第三章 隠し砦を探せ

第三章   隠し砦を探せ

1

日曜日の午後、わたしたちは宝物を移動するためにまた空蝉橋に集合した。空は熱風を降り注ぐ青天井に戻り、集中豪雨の痕跡はすっかり姿を消していた。水害を免れた雨後の雑草は緑の深さを増し、陽射しはますます強くなるばかりだった。

橋の崖崩れ現場も様子が変わっていた。崩れた土砂は深いチョコレート色からほこりっぽい薄茶色に乾きあがり、土砂が流れた崖下と貨物線路の間にあった数メートルの水たまりは半分ほどの大きさに縮まっていた。崖崩れの直後に見た荒涼とした風景は消え去り、柔らかそうな斜面と小さな水たまり、その近くを貨物列車がゆっくりとかすかな音を立てて進んで行く。優しく変化に富んだ広い坂だった。
崖滑り、鬼ごっこ、戦争ごっこ。
子供にとっては格好の遊び場で、見るだけで胸が高鳴った。

子供たちがこれを見逃すわけはない。その日はたくさんの小学生が白泥の斜面をダンボールやベニヤ板を尻に引いて崖滑りを楽しんでいた。斜面には雨水の流れた跡がまだ幾筋も残っており、その水路を滑り台にしたり、穴を掘ったりして秩序よく遊びに興じていた。そこは公園の遊具より何千倍も魅力がある場所に見えた。

復旧工事の工員たちは立入禁止の立て札を崖のてっぺんに打ち込んだだけで引き上げて行った。大人たちは、崖崩れ現場で遊んでいる子供たちを見てみない振りをするか、眉をひそめるかして通り過ぎた。時々「おい、ここは立入禁止だぞ、看板が見えないのか」と言って追い出そうとしたが、子供たちはかまわず遊んでいた。斜面は貨物線路近くまで延びていた。線路に近づくと駅員に注意されるのはわかっているので申し合わせたように崖の斜面だけで遊んでいた。

わたしたち三人は橋下の宝の隠し場所に行くため、落ちているダンボールを拾い上げ崖を滑り降りようとした。そのとき、住友が器械体操を始めるように両手を横に広げわたしとクジラの進路を遮った。

「おい、様子がおかしいぞ」住友が体の大きい子供とその一群を指さした。

「あいつら何やってるんだ?」

「何か探しているようだな」

豊島小学校の六年生のグループだった。あたりかまわず遊んでいる小学生を捕まえては何かを問いただしているようにも見える。崖の土を竹竿でつついて何かを探しているやつもいた。遊ぶわけでもなく何かを物色しているようで異様に目立っている。全員で四人のグループだった。

体の大きいイガグリ頭はわたしの家の近くに住んでいる小川ミチヒロだった。小川は「おすもうさん」と呼ばれていて身体が大きく、そのままで相撲部屋の序二段という外見だった。おすもうさんは、わたしと同級で小学校にあがる前は小さく弱々しかった。喧嘩でもわたしの方が勝っていた。性格もおっとりして親しく遊んだが、校区の違う小学校に分かれて進んでからはほとんど言葉を交わすこともなくなっていた。近くの柔道場に通い出してから、身体が大きくなってきて喧嘩も強くなり強面の雰囲気が漂ってきた。

もうひとり崖下に見え隠れしていたのは、長谷川哲夫で「てつ」と呼ばれている。父親が製紙会社の社長で金持ち、性格は小川と正反対で神経質のように見えた。角刈りの頭で鋭い目つきをしている。

崖の土を竹竿でつついていたのは、細面に消え入りそうな薄い眉毛の玉木だった。商店街のソバ屋の息子だ。幼少時に事故でソバの湯を全身にかぶり大火傷をしたという悲劇的な話を聞いたことがある。そのためか夏でも長袖のシャツを着て腕だけまくり上げていた。

