従う」

「なんだ」

「それが大人の常識ってもんだ」

「もう帰りな、夏の間はいるからまたおいで」おけいちゃんが言った。

「ああ、鑑別所行きじゃなかったらね」健ちゃんの変な冗談にわたしは本気でおびえた。

「いいかい焦ることはない。おまえたちには時間はたっぷりある。常識に従ってな、ゆっくりやるんだ」そう言い残しておけいちゃんはお墓の方に帰っていった。

おけいちゃんの大柄な後ろ姿を見ていると、夜明けとともに去るドラキュラみたいだなとも思った。

「帰ろうか」健ちゃんがぽつりと言った。

「どこへ?」わたしが訊いた。

「とりあえず、自分の家さ」当たり前の答えしか返ってこなかった。

「うん」

おけいちゃんの姿も森の中に消えたきりもう出てくることはなかった。これから始まる夏休みでわたしはいろいろなものを失うような気がした。得るものはあるのだろうか、その時までの出来事をすべて消去して新しく始めたかった。それまでのすべての出来事が幻想であってほしいと思った。そしてクジラが死んだというニュースも誰かのとんでもない勘違いであってほしいと祈った。

5

クジラは次の日の夜に死んだ。ほとんど即死に近い状態だったそうだ。わたしのわずかな希望は絶たれた。彼の死は無理な線路の横断による事故として扱われた。家族の意向とかで葬式は親戚のみでひっそりと行われたらしい。結局あの日、崖下へ落ちていく姿がクジラを見た最後だった。

住友は崖から転落して肋骨を折り都立大塚病院に入院し、退院したのは夏休みの終わる寸前だった。健ちゃんはケンカして刃物で相手を傷つけた罪で警察に捕まった。少年院に行かされることは免れたけれど保護観察処分になった。ケンカのことで父親が激怒し全寮制の中学へむりやり転校させられた。久美ちゃんは夏休みが始まってほどなく母親と英国に発って行った。わたしといえば幸いケガも補導もされなかったが警察から何度となく調べに呼び出され、校長室で何人もの教師から母親と一緒に大目玉を食った。学校はこの事件の処理のため長いあいだ混乱していた。

深沢は健ちゃんに刺された傷で入院した。傷は軽いようだったが、窃盗とその他の余罪が見つかり少年院に移送された。豊島小学校のグループはその場からは逃げられたが、深沢の証言から芋ずる式に補導され警察で調べを受けた。ブリキ缶の財宝は深沢と中学の不良グループが万引きをした品物で、すべて警察に見つかり押収されてしまった。小川たちは深沢から品物を隠すことを依頼されただけのようだった。

夏休みは瞬く間に過ぎ二学期はだらだらと過ごした。クジラがいなくなってからは住友と遊ぶ機会が少なくなった。富田は相変わらずどのグループにも入らず狡猾に活動していた。しかしそんなことはわたしにはどうでもいいことだった。仲間を裏切った富田を恨む気持ちもあまりなかった。わたしは毎日勤勉を装い部屋に引きこもって音楽を聴き、本を読み耽る生活が続いた。いや、事実勤勉だったかも知れない。これまでのように仲間と外で遊び歩いたり万引きをしたりすることも全くなくなった。親の監視も少しきつくなったこともあるけれどあの事件以来、むかしの遊びには興味を失っていった。何年も忘れていた机の前に向かう感覚もよみがえってきた。秋口になって久美ちゃんから連絡があった。ヨーロッパはもう寒さが厳しくなっているらしい。風景がすばらしい絵はがきに青いインキがにじんでいた。絵はがきはいつものペン習字の美しさと丁寧さでかかれた文字で埋められていた。

「じゅんちゃん元気ですか。こちらは寒くてもう冬支度です。でも景色が良くてすばらしいところです。しばらく帰れないと思うけれどクラスのみんなによろしく。さようなら」そんな内容だった。

そして卒業の時期が来た。次の年は同じ公立中学に進学して楽しくやるはずだったが、みな異なる進路をたどることになった。クジラは死んでしまったし、久美ちゃんはロンドン郊外の日本人学校だ。住友は二学期からは野球をやめ、受験勉強に入り兄と同じ名門の私立中学に入学した。仲間のうち、わたしだけが予定通り地域の区立中学校に進学した。中学も相変わらず家から遠い道のりだった。希望を持って進学するという気持ちにはならなかった。新しい友達を作ろうという意欲もなかった。いつまで経っても喪失感はぬぐい去れなかった。おまけにその日の行動を毎日日記に書けと母親から言われ戦利品のモンブランと以前に文房具屋で万引きしたインクで書き綴った。そのおかげで毎日ものごとを内省する癖がついてしまった。

外ではしゃぐ生徒たちを幼いと思い、自分は違うと思うようになってきた。明らかにわたしは変わろうとしていた。毎日の生活には希望は持てなかったが、そのうち必ず何か生産的なことができるようになるという確信もあった。少し大人になったような気分を感じた。

「焦ることはない時間はたっぷりある。常識に従ってゆっくりやる」そう言ったおけいちゃんの言葉が何故か頭に残って離れなかった。たぶんあの夏の出来事は一生忘れないだろう。あのときの仲間たちはみんな好きだった。

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