第六章   新しい仲間

第六章   新しい仲間

クジラが腕時計をつけて教室に入ってきた。つぎあての半ズボンと半袖の開襟シャツに金の腕時計、目立たないほうがおかしい。休み時間に、クジラが囲まれている。

「かっこいいけど、年寄りくさいな」学級委員の塚田が話しかけた。

「えーと、時間は」クジラは袖もないのに腕を伸ばす仕草をして時間を調べた。

「小学生が、腕時計をしちゃいけないんだ」

クラスのマドンナ関順子が明るく叫んだ。関さんは美形のわりには珍しくおしゃべりで目立った存在だった。

「今日は出かけるから、母ちゃんが持ってけって」

「ほんとに金時計?」関さんが時計をのぞき込んだ。

「知らねえ」クジラが知る由もなかった。

「どこのメーカー、スイス製かい?」わたしも知らんぷりして尋ねた。

スイス製の時計は高級品だということは知っていた。

「どこのでもいいじゃねえか」クジラは変なことを聞くなというようにわたしのことを睨みつけた。

「お父さんの借りたの?」塚田が聞いた。

「まあな」クジラは曖昧に答えた。

「親父の形見か?」クラスの嫌われ者の富田が近づいてきて割り込んだ。

富田はどのグループにも入らず、交友は広いが万引きで何度も捕まったことがあるのでみんなから疎んじられていた。

「だって、クジラの親父、事故で死んだんじゃないのか、だろ?」富田が意味ありげに念を押した。

「だからどうしたんだよ」クジラが口をとがらせて言った。

その話になるとクジラはとたんに機嫌が悪くなる。機嫌が悪いというより気がふさいでしまうのだろう。急に口数が少なくなるか話題を逸らすか、その場を立ち去ってしまう。その様子は知っているはずだが、富田はすぐ口に出す。わたしは好きでも嫌いでもなかったが性格の悪いやつだと思っていた。

「鯨岡君、筆箱も新しくしちゃって」林久美子も話しに加わってきた。

久美ちゃんは一年生のときからずっとわたしと同じクラスで家も近いし気心の知れた仲だった。

「景気いいなあ」久美子が続けた。

「世の中、岩戸景気だし」わたしも知ったかぶりで話をかぶせた。

「万引きの戦利品じゃないのか?」また富田がおちょくった。

富田の言葉は刺だらけだ。

「なに! おまえとはちがうよ」クジラが怒った。

「冗談だよ、怒るなよクジラちゃん」今度は取って代わってやさしい声で言った。

「誰だって、筆箱ぐらい新しく買うさ」クジラが見栄を切った。

「金時計もか?」富田が訊いた。

「だから、親父の」クジラが説明しようとしたが話は遮られた。

「形見か? なんかウソっぽいんだよな」富田は疑り深かった。

何か嗅ぎつけたのだろうか。それにその日のクジラに近づく彼の行動にはなにか計略的なものも感じた。

「さてと、オレ何しようかなっと」クジラはそう言って話題を変えそれ以上富田と関わらずに、腕時計をはずしてランドセルにしまいノートを出して一人でマンガを書き始めた。

富田はいきなりわたしの腕を掴んで教室の窓際に誘った。

「木村、おまえなんか知ってんじゃないのか」しわがれた小声で富田がわたしに訊いた。

「なんのことさ」

「クジラの時計、ちょっとおかしいぞ」

「おかしくないよ」わたしが反論した。

「何が形見だ、クジラの親父死んじゃいない」

「え、だって以前に事故で死んだって」わたしは同意を求めるように言った。

「何の事故で死んだのか知ってるのか」冨田が言った。

「自動車事故か?」わたしが尋ねた。

そう言えば、どういう状況でクジラの親父さんが死んだのかは、全く知らないことに気が付いた。

「誰に聞いた?」冨田が言った。

「いや、ウワサで」

「だろ、事故なんてなかったんだよ、事件はあった」神妙な顔で冨田が言った。

「事故がなかったって、どういうことさ?」

「クジラの親父は死んじゃいない」

「じゃあ、どこに?」

「臭い飯、食ってるのさ」

「なんのこと?」

「いま刑務所だってはなしだ」

わたしは思いっきりびっくりして飛び上がった。

「おまえ、気が狂ったんじゃないのか?」

「オレ前のクラスから一緒だけど親父が死んだなんて聞いたことない」そう言えば富田の方がクジラとのつきあいは長かった。

「だから?」

「事件があったのは確かだ、高利貸しを刺したとかで捕まったってウワサだ」

「ウソつけ」わたしは興奮していた。「それだってウワサじゃないか」わたしは続けて言った。

「おまえも、ああいうのとはつきあうのは考えた方がいいぞ」富田はわたしの言葉を無視して言った。でもわたしに言わせれば、万引きやずる休みが絶えない富田の方がよっぽど胡散臭い存在だった。