長谷川に寄り添うように一見低学年に見える黒縁メガネのちびがいた。いろいろ命令されているようだった。たぶん長谷川の子分に違いない。細々と動き回っているが、彼らと嫌々行動を共にしているとしか考えられないほど精彩がない。まあこいつは、わたしたちにとってどうでもいいやつだ。

彼らは崖の上に佇んでいるわたしたちを見つけるとこちらに向かって来た。先頭は小川で、身体の大きい割には俊敏な動作で崖を一気に駆け上がり息を切らしながらわたしに話しかけた。

「しばらくだな、じゅん、何しに来た?」横柄で脅すような態度で訊ねた。

「いや、ちょっと」すこし気圧されてわたしは答えた。

「ここは、おまえらの縄張りじゃないよな」

「別にどこで遊ぼうがオレたちの勝手じゃないか、それともここは豊島区民専用で崖を降りるには入場料でも取るっていうのかい」わたしは弱気になるまいとして一気にまくし立てた。

「おまえら、ここへはよく来るのか?」

わたしはいやな予感がした。普段彼らとは町で行き交うこともあるが、それまではお互いに何の干渉もしなかった。だいぶ以前の先輩の時代には学校間で大きな喧嘩もあったと聞いていた。現在は沈静化しておりお互いにそれほどいがみ合う問題を抱えているとも思えなかった。それがこの突っ張り方は何なのだろうかと思った。

「よく来るのかって、聞いてんだよ」考え込んでいると小川が声を荒げて繰り返した。

「ぜんぜん、来ないよな」わたしはキッパリと否定して、念を押すように住友とクジラに目で合図した。

「今日が初めてだよ、崖崩れがあったって聞いたから様子を見に来たんだ」住友がさらりと穏やかな口調で言った。その言葉を遮ってクジラが割り込んできた。わたしは少し面食らった。

「いや、よく来るよ、どこで遊ぼうとかまわないだろ、この場所だってオレたちの方が早く見つけたのさ、おまえら何が言いたいんだよ」クジラはわたしの意図とは正反対のことを喋り始めた。わたしは会話をクジラにも振ったことに後悔していた。クジラの鈍感さをすっかり忘れていた自分を呪った。クジラの言葉は彼らに大いに興味を持たせた。

「じゃあ、昨日も来たってことか」

「ああ・・」クジラが言いかけたとき住友が割って入った。

「いいや、さっき来て、ここのいい場所オレたちが先にみつけたのさ」

「つまり、滑るのにいい場所ってことさ」わたしが付け加えた。

「それだけか?」小川は疑り深い目でわたしたち三人を順番に見ながら聞いた。

長谷川、それにソバ屋と黒縁メガネも崖の上に駆け上がってきてわたしたちの周りを取り囲んだ。

「おまえらこの辺で、何か拾わなかったか?」長谷川が訊いた。

「なにも」今度は自分だけで答えることにした。

「てめえら、ウソついたらぶっ殺すぞ」ソバ屋が持っていた竹竿の先端をわたしの鼻先に突きつけてすごんで見せた。泥は乾いた埃の臭いがした。

「だから、崖を滑りにきただけだっていったろ。しつこいなあ」わたしは相手の挑発に乗らないようにゆっくりと話し慎重に反応した。

「一年生と一緒にお滑り遊びかい?」長谷川が意地悪そうに聞いた。

「なにい!」クジラがいきり立って言い返そうとしたのを住友が直前で制止した。

「ああ、これから崖で滑って遊ぶのさ、何が悪い?」冷静に住友が言った。

「おまえたちにゃ、似合ってる」

「まあいいや、せいぜいケツの穴に石ころ詰めないように気を付けな」

「早く帰れよ、母ちゃんが迎えに来るぞ」黒縁メガネのちび以外は口々に悪態をつきながら彼らは崖の下に戻っていった。

2

豊島小グループはずっと崖周辺を動き回っていた。奴らのせいでわたしたちは宝を隠した橋下には近づくことができなかった。

「どうするんだよ」住友がいらつきながら言った。

「今日はどうしようもない。あいつらがいなくなってから行動するしか仕方がないじゃないか」わたしはその日に宝を持ち出すのは難しいと判断した。それに新しい隠し場所もまだ決まっていないのだ。

