第一章 プラットホームの男
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電車に終点があると気がついたのはいつのことだっただろう。小学校も高学年になってからだったかも知れない。そして電車には行き先が明示されていることがあると気づいたのは、さらにそのもっと後になってからだった。山手線には終わりがないし、行き先も表示されていない。もっとも終電や車庫に入る電車に「池袋」とか「新宿」とか目的地が示されていることがあるがめったに巡り合うことはない。ハナからどこ行きに乗るという感覚がないのだ。世界の電車はみな、ぐるぐる回りながら走っていると思っていた。遊園地の電車だってすべて回っている。始まりと終わりがあるそんな不便な電車なんて考えたくもなかった。
生家からの最寄り駅だった大塚駅は山手線と貨物の線路のみで、乗り換えもなくホームが一つあるだけだ。急行もないし快速もない。方向でさえ間違えても、最大二八の駅を通過するのを頓着しないおおらかさを持ち合わせていれば、一周して必ず希望する駅に着く信頼の置ける電車だ。だから電車は、来たら乗るものだと思っていた。わたしの鷹揚な性格は少年期に過ごしたこの都市環境の影響を存分に被っている。山手線の陸橋から大塚駅のホームを見下ろしながらそう考えた。
小学校時代の同級生の通夜に出席するため、わたしは単身赴任先の信州から上京した。長野から新幹線で東京まで約一時間半。山手線に乗り換え大塚駅で下車した。今朝は、長野市内から北アルプスの山頂がくっきりと見渡せる晴天で、しかも久しぶりの休日だった。すぐに思い立って戸隠のスキー場に出かけてひと滑りしたあと、最近掘り当てたという麓の温泉に浸かった。人心地ついて蕎麦屋に入り昼食の大ざるに手をつけようとした。そのとき携帯電話に彼女の訃報が届いた。
通夜会場に向かう途中、駅のホームが眼下に見える陸橋を渡った。子供の頃、崖滑りで遊んだ橋から線路に至る土の斜面はコンクリート壁で整備されていた。そして広い空き地だった崖下はホテルと駐車場に変わっていた。当時わたしにとって、この橋は最高のお気に入りの場所であった。小学校からの帰り、わざわざ遠回りして寄り道した。橋の上から、行き来する山手線の電車、時折通る大縦列の貨物列車、せかせかと乗り降りする乗客、忙しく動き回る駅員、線路の側溝でザリガニ取りをする子供たち、そんな光景を見ているのが好きだった。ランドセルを背負ったまま、何時間も眺めていた。一日いても飽きなかった。ぼんやり考え事をしていても、誰もとがめる者はいない。親に叱られて家出をしようと決意したときも橋の上に来た。このまま電車に乗って東北地方にでも行ってしまおうと考えていた。しかし、山手線に乗っても一周回ったら元の駅に戻ってしまう。そう考えて家に引き返した。
石が重ねて作られている欄干に一つ出来損ないのように黒く変色した硯のような小さな石壁があった。自分だけが知っている秘密だと思っていた。橋に行くたびに「また来たぞ!」と軽くその石に触るのが習慣になっていた。石の積んである数も数えて覚えていた。死んだ小動物は橋の下に埋葬した。橋梁の高さを知っていた。長さは知らなかったが測ってみようと思っていた。橋から最短でザリガニの住む側溝まで降りるルートも知っていた。駅員に見つからないように線路に進入する方法も熟知していた。子供たちはみな「イッセンバシ」と呼んでいたが本当は「空蝉橋」だと言うことを知っていた。橋の隅に生えている雑草の本数も記憶していた。ほかのことには頓着しなかったが橋については誰よりも知っていると思っていた。
橋で遊んでいた頃、人生の長さは果てしなかった。終焉が近づいてくる時期があることなどは考えも及ばなかった。そんなことは自分とは関係ないどこかの老人たちが抱える社会問題のようにも思えた。しかし、似たようなことは薄々感じることはあった。たとえば、小学校の夏休みも始まる前は果てしなかった。強い日差しの中、自由で勉強から逃れられる甘い生活が永遠に続くように思えた。休みの期間中は外遊びに悪戯、プールにアイスキャンデー、肝試しに線香花火、そして快い流行音楽に浸りきりだった。それがすべてと思っていた。終わりがあると気づくのは八月の最後の週になってからだ。それまでの怠惰を呪い宿題を整理し始め、終わりの不安に震える。会えなかった友人を懐かしみ、先輩が頼もしく見え、宿題の面倒を見てくれた親戚のおじさんが尊敬の対象になった。誰でもいいから混沌の解決と終焉の不安を癒してくれる対象を訪ねたくなる。会いたくなる。