それっきりこの衝撃的な話はほかの誰からも聞かなかった。わたしは富田がウソをついているのだろうと思って大して気にも留めなかった。

しかし、それ以来富田は執拗にわたしたち三人の中に入ってくるようになった。クジラは最初いやがっていたが、富田一流の如才なさでいつの間にかわたしたちに溶け込んでいた。

わたしたちは普段、住友とクジラとわたしの穏健な三人組だったが、富田が入るとやや緊張感をともなった悪ガキ四人組グループに変わるような気がしていた。そしてそれをわたしたちも面白がっていた感があった。富田のせいばかりではない、もともとわたしたちも不良指向があったのかもしれない。三人で後楽園遊園地に遊びに行くときは入園口から入るが、富田が来ると彼が見つけた抜け道の柵脇から無料で進入という具合だ。

後楽園のローラースケートに行くときも、貸し靴券をごまかすのが富田の役割で、スケート指導がわたし、女の子にチョッカイかけるのが住友、割り勘の調整役がクジラという立ち回りだった。

わたしも商店街の子供だったので、町内ぐるみ親戚のようなもので、近所の家にはよく出入りしていた。サラリーマンの家とはちがって皆一様に散らかっておりあまりみぎれいな部屋はなかった。だから、きたない家には慣れていたのだが、富田の家は外見からして並外れていた。

大東亜戦争直後の「ほったて小屋」が、そのまま原形をとどめているという風情だった。友人の父親が何の商売をしているのか興味もない年頃であったが、この家の前に立つとさすがに好奇心を煽られた。学校での噂によると、バタヤではないかという説が最も多く、あとは置き引き、空き巣などと評判が芳しくない。もう一つの説は、暴力団からのやばい仕事の下請けをやっているらしいとの話である。

普段は野球などやっているのを見たことのない富田が一緒にやろうというのだ。断る理由もないし、人数は多い方がおもしろいので富田を連れて大塚公園に行くことになった。富田はグローブを持ってなかった。仕方がないので住友が普段使わないファーストミットを貸してやった。住友はいつもバットとベース一式を大きな袋に入れて持ってくる。本当にやる気のあるのは彼だけだった。少年野球チームでレギュラーを取りたいと思っているらしい。

その日のメンバーはわたしと野球少年の住友、どうでもいいクジラ、それに初めて参加する富田の四人だった。一〇人ぐらい集まるときもあるのだがその日は他に声をかけなかったので、仲間だけでの練習となった。住友は相変わらず地域の少年チームのユニホームをきちんと着用してきた。あとのメンバーはほんの遊びのつもりだから、普段の服装に運動靴という出立ちであった。富田は相変わらずつぎあての半ズボンとすり減ったひもなしのズックだった。わたしは四月に買ってもらった、ひもで結ぶタイプの高級品だ。住友のスパイクには負けるが、富田がいると優越感に浸れるので何となくうれしさがこみ上げてくる。

その日は水曜日で学校が早く終わったので、公園のスペースは低学年が数人遊んでいるくらいですいていた。低学年連中を蹴散らしてバックネットがある一番いい場所を占領した。集合するとわたしたちはキャッチボールから始めた。わたしと住友、クジラと富田という組み合わせだ。サウスポーの住友はいきなり強いボールを投げてきた。いつもシュート回転する癖がある。たぶんフォームをカッコつけすぎているせいだと思う。投げたあとのフォロースルーに気を遣いすぎているのだ。

「スミ、シュート回転だぞ」

「いいんだ」

「投げ方に癖があるせいだ」

「コーチがいるから心配すんな」

「受けにくくてしょうがないよ」

「それより、あいつらのこと心配しろよ」そう言ってわたしの後ろをグローブで指した。

クジラと富田のキャッチボールを見て、思わず笑ってしまった。ボールが手につかないのだろう、ぽろぽろ落とすわ、逸らして取りに行くわ、暴投をするわで野球にはとうていなっていないのだ。