「オレ思うんだけど、あの品物あいつらのものじゃないかな」住友が言った。

「何か探しているような仕草だったし、遊んでるチビたちにしきりに大きな箱を見なかったかって聞いていたぞ」クジラが腕で額の汗を拭いながら言った。

「たぶん間違いないような気がする」わたしも同調した。

「奴ら、なんか必死だったよな」

「だったら早くブツをどこかほかの場所に移そうぜ」

「ブツか、やくざみたいだな」クジラが嬉しそうに言った。

「橋の下じゃ見つかるのは時間の問題だ」

「でも、穴はしっかり掘ったしカモフラージュも万全だ」クジラは自信ありげに言った。

「じゅん、あそこはどうだ?」住友がわたしに訊いた。

「あそこって?」

「ゴーグジの縁の下」ゴーグジとは護国寺のことで文京小学校の隣にあって、境内は通学路でもあった。

「あそこは小学生がたくさん通るし、隠し場所にしているやつは多いからやめた方がいいと思うよ」クジラがわたしの代わりに答えた。

わたしたちは護国寺の境内にある本堂の縁の下を物置代わりに利用していた。本堂の縁の下は鉄柵で囲まれており進入できないようになっている。直径一センチ以上ある鉄棒はどうしようもなく頑丈そうに見えるが、上下にがたつきがあり引き上げてから横に力を掛けると簡単に抜けるものがいくつもあった。わたしは持ち帰ると面倒な工作の残骸や、野球のグローブ、古くなった靴、自分で作ったトランジスタラジオ、メンコとかを隠しておいた。もちろん仲間はみんな知っていてそれぞれの持ち物を秩序よく配置していた。生徒の多くはこのことを知っていて適当に利用していた。だからそこは安全な場所でもなんでもなかった。それに大事なものを置いておくと「おけいちゃん」が持っていってしまうという噂があった。おけいちゃんとは子供たちがおそれる護国寺の墓場の住人である。めったに姿を現さないが、恐ろしい怪獣のような顔で、子供に悪戯するという話であった。

わたしは一度だけおけいちゃんを目撃したことがあった。墓場から下りてきたのだろうか、学校近くの通学路の真ん中に寝転んでいた。下校時間だったため、大の字に寝ている大男の周りを生徒たちが遠巻きにしていた。酔っぱらっているようでもあり、死んでいるようでもあった。髪の毛はごわごわで、血のような赤いものがこびりついているように見えた。やはり死んでいるのかとそばの子供に聞いたとたん「ゴロッ」と寝返りを打った。取り囲んだ生徒の輪はいったん大きくなって静まりかえった。そしておけいちゃんが起き上がろうとした瞬間、ワーッと歓声を上げてみなで逃げ出した。わたしもその形相と猛獣が息を吹き返したような恐ろしさでおののき一目散に家まで逃げ帰った記憶がある。

わたしたちは隠し場所のもうひとつの候補を考えた。大塚駅の小さなデパート屋上のメリーゴーランドの下だった。このデパートの屋上の小さな遊園地には頻繁に出入りしており、駅からも近く便利だった。そこは雨にも濡れないし安全な場所だった。わたしは護国寺の代わりにここを推薦した。しかし住友は、夕方六時過ぎると入れないことと機械の整備で作業員が中に入り見つかったら元も子もないということを理由に反対した。