今、中年を過ぎて自分の生活も宿題の仕上げにかかる八月後半の週に近づいたことを感じる。そして何も手を付けていない宿題の完遂は、誰も助けてくれないことに気がついてさらに動揺する。バラバラに散らかっている宿題の材料を集めなければ。そして早く仕上げなければいけない。でもわたしの頭の中ではたくさんの材料がいつまでもぐるぐる回っており、まとまりがなく止めどがない。そろそろ行き先のある電車に乗らなければ間に合わなくなる。もう残された時間は少ないのかも知れない。親しかった同級生の訃報はそれをいっそう現実的にさせた。
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日が暮れて少し冷え込んだが、分厚いコートの襟を立てれば十分に暖かかった。通夜の始まる時間はとうに過ぎているが、タバコに火をつけもう一台電車が着くのを見てから会場に向かうことにした。橋の上からプラットホームの突端まで五〇メートルほどあるだろうか。蛍光灯の光を浴びて暗闇から浮き出ているホームの形は陸揚げされた細長い白鯨のようにも見えた。川底に敷かれたような線路上にカチャカチャと軽快な音を立て外回りの山手線が入ってきた。橋上から眺める電車は豆電球のようなライトで正面を照らし、空気を泡のように蹴散らせながらせっかちに走ってきて、期待どおり駅を素通りせずホームに停車した。
ドアが開きパラパラと乗客が降りてくるのが見えた。出口の階段は中央付近にあるので最後尾の車両から降りる乗客は少ない。中年のサラリーマン、子ども連れの母親、お勤めに向かう女たち、学生服の一団。自分も通学や通勤にあんな姿で通っていた時期もあったのだろうか。少し遅れて学生たちの後ろから白いジャンパーを着た男が降りてきた。低い身の丈に大きめのジャンパーが不釣り合いだ。それにぶかぶかのジーンズを引きずっている。短い首には黒い毛糸のように見える長いマフラーをだらりと垂らし、落花生型の頭には巨人軍の野球帽をあみだにかぶっていた。少年のようにも見えるし中年のようにも見える。蛍光灯の明かりに映えて白く光るスタジアムジャンパーは尻の部分まで覆っていてやや滑稽だったが、スポットライトを浴びたように目立っていた。
男はそのまま出口方向に向かいかけ、突然足を止めた。一瞬、何かを考え込んでいる様子で頭を二、三度左右に振り天を仰いだ。その後、車内に置き忘れた荷物でも探すようなそぶりで振り返った。そしてゆっくりと顔を上げた。男は少年ではなかった。ずいぶん年を重ねているように見える。自分と同じぐらいの年齢だろうか。こちらの方を見て何かを探している様子だった。しばらくすると遠方をまさぐる動作が消え、体ごとこちらに向き直った。
その瞬間、わたしは凍り付いた。わたしと男の視線が合致したように思えたのだ。それっきり男はまるで白い氷細工の人形のように身じろぎもしなかった。わたしは何が起こったのかわからなかった。こんなに離れているのにやはり男はわたしを見ている。遠いホームから橋上のわたしを認識して見つめている姿は明らかに異常だった。その男はわたしを見たまま静止している。全く動かない。
「いったいどうなってんだ」わたしは信じられない展開にとまどった。待ち合わせの他人を捜しているのか、と思い辺りを見回したが橋の上にいるのはわたしだけだった。視線をホームに戻しても相変わらず男はわたしを見据えていた。
しばらく男の顔を凝視していると、わたしの脳裏にかすかな記憶がよみがえってきた。
「そうだ、クジラ・・・鯨岡だ」男の顔には見覚えがあった。遠くて顔の輪郭しかつぶさにわからなかったが、野球帽にジャンパー、落花生の頭にしゃくり上げた顎、全体の雰囲気が旧友を連想させた。
「なんで、ここにクジラが?」
鯨岡は小学生時代の同級生で遊び仲間だった。
「そうか、あいつも通夜にきたのか?」
「いや、あり得ないことだ」
そう考えているうちに男の姿はホームから消えていた。それは一瞬のことだった。わたしは男を捜そうとして咄嗟に橋から駅までの坂道をかけ下った。しばらく走ると駅の南口の改札に着いた。自動改札口に人気はなかった。男を待つうちに北口もあることに気がついた。入場券を買い構内に入り反対の出口に向かったが、そこにも男の姿はなかった。期待よりも焦りの気持ちが大きかった。半分あきらめながら階段を上りさっきまで男がいたであろうホームに向かった。池袋方面の先端まではかなり距離があった。後ろから低いうなり音をたてて巣鴨からの内回り電車がわたしを追い抜いて到着した。