「相手を変えよう」

「そうだな」わたしも同意した。

「じゅん、富田を見てやってくれ」

「ああ」

富田は見るからにやる気がなさそうだった。楽しんではいるようだが、うまくなろうとする雰囲気はない。投げ返すボールに力がなかった。それにとんでもなく高いボールを投げて、わたしの体力を消耗させた。受けたボールは二回に一度必ずファーストミットからこぼれた。そろそろ嫌気がさしてきた頃、うしろから住友の声がした。

「バッティングやろうぜ」

「オース!」クジラが訳のわからない歓喜の声を上げた。

「じゅん投げてくれ、オレ打つから」野球についてはすべて住友が仕切る。

「富田がキャッチャー、クジラは外野、行くぞ」それで誰も文句をいうものはいない。

「オース!」また、クジラが叫んだ。

富田のキャッチャーには不安があったが、バックネットがあるので気にしないで投げることにした。最初はコントロールよく構えているミットをねらってまん中に投げてやった。打ちやすい球だったが、住友は見送った。ボールは乾いた音をたてて富田のミットに収まった。富田は自分でも信じられないといった顔でびっくりしたあと勢いよく言った。

「ストライック!」

「やれそうだな、トミ」わたしは、初めて愛称で呼んでみた。

「オース」やっとやる気が起きてきたようだ。

一人一〇球ずつ投げて、バッティングと守備を順番に交代することにした。

次の球を住友がフルスイングするとクジラの頭の上を越えて茂みの中に消えた。クジラが球を探している。やはり四人の野球は疲れる。

次にわたしがバッティングをすることになり、住友の球を打ってフライにし、クジラが捕球したそのとき。

「君たち悪いけど、場所開けてくれないか」

中学生たちだった。一〇~二〇人くらいいる。ほとんどのやつがユニホームを着ている。

「でも、先にやってるし」

「そうだよ、ここは予約なんてないし」

「じゃ、反対側でやってくれよ、オレたち試合をやるんだよ」

「でも」わたしが弱弱しく反論を開始しようとすると富田がでしゃばってきた。

「ふざけんなよ」と富田が怒鳴ったが、無視されていた。

「今いいとこなんだよ、オレたちどかないよ」富田が頑張った。

「ほら、どいた、どいた」そんな言葉は全く気にせず、面倒そうに言い放った。

「やろー」中学生に迫る富田であった。

そうこう言っているうちに、彼らはぞろぞろ入り込んできて、わたしたちを蹴散らし始めた。多勢に無勢、どうしようもなかった。

「おい、向こうでやろう」住友が言い、わたしたちは移動を開始した。しかし、反対側は、バックネットがないので富田が後逸した球を取りに行くだけで大変であろう。続ける気はなく、気持ちも萎えていた。

「もう、やめよう、今日は」わたしはすでに諦めていた。

「そうだな」クジラも同調した。

「もっと役に立つことやろうぜ」富田が言い出した。

富田が都立大塚病院に行こうというのだ。大塚公園にすぐ隣接しており、暗くて陰気だった。病院は床屋と銭湯に続いて大嫌いな場所だったが、大塚病院は苔むした建物の古さと陰気臭さでさらに駄目を押している。どこで聞いてきたのか知らないが、富田によると大塚病院で死体運びのアルバイトを募集していて、アルバイト料は格段に高く、数時間でとてもいい小遣いをもらえるという。

今考えてみれば、小学生にそんな仕事をさせるわけがないし、だいたいわたしたちはバイトをした経験が一度もないのだ。富田が唯一、新聞配達を年齢を偽って一年間やっていたと言うくらいだ。前の年の夏休みにわたしたちはその下請けをやったことがある。面白半分に自宅近くの五〇件分くらいの新聞を富田からもらって配るのだ。そして幾ばくかのお金を分けてもらったことがある。その年の夏休みは朝早く起きることが楽しかった。公園で待っていると富田がやってきて皆に担当分を配る。わたしたち三人に配り始めると見る見るうちに彼の分は少なくなりほんの数十枚を持って薄笑いを浮かべながら来た道を帰っていく。いくらのアルバイト料をもらっているか知らないが、富田が事がうまく運ぶときに時々見せるずる賢い目尻だけの笑顔から察すると相当のピンハネをしているらしい。でもわたしたちは夏休みだけのことだし遊び感覚だったから気にはならなかった。まるで手配師のようでうまいことやっているように見えた。一ヶ月間手伝って三〇〇円くらいの稼ぎではなかったろうか。今年から発売された子供向けの週刊誌「少年マガジン」か「少年サンデー」が一ヶ月間毎週買えるぐらいの金は稼ぐことが出来た。犬のいる家やアパートの二階は手数料を高額にしてくれた。今度の夏休みもまた富田が頼んでくるような気がした。