「やっぱ、ゴーグジにしよう」住友が言った。

「だから、安全じゃないよ。みんな本堂の縁の下は知っているし」

「本堂じゃなくて、墓にするんだ」

「気持ち悪いこと言うなよ。穴を掘ったら骨が出てくるぞ」

「おけいちゃんに殺されるぞ。墓で遊んじゃいけないって先生も言ってたし」。クジラもお墓には消極的だった。

「じゃあ、どこに隠すんだよ」

わたしたちのアイデアはそこで尽きてしまった。

「ともかく、今日は橋には近づけそうもないよな」クジラが独り言のように呟いた。

「プールにでも行こう。今日も暑いったらないよ」みんなの意見が出尽くしたところでわたしが提案をした。

「海パンは」

「何も用意してないよ」

せっかくの日曜日だというのに何もやることがなく、わたしたちの最初の期待と勢いは空気の抜けた風船より小さくなった。

「今日は、帰るか」また、クジラがぼそぼそと呟いた。

「まだ早いよ。じゃあ、あいつらが居なくなるまで、ゴーグジで宝の隠し場所を探そう」沈黙を破って住友が勢いよく言った。

「お墓に行くのか?」クジラがめんどうくさそうに言った。誰も強く反対しなかったので、わたしたちは歩いて護国寺まで行くことにした。

3

「夏の墓場って何でこう暑いんだろう」クジラが、藪蚊に刺されたおでこをかきながら言った。確かに、周辺は木陰がなく強い陽射しが照りつけていた。冬場は霜柱を足で散らかして遊んだ場所が、何とも耐えられないほど今は暑いということが感情では理解できなかった。

「大きな墓の方に行こう。ここはしけたヤツばかりで日陰もない」住友がそういいながら墓の周りを囲ってある石の外柵に上った。

「オレについて来い」住友が言ったので、わたしも石の上に飛び上がりクジラが続いた。

石の外柵は高さが子供の背丈ぐらいで両足を並べて立てるほどの幅があった。早足で歩き回り遊ぶにはちょうど良かった。住友が先頭で墓の周りをぐるぐると歩き回った。

「肝試しだ、ついてこられたら、宝物全部おまえたちにやるよ」二、三回周囲を巡ると住友は身軽そうに次の墓に飛び移った。

「あの宝物は、もともとオレが見つけたんだからな」クジラは宝の所有権についてこだわって言った。

墓の間が近い場合はなんともないが、離れていると外柵の間をジャンプする能力の差が現れてくる。いくつかの墓を通り過ぎていったとき、後ろで材木が倒れるような音がした。振り向くとクジラがよろけて板塔婆につかまり、その板きれと一緒に倒れそうになっている。塔婆は立てかけてあるだけなのでつかまっても体を支えるのには何の役にも立たない。クジラはそのまま塔婆をつかみながら外柵から落ちて墓石に体当たりするようにぶつかった。墓石はぐらりと揺れて「ゴゴッ!」という音とともに少し動いた。隙間から墓の中が少し見えたように感じた。転んだクジラは墓の横に倒れて座り、ぶつけた足をさすっていた。

「おい、クジラのうしろにお骨が見えたぞ」と住友が言った。

それを聞いたとたんクジラが「ギャーッ!」と咆哮してわたしたちの方に逃げてきた。

「冗談だって、クジラ落ち着けよ」わたしは宥めたが、クジラの唇が少し青くなっているように見えた。

住友は追い打ちをかけるように「縁起悪りー、クジラの体さわると手が腐るぞ」といって遠ざかった。わたしも住友と一緒にクジラから逃げた。墓に体当たりしたやつなんてウンコを踏んだやつよりましだけれど、言いようのない気持ち悪さがあった。クジラはべそをかきそうになりながらわたしたちを追いかけてきた。

半分からかいながら、半分本気でわたしと住友はクジラから逃げ回った。墓地中を走り回り最後に本当にクジラが泣きそうになったところでわたしは逃げるのをやめクジラと合流した。