相変わらずまばらな乗客だったが、わたしはその人の流れに逆らってホームの端まで進み、そこから橋を見上げた。橋上には細長い電柱が数本立っており、切れかかったような蛍光灯が鈍い光を放っていた。そしてわたしはその薄明かりの中にぼんやりした影を認めた瞬間、また息をのんだ。白いジャンパーに黒いマフラーの男が今までわたしが立っていた橋の上におり、プラットホームのわたしを怯みもせず見つめていた。
「なんてこった。すれ違いなんて。メロドラマじゃあるまいし」自分でもつまらないと思いながら、新人のシナリオライターが書くような台詞で独りごとを言った。目を細めもう一度、影がさっきの男かどうかを確認した。間違いなかった。
「おーい」わたしは橋に向かって声を張り上げた。電車を待っている数人の乗客がわたしの方を振り返って見る視線を感じた。
「おまえ、クジラか」と叫ぶが、冷たく静まり返っている線路と砂利と暗闇に声が吸い込まれていく。
「そっちに行くから、待ってろよ、そこを動くなよ」周囲を気にせずありったけの大声で呼びかけた。何の反応もなかったが、元いた場所に引き返すべく駆け足で出口に向かった。それにしてもずいぶん橋までは遠回りだ、反対側の降り口まで行って改札を出て長い坂を上る。それよりもホームから飛び降り線路を横切って駐車場を抜け、坂を登れば数分で戻れる。小学生時代のこの周辺で遊んだ記憶を思い出すと、改札まで戻るのがずいぶん面倒な気分になった。今更そんな大人げないこともできず、正規ルートで橋の上まで戻った。
坂道の往復はわたしの体力を消耗させ、息切れも激しかった。周囲を見渡したが、そこには白いジャンパーの男の姿はなかった。プラットホーム上にも男の影はない。通過する自動車のヘッドライトに照らされ瞬間的に明るくなる橋の反対側にも男の姿は見えなかった。暗く沈みきった橋の上にはわたししかいない。平静を取り戻すため、タバコを一本取り出し欄干に寄りかかろうと歩きかけると何かが足に絡まった。誰かに足を捕まれ引っ張られるような感覚だ。ぎくりとして足元を見ると長いマフラーが巻き付きわたしの歩行を妨げていた。黒い毛糸のマフラーだった。
「やっぱりあいつ、ここにいたんだ」わたしはまだ火を付けていないタバコを放り出した。マフラーを拾い上げその感触を確かめた。柔らかくて弾力があったが冷たかった。マフラーをまるめてコートのポケットに押し込みながらもう一度プラットホームを見下ろした。そこには男の姿も他の乗客の人影も見えなかった。
「先に通夜に向かった?」
「そんなことはあり得ない」
「あれは誰だったんだ。人違いだろうか」
わたしは自問自答しながら、以前クジラとこの場所で待ち合わせしたことを思い出した。そして小学校六年生の夏に起きた一連の出来事についてゆっくりと記憶をたどった。
第二章 山手線の崖
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わたしは約束の時間よりはるかに遅れて待ち合わせの空蝉橋に向かっていた。クジラは、わたしを見つけると勢いよく駆けだして来た。
「じゅん、遅いじゃないか。ずっと待っていたのに!」攻めたてる口調で言った。
「そんな時間かい?」からかうつもりで、わざととぼけてみせた。
「いままで、何やってたんだよ、さんざん待たせて」弾ませた息を整えながら口をとがらせた。クジラの少し黄ばんだランニングシャツとぶかぶかの半ズボンは汗と泥で汚れていた。額と鼻には汗が光っていた。クジラは興奮しているときはいつも汗の玉が野イチゴの房のように鼻頭に整然と並ぶ。手で拭うでもなくハンカチで拭くでもなく吹き出したままとどまっていた。
「わるいなクジラ、掃除当番のあと職員室でまた小言の続きがあってさ」わたしはクジラのだんご鼻にまだきちんと並んでいる水滴と極端に突き出した顎の形を観察しながら言い訳をした。
「一時間は待ったからな、この借りは返してくれよな」怒りを少しトーンダウンさせたが恩着せがましい調子だ。