病院の受付に聞きに行く役目をじゃんけんで決めた。わたしが負けた。

ただでさえ病院の中は迷うのにこんな変なことどこで聞けばいいんだと思った。たまたま近くを通った看護婦を捕まえて尋ねた。「あの、死体運びはどこでやってるんですか」看護婦は一瞬たじろいだあと「地下室じゃないの?」と言い「ハハハ」と笑って病棟の方へ行ってしまった。

もうばかばかしくなってそれ以上聞く気にはなれなくなりわたしは引き返した。

連中には「地下室でやってるらしい」といった。

「だから雇ってくれるのかよ」

「それ聞くの忘れた」

「しょうがないなあ、もう一度行って来いよ」

「冗談じゃない、オレの役目は終わったぜ、場所を聞き出したからな」

「全然役に立ってないんだよ」

「次は富田がいけよ、だいたいおまえが聞いてきた話じゃないか」

さんざんもめたあげく富田が受付に行き話を聞くことになった。長いこと病院の中にいたが神妙な顔をして戻ってきた。

やはりアルバイトを募集しているという話は本当だったというのだ。ただ大人の死体はとても重いので運べない、子供が死んだときお願いすると言われたという。ここのところ死にそうな子供はいないからまた来てくれということになったという。そのときは二人一組で来てほしい。死体を運ぶのと体をアルコール消毒して霊安室に安置する仕事も含んでいるそうだ。

みなあきれ顔で聞いていたが富田の調子のよい口調と「アルコール消毒」と「霊安室」というもっともらしい言葉に乗せられ納得してその日はアルバイトの口をあきらめ帰途についた。「死にそうな子供か」どんな子なのだろうと思いを巡らせたが身近にそんな子供もおらず、わたしの想像力はそこで途切れてしまった。

大塚公園からの帰り道、住友とクジラと別れ二人きりになると富田がわたしに話しかけてきた。

「木村、クジラの腕時計万引きの品物だろ?」

「え?」わたしは不意をつかれて返事に詰まったが、富田はクジラの時計を怪しんでいるものの、発見した宝物のことはまだ知らないようだった。

「何の話?」

「とぼけるなよ」

「知らないよ、クジラに聞いてみたら」わたしは素っ気なく答えた。

「聞いてみたさ」

「ほんとに」

「ああ、まだまだあるって言っていた」

わたしはクジラが富田に宝物のことを話したに違いないと思った。

「何が、あるってんだよ」私は肩をすぼめてとぼけてみた。

「わかっているよ、おまえだっていい万年筆持ってるじゃないか」

「これは、誕生日に買ってもらったんだよ」

「三本もか?」富田は私の顔をのぞき込んだ。

「何でそんなこと知ってるんだよ」

「クジラが言ってたよ、じゅんのやつモンブラン三本持っていて、一本は勉強用、一本は、作家になるため、一本は林久美子にあげるんだって?」

クジラのやつ、口の軽いやつだ。わたしは富田にもう何も話すまいと思った。

「じゅん、オレがさばいてやるよ、現金がほしいんだろ」珍しくわたしのことをじゅんと呼んだ。

「べつに」

「まあ、いいや、いつでも相談にのるからよ、オレにはいいルートがあるんだ」

「富田、おまえそんなにたくさん万引きしているのか?」

「そうじゃないけど、今度いいこと教えてやるよ」

「なんだよ」

「儲けばなしさ」

わたしは富田の言葉が妙に気にかかった。クジラの父親の件といい、宝物のことといい急にわたしたちに近づいてきたのは訳があるはずだ。一度住友に相談して本当の仲間にすべきか考えるべきだと思った。