突然向こうで「ギャー」という住友の叫び声がした。

住友はさっきクジラが転んだ墓の前で呆然と立ちつくしていた。

「おい、あれを見ろよ」住友がさっきクジラがぶつかった墓の方を指している。それを見てわたしとクジラは仰天した。動いた墓石と板塔婆がきちんと元に戻っているのだ。わたしは死ぬほど怖くて全身に鳥肌が立った。

「これさっきの墓か?」クジラが訊いた。

「ああ、クジラが転んだ跡が残っている」住友がクジラが転んで整った絨毯のような緑苔を踏みにじった跡を指して言った。

「おい、だれかいるのか?」住友が周囲に向かって叫んだ。

「おけいちゃんだ」わたしは呟いた。

「おけいちゃんが来たんだ!」そう叫ぶ住友がにやにやしているのを見て事情を察した。住友が先回りして直したに違いない。そういうヤツなんだ。

「おい、気持ち悪いよ、こんなところ宝物を隠したってみんなおけいちゃんに持って行かれちゃうよ」クジラはそこを一刻も早く引き上げるよう主張し、事情がまだつかめずに周囲をきょろきょろ見回していた。わたしは住友と顔を見合わせてから声を出して笑った。クジラも同調して笑ったが、まだ事情は飲み込めていなかったようだ。その様子を見てわたしはもっとおかしくなり、またクジラのことが好きになった。

4

四年生の時となりのクラスに変な歌を唄うやつがいるという評判が立った。住友がわたしにそいつの歌を聴きに行こうと誘った。となりのクラスに行ってみるとボーとした刈り上げ頭の生徒が教室の掃除をしていた。住友がそいつのそばに行って話しかけた。

「おい、例の歌やってみろよ」といきなり言った。唐突な申し出のためか、状況の理解のためかしばらくの沈黙があったが、表情を変えず歌い出した。

「♪コンミスタ タリマン タリリ バナーナ」

なんとも妙な歌で、メロディがあるのやらないのやら。バナナをバナーナというのが不思議だった。浜村美智子とかハリー・ベラフォンテという歌手が歌っていたらしいのだが小学生が歌っているのを聞いたのはそのときがはじめてだった。その小学生が鯨岡祐二でみんなからクジラと呼ばれていた。

それに彼は授業で使う縦笛を使って何でも吹けるというのだ。わたしたちがリクエストをすると流行の歌謡曲をどんどん立て続けに吹いていった。

ためしに、「ぼくは泣いちっち」「ハリマオ」「東京だよおっかさん」は立て板に水で気持ちが酔うほどの演奏であった。わたしの最初のリクエスト「スターダスト」は出来なかったが、代わりに頼んだ「ダイアナ」は下水道に汚れた油を流すぐらいのなめらかさだが、最後まで演奏することができた。上手ではないけれどもすべて何とかこなしてしまう。音楽のセンスとは無縁そうなこの少年が器用に笛を吹くのをわたしたちは感心して聞き入っていた。

何曲も吹き終わったときわたしたちが拍手をすると、満足そうに歯茎をむき出しにしながら口だけで笑った。縦笛を袋にしまい、また掃除の仕事に戻りながら「今日はサービスだ」といって猫とカラスの声真似をしてくれたがこれも見事な出来映えだった。

掃除当番に戻る後ろ姿を見ると、落花生型で刈り上げた後頭部が十円玉ぐらいの大きさでシミのように薄い金髪になっているのに気がついた。芸達者なやつっていろいろ変わってるんだなと思った。外国の歌も縦笛もかなり変だったが、それに加えて一度見ると忘れられない薄茶色の瞳と、歯茎丸出しの締まらない笑顔が印象的と言うより幻想的だった。

その後、五年生になるときの学級変えでクジラと同じクラスになった。わたしと同じぐらいの背の高さだったため、毎週、朝礼のとき刈り上げ頭の金色いシミを眺めることになった。