その日は土曜日で、授業は午前中だけだった。前日まで続いた遅い梅雨の大雨による肌寒い空模様とは打って変わり猛暑の晴天になった。放課後はクジラとわたし、それに住友を加えたいつもの仲間三人で暑さしのぎも兼ね泳ぎに行くことになり、区民プール近くの空蝉橋で合流することにした。ところがわたしと住友はその日の授業を台無しにした張本人として、六年五組の担任に居残りの指令を受け職員室で絞られていた。長時間にわたる小言の拷問から解放されたときには学校中の生徒の姿は皆無で、人気のない校庭を炎威の頂点に達した日差しが執拗に照りつけていた。急いで家まで帰りランドセルを玄関に放り投げたあとプールの支度をして昼食も食べないまま飛び出した。
「住友はどうした?」
「オレと一緒に職員室で怒られていたから」
「スミもじゅんの道ずれか、つき合いがいいな」
「オレがスミにつき合ったんだよ」
区民プールで二時からの遊泳者入れ替えに並ぶ予定だったが、とうにその時間は過ぎていた。
「じゃあ、もう行こう。ついて来いよ!」落ち着き払っているわたしに、クジラが急かして言った。
「なにあせってるんだよ、もうすぐ来るから待ってようぜ」
「それどころじゃないんだよ」
「二時のプールはもう間に合わないよ、次の回まで待とうぜ」わたしは歩道の縁石に腰をかけながらのんびりとした口調で言った。
「プールじゃなくて、橋に行こう」
「いいよ、ここで待てば。スミは必ずここを通る」
わたしたちが押し問答をしていると、住友がアロハシャツに白いピチピチの短パンでバッグを肩に掛けチューインガムを噛みながらやってきた。
「おーい、お二人さん何もめてんの」
「スミ遅いぞ、テメーのんびりした顔して」クジラはわたしに責めたのと同じようなせりふを住友にもぶつけた。
「怒るなよ、クジラ。じゅんだって遅れたんだ、いいだろ」住友はわたしより反省していなかった。「それに、オレ昼めし食ってないんだから」クジラの叱責を無視して続けた。
「二時間も待たせたくせに、でかい顔しやがって!」待ち時間は倍にふくれあがっていた。
「おまえなあ、少し遅れただけなのに、物事大げさにする悪い癖なおせよ」
「悪い癖って、何のことだよ?」
「こないだ、クジラんちの床下に大トカゲがいるって言っただろ。行ってみたら背中が銀色の小さいトカゲがチョロチョロしていただけじゃないか」住友は右手の人差し指と親指で五センチぐらいの幅を作って見せた。
「おまえが見たのは子供のトカゲだよ、でかいのもうじゃうじゃいるさ。つまらないこと思い出すやつだ。何時間も待たせたくせに、話にならねえよ」クジラは大いに憤慨していたが、いつになく余裕があるようにも見えた。
「オレも腹ぺこだ。そこで菓子パンでも買って食おう」わたしが住友に言った。実際、相当に腹が減っていたことは確かだ。
「オレはメロンパンだな」住友が言った
「じゃあ、オレはコッペパンにピーナッツバターにするか」
「ことの重大さをわかっちゃいないよ、おまえら」
「クジラ、おまえは何にする? お詫びにおごってやるから」わたしはクジラに少し同情して供応を申し出、近くにあるパン屋に促した。
「あーのどが渇いた。冷たい牛乳ものみたいな」住友がのどをかきむしりながら言った。
「スミ、メロンパンに牛乳か? すかしやがって、オレは何たって飲み物はラムネだな」
「おまえら、買い食いはいけないんだぞ」クジラはわたしの予想に反して食い物の話には乗ってこず、二人の会話に反対の立場で割り込んできた。
「買い食いじゃないよ。昼めしだよ」
「ともかく、そんなものいいから来いよ。おまえらたまげるぞ!」
「慌てるなって、夏の午後は長いんだから」住友は宥めるように言ってパン屋の方に歩き出した。
「めしを食って、一息ついて、四時の回から泳ごうぜ」何を言っても聞かないクジラにわたしが提案した。
「ともかく暑くてたまんない、日陰に行こう」と住友が言った。
そして周囲を見回したが、太陽はまだ真上に近く手頃な日陰は目に入らなかった。
「だから、プールどころじゃないって! イッセンバシがすごいんだ」クジラはわたしの半袖開襟シャツの裾をつかんで走り出そうとした。
「やめろよ、行くから、わかったから」わたしは袖をつかんだ手を振り払った。暑さと空腹のせいかクジラのしつこさに嫌気がさしてきた。どうせたいした話じゃないくせに、いつもの思わせぶりが始まったと思った。
「じゃあ、もったいぶらないで、最初からちゃんと話せよ」
「昨日の大雨でさ、大変なことになってるんだ」クジラが喋り始めると住友が口を挟んだ。「昨日の雨でプールがあふれて入場禁止だとか?」