3

富田が仲間に入って以来わたしたちは万引きが常習になっていた。お菓子屋からチョコレートやキャラメルを盗むのは日常茶飯時だった。富田のジャンパーのポケットには大きな穴があいていた。ポケットに手を突っ込だまま、お菓子の山に手を伸ばしそのままいただいてくるのが彼の得意技だった。わたしたちの万引きの標的はつぎに、本屋に移り、そのあと文房具店、デパートとエスカレートしていった。ほしくない物や必要ない物まで取った。大塚公園で野球をしてからの帰り道、春日通りに面している文房具店の前を通った。店の小ケースの上に青インクと黒インクが交互に整列して階段状に重ねて陳列されていた。クジラが扉が開けはなしの店にふらりと入りピラミッドのてっぺんにあった青インクを1つ拝借してきた。

駆け出して店を出ると

「おい、じゅん! やるよ、作家志望だろ」そういって富田がわたしに手渡そうとした。

「なんのつもりだよ」わたしは青インクの入った箱を受け取った。

「だからそれでいろいろ書けよ」

「おまえ、意味のない万引きはやめろよ」

「気にすんなって」富田にはまるで罪悪感はない。

「それにしてもこんなものいらねえ、返すよ」そういって振り返り富田にインクの箱を放り投げようとしたとき、わたしの目に写ったのは、サンダル履きで目をつり上げてこちらに向かい追いかけて来ている少女の姿だった。

少女はわたしたちと同年代に見えた。色白のあどけない面もちで長い髪をポニーテールにして後ろで束ねていた。多分あの文房具屋の少女で留守番をしてに違いないとわたしは思った。わたしたちに追いつくと、彼女は息を切らせながら甲高い声で言った。

「あんたたち、今、うちの品物取ったでしょう!」その迫力に押されてわたし達は、瞬間凍り付いた。わたしは知らんぷりを決めこんで、いいわけでもしながら青インクを返そうかと思いその子に話しかけようとした。

そのとき、富田が「やばい、逃げろ!」と号令をかけた。その言葉を合図に皆は一斉に駆け出した。わたしも一緒に逃げた、その少女は少し駆け出して追ってきたが、わたしたちが路地に入り込むと姿は見えなくなった。この辺は辻町と言って大通りから入ると大人がやっとすれ違えるような路地がたくさんある。わたしたちは完全にその迷路を把握している。どんな大人に追いかけられてももげ通せる変な自信があった。

文房具店からだいぶ離れた安全な路地まで来ると「やろー、おどかしやがって」クジラがいった。

「やろー、だって? 女だぜ」わたしがちゃかした。

急な階段に富田が腰掛けた。富田の家はもうすぐだった。クジラも腰掛けようとしたが、狭い敷地に無理矢理作っている階段なので這い上がるようにして上に上り、不安定に腰掛けた。クジラの今にも転がり落ちそうな姿勢に吹き出しそうになった。

「でも、すごい迫力だったな」富田が言った。

「ガキのくせに」クジラが粋がって言った。

わたしにはその少女の鋭い怒りの目元が記憶に残り、その日はそのことばかりを考えていた。青インクはわたしの勉強机の奥に見つからないようにしまった。

その後、それにも懲りず、わたしたちは活動地域を広げたあげく、上野のデパートで警備員に捕まった。デパートでの万引きは初めてだった。いつものように、文房具売場で無造作に鉛筆や消しゴムをくすねて階段の方に向かい店を出ようとしたとき、数人の背広姿の大人がわたし達の退出を妨げた。

「はいはい、上の階に行こうね」

「どんどん階段を上がってね」

言われるままに、わたし達はデパートの事務所に連れて行かれた。

「わかってるね、取ったものを全部出しなさい」

「学校はどこ、家はどこ」とテンポよく聞いてきた。

みんなは押し黙ったままだ。

「じゃあ警察に連絡するか」高齢の管理者らしい社員が冷酷に呟いた。

ここまできて、ついにクジラが正直に住所氏名を白状してしまった。

「文京区大塚の鯨岡です。こんなこと今日が初めてです」

「初めてって、捕まったこと、万引きのこと」

「ま、ま、万引きがです」

今回は万引きした品物の金額も少ないし、初めてのようだということで学校への連絡はしないで誓約書だけ書いていけばいいとデパートの警備員は言った。

クジラは外に出ると急に元気がよくなり、「学校に連絡したらあのオヤジ殺してやる」と息巻いていた。わたしはもっと長期展望が開けないようなペシミスティックな気持ちになっていた。