クジラは、誰にでも好かれる陽気なやつだが、押し出しのなさが弱点だった。つかんだ物を何にでも鼻を近づけ、においをかぐ癖が品の悪さを表している。しゃくれた顎と張り出したおでこは一見理知的に見えるが、会話をすればすぐに憎めないぼんくらだということがわかる。笑っていいのかどうかわからない冗談を言う。話の中にでてくる数字は大げさでほとんど十倍以上になっている。

クジラの家は裕福には見えなかった。家の中には一度も入ったことがないし家族の話は彼の口から聞いたこともない。ずいぶん年上に見える兄貴と顔がそっくりな弟がいることだけは知っていた。明らかに兄貴からのお下がりであろう縮みあがった開襟シャツとつぎあてのある半ズボンが定番の制服だった。クジラの弟もこれを着せられるのだろうか。一人っ子のわたしには男三人兄弟など想像もつかない世界だった。オヤジさんとは会ったことがない。クジラが小学校低学年の頃に交通事故で死んだと聞いたこともある。

クジラは左利きだった。クラス替えがあり最初に彼の左利きがとてもかっこよく見えた。ところが、勉強のできが悪く担任の教師に指名されて黒板の前に立ち、立ち往生してチョークを左手に持ったまま書こうとして手を上げて止め、上げてはまた手を下ろす。その動作が何とも不憫というか、かっこわるいと言おうか、たどたどしく字を書く左手の手際の悪さを見て、いっぺんにイメージが変わってしまった。助け船を出そうとそわそわしていたら、「木村君、代わってやってみなさい」と言われた。もじもじしていると担任は「早く出てきて!」と急かした。黒板の前に出ていく直前までは俊敏に問題を解いてやろうと思い、軽い足取りで出かけていった。前に出てクジラを見ると真っ赤な顔をして下を向いていた。うなだれて全身で屈辱に耐えている様子だった。それを見てわたしの気持ちは急変した。黒板に正解を書いてはいけないと確信したのだ。仲間意識が彼をひとりにしておけないと思ったのか、友達を失いたくないと思ったのか今でもわからない。ともかく、クジラと同じように手を挙げたり下げたりし、最後にでたらめの数字を書いて、担任の方を振り向いた。担任は、たいそう怒った。クジラよりわたしの方に憎しみを向けているように感じた。わたしのわざとらしい行動に敵意を感じていたのだろうか。二人とも廊下に立たされた。放課後残るように言われた。

「木村君、テストではできている問題が何故できないの?」

「忘れたからです」

「テストはカンニングだったんじゃないでしょうね」

自慢じゃないが、そんなこと小学校に入学以来一度もしていない。相当プライドが傷つけられたが我慢するより仕方がなかった。

「あんたたち誰のために勉強しているの?」担任がクジラに向かって聞いた。

しばらくの沈黙の後「先生のためです」とクジラが答えた。わたしは「ああ言ってしまった」と思った。担任は呆れた顔を隠さず、異邦人を見つめるような視線を投げかけてから、泣きそうな顔になった。

「世の中には貧しくて勉強したくてもできない子供もいるのよ」

そんなヤツ教科書に出てくる子供以外いるわけないと思った。

「あなた達は勉強する権利があるの」

「はあ」わたしは気の抜けた声で返事をした。

「もういいわ、あんたたち帰りなさい」

クジラは相変わらず神妙な顔をしていたが、担任の困惑が理解できないようだった。

「自分のためです」が正解なのにと思ったが、よく考察してみるとクジラの答えもいいと考え直した。みな自分のためになんて思っているやついないかも知れない。何故かなんて考える必要もない。皆やらされているんだ。何が権利だ、何が義務だ。みんないろいろ苦労してるんだ。いちいちそんなこと考えてられるかってんだ。先生のために勉強するやつがいたっていいじゃないか。「生徒の素直な気持ちに感謝しろ」と思った。

コメント