「プールに水があふれて、どうしていけないんだよ」わたしは笑いながら言った。
「橋が大変なことになってるんだ。おまえらだって目を回すよ」
「また、誰かが線路に降りて駅員に捕まったのか?」住友が少し真剣な顔をして訝りながら聞いた。
「オレ、十三年生きてきたけど、こんなに驚いたの初めてだよ。ほんとに別の景色になっちゃったんだ」クジラは口を横に広げ、目をまぶしそうにしかめながら同じ意味の言葉を繰り返した。
「わかった、わかった、最初から説明してくれ」住友がクジラの肩に手を回し、事故にでもあって怯える被害者を警察官がなだめるように話しかけた。
「だから、きのうの雨でイッセンバシの崖が崩れて・・・」
クジラは野球帽のひさしを後ろにしてかぶっているので、汗まみれの額には容赦なく日差しが照りつけていた。鼻の汗玉は限界を超えて形を崩し、したたり落ちていた。
「大雨で橋が流された?」わたしが仰々しく言った。
「山手線の線路が川になったってか」住友がわざとらしく目を丸くした。
「まさか、ふざけるなよ」クジラがまた口をとがらせた。
「イッセンバシ、フォーリンダン、フォーリンダン、フォーリンダン」住友がいきなり声変わりの始まりかけのテノールで歌い出した。
「昨日の雨で山手線が止まってるっていう話はまだ聞かないよな、じゅん」住友がわたしに同意を促すように、そして思いっきり不思議そうな顔を作って振り向いた。
「ああ、ぜんぜん聞いてない」
「電車は動いているけど、崖が崩れて橋のたもとから大塚駅のホームまでがつながっちゃってるんだよ」クジラが言った。
「じゃあ、山手線にただで乗れる?」住友が言った。わたしもまだクジラの話は信じられなかったが、もし崖が崩れたのだとしたらおもしろいと思った。
大塚駅の周囲は、ゆるやかな丘に囲まれている。巣鴨側では線路は土手の上を走り、高架になっている。逆に池袋方面へは丘陵の切通しの形で潜るように進み、いくつもの陸橋が架かっている。線路は平坦だが、その両側の道路は丘に沿ってなだらかな上り坂になっていた。
駅から空蝉橋に行くには、南口の改札を出て坂を上がっていけばよい。線路は池袋に向かって左側の二本が貨物用、右側の二本が山手線用だった。空蝉橋の南側の袂から貨物の線路までは急な崖になっている。道路には簡単な柵があり、崖を下って線路に降りられないように防護されていた。しかし、子供たちは柵の一部を壊して通り抜けられるようにしていた。目的は崖の途中に穴を掘って基地を作って遊ぶことや線路に沿って続く側溝に生息するザリガニ釣りだった。
ときおり線路に侵入した子供たちが駅員に捕まり、学校で朝礼の時に厳重注意がされることがあった。わたしたちも何度か柵をくぐり抜け崖を降りてザリガニ釣りをしたが駅員に捕まるようなへまはしなかった。側溝でのザリガニ釣りだけで、線路に入ることがなければ駅員たちもそれほど気にしてはいないようだった。ザリガニの体は赤みを帯びた暗緑色で、体長一〇センチほどあった。捕まえようとすると後方へいざる性質がある。捕ってきて水槽で飼ったこともあったがあまり好きにはなれなかった。
空蝉橋は豊島区内にあるが文京区からも近い。ちょうど区境であり豊島小学校と文京小学校の学区の境でもあった。橋の周辺には神社、公園、区民プールが集中してわたしたちの遊び場でもあった。橋梁そのものは遊び場であるはずもないが、橋の上でぼんやり山手線の行き交う様子や、大塚駅ホームの乗客の乗り降りを眺めていたり、並行して走る貨物線路を通る列車の台数を数えたりした。貨物列車は滅多にお目にかからないので、走行に出くわすと何故かとても嬉しかった。ましてや登りと下りが同時に行き交うのに出会うのは一年に一度あるかないかである。そんなときは「きっといいことがある」と流れ星に願うようにお祈りをした。霊柩車が通ると反射的に親指を中に入れてグーをするのと同じように、貨物が通ると本能的に橋に走り寄って台数を数え出した。列車の連結台数はだいたい四〇から五〇だった。たいてい搬送している荷物は石炭、重油、砂利とか材木だった。たまに馬や豚が乗っているのを発見するとわたしたちははしゃいで大いに盛り上がったものだった。
「イッセンバシの崖が崩れて、土がむき出しになって。行ってみればわかる」クジラはだんだんムキになってきているように見えた。
「へー、すごいなそれ。でも昼めしが先だ。腹が減って死にそうだよ」わたしが言った。
「そうだ、めしだ、めしだ、昼めしだ」住友も賛成した。