「捕まっちゃったんだよ」わたしは健ちゃんに相談した。

「気にするな、じゅんは平気さ」

「どうして」

「限度を知ってる」健ちゃんは頷きながら言った。

「うん」わたしもそれに合わせ頷いた。

「これからやらなきゃいい、小学生ならかわいいもんだ誰でも許してくれるよ」

「わかった」また健ちゃんがずいぶん大人に見えた。

そのことがあってわたしは今までのすべての遊びは、すべて否定されるべきものだと思った。時々こういう感情はあったが、次の日には心変わりしすべて肯定され同じように過ごしてきたが、今度の場合は何日たってもやりきれない思いは消えなかった。そして、西瓜を盗んで食べたり、他人の家の屋根を踏み抜いたり、神社のリンゴの数をごまかしたことさえ自分に嫌悪感を抱かせる材料になった。

そのことがあって、わたしはまた、文房具屋の少女のことを思い出した。あのとき反省していればとも思った。今度、あの青インクを返してこようと思った。次の日、わたしは青インクを持ちだし春日通りの文房具店に向かった。返すときのせりふを何度も考えた。「すみません、出来心でした」「すみません、もうしません」「友達がやったんです、返しに来ました」どんなせりふも的がはずれていた。

思い切って店に入ると少女は居なかった。わたしは拍子抜けをしてしまうと同時にほっとした。今日の行動を持って半分責任を果たしたように思えたからだ。「返す気持ちはあったんだ、でも本人がいんじゃ」というような逃げだろうか。その日はその文房具店でノートを一冊買い、青インクはそのまま持ち帰った。

時々、学校の帰りに遠回りして大塚公園の前を行きその店を覗いたが、少女がいることは一度もなかった。雨に降られながら公園からの帰り道の日曜日、あの少女が店に入るのが見えた。そう言えば、盗んだときも日曜日だった。休みに手伝いに来ているのだろうか。傘越しだが細い腰、サンダル、ポニーテールに束ねた髪、間違いなかった。わたしは急いで家に帰りインクの箱を取り、文房具屋に向かった。どうするのかはまるで考えていなかった。返して謝ろうと漠然と考えていた。それがあの少女の正義感、勇気、生活感に応える唯一の方法だと思った。なぜそんなことを考えたかと今から思えば、その子の清楚感と対照的な小さく古びたお店の郷愁から来た物だろうか。勢いよく店に入ると、いきなり店番をしているその子とはち合わせをした。

「いらっしゃい」店番には慣れているといった声だった。

わたしは行動計画をはっきりと立てずに彼女と面と向かったことを反省した。狭い店なので彼女の視線の届かない場所は店内にはない。以前から思っていたとおりに顛末を話して許してもらおうとした。そのせりふを考えているうち、他の客が何人か入ってきてしまった。何を思ったのか、持ってきたインキをその子に差しだし。「これください」と言ってしまった。彼女は、何も言わずその青インクの箱を眺めた。しばらくして箱から目を離さずに値段を告げた。お金を渡すと、青インクを丁寧に紙袋にしまった。やっと顔を上げて「ありがとうございました」といって紙袋をわたしに手渡した。瞬間わたしの顔を見たあと、すぐにわたしの後ろに視線が移動し「次のお客さんどうぞ」といって、さも仕事が忙しいとでも言うような素振りを見せた。

店を出ると雨は上がっていた。わたしは無造作に青インクの箱をジャンパーのポケットにしまい込むと傘をステッキ代わりにして道路を突きながら歩き出した。

しばらくすると「ちょっとー、そこの子」という声がした。ふりむくと、またサンダル履きで、ポニーテールを揺らしながらこちらに向かってかけだしてきている。

わたしが立ち止まっていると追いついてきて

「お釣りわすれてるよ」とややあきれたような顔をして、小銭を渡そうとした。

「ああ、ありがとう。お店の方は」

「うん、おばちゃんに」

「ああ」

「あの青インクの箱、雨で濡れてたよね」彼女が言った。

「え?」わたしは目を丸くした。

「じゃあね」彼女はそう言うとまた店の方に駆け出していった。

そのことは仲間には話さなかった。自分ではかなり良い解決方法だったと満足していた。つまり、言い訳が立つと思った。わたしが盗んだ訳じゃない。あとで支払ったが、ちゃんと買った青インクを持っている。そういう理屈だ。

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