「おい、聞けよ、それだけじゃないんだ」クジラは急に背中を丸めると小声になってあたりを気にした。「土砂の中にすごいもの見つけたんだ」クジラが続けた。
「なんか出てきたのか?」わたしが訊いた。
「去年、埋めたセキセイインコの屍か?」住友が古い話を持ち出した。
「人間の死体とかならびっくりしてやるよ」わたしは他人事のように言い、早く空腹を抑えることとプールに行くことばかりを考えていた。
「まさか」クジラは肯定しなかった。
「だって、このあいだ世田谷で学校の帰りに小学一年生が誘拐されたってゆう事件があったじゃないか、オレあの子どこかで殺されて埋められていると思うんだよな、こわいなー」住友は両手で耳を押さえ天然パーマの髪を振り乱しながら怖がって見せた。坊ちゃん刈りのわたしも刈り上げのクジラにもまねできないポーズだった。
「ばかやろ、そんなことあるわけないだろ!」クジラが住友の奇想天外な発想に本気で怒りだした。
「クジラ怒るなって、いつものスミの悪い冗談なんだから」わたしは薄ら笑いをしながら言った。
「まあいいけど、度が過ぎるよ。スミが口を挟むと話が全然進まない」
「それで、何が出てきたんだって?」わたしは話を戻した。
「橋の上で崩れた土砂を見ていたら、ピカピカ光る物があったんだよ」やっと話に乗ってきそうな気配に安心してクジラは得意になって話し出した。
「わかった、このあいだ立川基地から盗まれた拳銃だ」住友がこのあいだの新聞記事に載っていた中学生による窃盗事件の話を持ち出した。
「てめー、ふざけんなよ」
「はいはい、わかりました。鯨岡君、つづきをどうぞ」住友が慇懃に謝った。
「ブリキ缶だよ!」クジラはさらりと言い放った。
「なんだ、ごみか」住友はがっくりと肩を落とす仕草をみせた。
「でも、中に何が入っていたと思う」興味を引かせるような上目遣いでクジラが問いかけた。
「がらくた、廃棄物?」わたしが常識的に答えた。
「クソ、ゲロ?」住友は中村錦之介のような端正な顔をしているくせに相変わらず言葉は品がなかった。
「まだ全部開けてないから、よくわからないけど、いろいろおもしろい物がありそうなんだ」クジラが言い訳しているように言った。
「だから、たとえば何があったのさ?」わたしと住友が同時に言った。
「野球カードとか、メンコとか、ベーゴマとか他にもいろいろあるみたい」クジラは頭の中でひとつひとつ思い浮かべ確認するように宝物の中身の品物を挙げていった。
「あるみたいって、それ今どこにあるんだよ」
「橋の下の草むらにあるよ。誰か探しに来ると行けないから隠し直したけど」
それを聞いて住友はクジラより先に駆けだした。たぶんどこかの子供たちが隠した宝物に違いない。わたしもすぐ後に続く。それを見てクジラは慌てて後ろからついてきた。野球カードはその頃人気がありわたしも集めている最中だ。住友はベーゴマが得意で自宅の菓子箱にいっぱい集めて持っている。ベーゴマは背が低いほど強いがひもを巻くのに技術が必要で、わたしたちの間ではかなり高度な遊びだった。クジラはメンコを集めるのが好きで自宅に何百枚も持っていた。自分のメンコを地面にたたきつけ相手のメンコをひっくり返すだけの単純なゲームだ。写真や絵によっては人気があり、収集の対象にもなっていた。
退屈だった夏休み前の数週間がとたんに楽しくなりそうな予感がした。
2
その年はカラ梅雨とかで、夜になってほんの少しのお湿りはあったものの、まとまった雨はほとんど降らなかった。六月も下旬になると気弱な雨期も去り、雨雲を見る日は完全になくなった。真夏のような暑さが始まり「いままでの気象観測記録をぬりかえる猛暑」とか「一ヶ月早い真夏の訪れ」とかの見出しが新聞紙上に見るようになった。学校ではクラスの教師が節水についてうるさく言い始めていたし、このまま雨が降らないと近々断水があるという噂も流れていた。当時はエアコンもなく、涼を取るには扇風機に顔を近づけるか、日陰で休むか、デパートに行くぐらいのことしか考えられなかった。放課後、学校帰りのわたしたちは照りつける陽射しからどこにも避難する場はなく、憔悴するからだをもてあまし乾燥して疲れ切ったナメクジのようにのろのろと進んだ。アスファルトの溶けだした道路を足を引きずりながら、冗談を言う気力も失い帰宅する毎日が続いた。背中に汗を呼び込むランドセルは午後の太陽で焼き付き輝きを失っていた。
ところが七月に入ったとたん、これまでは西日本だけだった集中豪雨が関東地方に移ってきたのだ。雨の降り始めには大人たちも「ちょうどいいお湿りだ」などと言っていたが、いつまで経っても雨は降り止まなかった。恐れていた集中豪雨が週末の東京を襲った。木曜日の朝から金曜日の夜まで大雨は続いた。一部地域での浸水のため金曜日の授業は四時間目で急遽中止となった。わたしたちは喜びのあまり狂喜の雄叫びをあげた。学校は高台にあったが校舎の玄関が一時的に浸水した。校内の雨水のたまった場所を通過するため平均台が持ち出され、帰宅する生徒たちは順番にその上を体操の授業のときにするように両手を伸ばしバランスを取りながら渡った。観葉植物のゴムの木も鉢が水に浸かり、雨期のジャングルを探検している気分に浸れた。わたしは一回渡っただけでは物足りず何度も平均台の上を往復した。たぶんこれは小学校生活でもっとも楽しい体験のひとつだ。それにその夜は変電所への落雷のため長い時間の停電があり、ろうそく生活ではわたしの作ったトランジスタラジオが役に立った。雨は夜まで続きその影響で大塚駅の近くの陸橋で崖崩れが起こった。
次の土曜日は、前日の授業中止騒ぎが信じられないほどの見事な晴天でいつもの猛暑に戻ってしまった。
そのときわたしは六年生で小学校最後の夏休みを迎えようとしていた。わたしは今でも橋のたもとに立ったそのときの光景が忘れられない。いつもは緑に覆われた急斜面がチョコレート色に変わっていた。目の前に崖崩れの土砂が広がっていたのだ。それまで見たこともない広大な荒れ地だった。
山手線の線路にかかる空蝉橋はしっかりと架かっていたが、川底のような橋の下を走る南側の崖が崩れ、橋から大塚駅のホームに向けてスキー場の中級コースのように傾斜が緩やかで幅広い斜面ができていたのだ。災害の前、崖は三角定規の鋭角で急な一辺であったが流された後は、もう一辺の緩斜面に変わっていた。崩れた土砂は線路に向かって流れており、先端はかろうじて貨物線の線路の数メートル前で止まっていた。線路近くには進入防止用の簡単な柵が設けられていたが山手線と貨物列車の運行には障害を与えていないようだった。崩れたばかりの焦げ茶色の土はむき出しで、まだ水気を帯びていた。橋の上から見下ろすと幾筋もの水が流れた跡がくっきりと見えた。
「川の跡だ」住友が叫んだ。
「転んだら下まで一直線だな」わたしが言った。
「よく滑りそうだ、段ボールとかがあるとおもしろいな」クジラはすぐに新しい遊び方を考えた。
「おりるぞ!」クジラが珍しく威嚇するような鋭い号令をかけた。
わたしと住友はクジラに案内されるまま立入禁止の立て札を無視して崩れた崖の上に立った。上から見ると斜面は遠目よりきつく見えた。しかし崩れる以前は草木の根につかまらなければ降りられないほどのもっと急な崖だったので、それを考えると適度な斜面であった。最初にクジラが腰を落として降りはじめ、続いてわたし、住友の順で進んだ。雨水が通過してできた、まだぬかるむ小道に足を取られながら、転ばないよう注意深く歩き、数分かかって土砂崩れの影響を受けていない橋の下の草むらまで降りた。橋の下には明らかに何か隠されているようなもっこりとした草の塊が認められた。「草をかぶせて、ここに隠しておいたんだ」クジラはそう言うと、覆い隠した草をはねのけた。そこには、小学生が一人で抱えてやっと持てるほどの大きさのブリキ缶が横に寝かせてあった。
「開けて見ろよ」住友がいった。
「もっと橋の隅に移そう、崖の上から丸見えだ」わたしたちはブリキ缶を橋の根本の日陰まで移動して中身を確認することにした。
ふたは簡単に開いた。クジラのいったとおりブリキ缶の上部にはメンコ、ベーゴマ、野球カードが無造作に押し込まれていた。その下にはタバコのピース缶にガラスのビー玉がぎっしりと詰められてあった。それにタバコとライターがビニール袋に包まれて出てきた。「しんせい」「ゴールデンバット」などの安物に混じって「キャメル」「ラッキーストライク」の外国タバコもあった。次にでてきた戦利品にわたしたちは歓声を上げた。新聞紙に何十枚も巻かれてブリキ缶の中に納められていたのは切手帳、マンガ雑誌、ヌード雑誌だった。切手帳にはかなり高価な古い切手類が収められていた。皆で中を覗いてため息をついた。
「切手趣味週間の『ビードロを吹く娘』があるよ」
「百円で売れるな」
「もっと価値があるさ」
「おい、これ見ろよ」住友がそう言って「ヒュー!」と口笛を吹いた。若い女性のヌード写真がたくさん載っている雑誌をぱらぱらめくっている。
「すげえぞ。オレ、おっ立ちゃうよ」住友が言った。クジラもわたしも少し顔を赤らめたが同調した。わたしはその頃その手の写真は興味があったが苦手だった。とても面倒なような気がしたし、他におもしろい遊びはたくさんあったからだ。でも住友はそうではないらしい。
「これオレがもらうからな」住友がヌード雑誌を持ち帰ることを勝手に宣言した。
「スケベなやつだ、勝手に持っていけ」クジラが言った。
「スミ、それ家のどこに置くんだよ」わたしが住友の強引さにうんざりしながら訊ねた。
「安心しろ、オレのうちは広いんだからどこにでも隠せる、見終わったら、じゅんにも貸してやるから心配するなって」住友は自信たっぷりだった。
「そんなもん、いるもんか」わたしは恥ずかしさを隠しながら貸してもらうのを断固拒否した。
「おい、おまえら、ちょっと言っとくけど、これはオレが見つけたんだから。持ち出すのはオレの許可がいるからな」クジラが心配そうに言い出した。
「こんなにおまえ一人で持っていてもしょうがないじゃないか、まあ、みんなの共有財産ということで、オレたち仲間だろ」住友が聞いたこともない、猫なで声をひっくり返したような声で言った。
「ともかく、勝手な行動は許さない!」クジラが普段の様子には似つかわしくないキッパリとした言葉遣いで宣言したのでわたしは笑いそうになった。
「ああ、みんなで相談しながらやろうぜ、クジラちゃん」わたしはクジラが安心するように、そしてわたしたちが冷静さを取り戻すように言った。しかし、住友がいちばん底にあった油紙で包まれた塊を取り出し、キャベツの葉をはぐようにして中を開けると、わたしたちはもう一度歓声を上げた。しばらくして口の中にわき出して来たつばを二度三度と飲み込んだ。そこには万年筆、腕時計、ネックレスやブローチのような貴金属がメリヤスの白い布にくるまって丁寧にしまってあった。
「万年筆なんか、十本以上はあるぞ」クジラが叫んだ。
「おい、みせろよ」クジラから一本もらい、手に取ってみると重量感がある外国の製品だった。刻まれているマークから推測するとドイツのモンブランだと思った。以前からほしかった製品だった。腕時計も数個あった。本物かどうか計り知れないが、これも外国製のようで周りには金色の縁がまぶしく光っていた。
「オレ、これ一本もらうぞ」万年筆を取り上げてわたしが言った。
「オレは時計、三つ持ってくわ」クジラが言った。
「じゃ、オレもあと二本」わたしは万年筆を取って開襟シャツに押し込んだ。三本の万年筆は胸ポケットにずっしりと重かった。
「ちょっと、変だな」住友が言った。
「うん、子供の収集品にしては、ちょっとな」わたしも変だと思った。
「高級すぎるな。盗品かも知れない」住友が続けた。
「窃盗団の隠した物?」クジラは少し怯えるようにひそひそ声で言った。
「十分に、ありうるな」わたしも同意した。
「開けーゴマ!」住友が急に大きな声を挙げたのでクジラがドングリ眼をさらに丸くして仰け反った。
「おい、つまらないこと言ってないで、この後どうするんだよ」わたしが言った。
「今日はプールどころじゃないな」クジラが冷静さを取り戻しながら言った。
「そんなのわかってるよ、ともかく見つかるとまずい」と住友。
「見つかるって、誰に?」
「四〇人の盗賊」真面目な顔で住友が言った。
「ばか、いまごろそんな奴らいるもんか」クジラが真に受けて間抜けな返事をした。
「盗賊がメンコとか集めるわけないよな」
「じゃあ、誰が隠したんだよ?」
「わからない、でも子供だと思うよ。この崖に埋めて隠そうなんて発想は子供しか浮かばない。大人じゃできない。だろ?」住友は自分の推理を披露した。
「じゃあなんで、時計とか万年筆があるの?」クジラが訊いた。
「まあいい、どこかこれを運ぼう、じゅんおまえの家近いから隠しておいてくれよ」住友がクジラの質問をかわして、わたしにとんでもない要請をした。
「冗談じゃない、いやだよ。親に見つかったらなんて答えるんだよ」わたしははっきりと断った。
「それより住友、おまえのうち広いんだろ。隠しておけよ」わたしはすぐ切り返した。
「でも、兄貴と一緒だし。やっぱりまずいな」住友も宝のお土産にはもてあましているようだった。わたしと住友はクジラに目を向けた。訊く前にクジラが喋り出した。
「こんなに重い物どうやって持っていくんだよ。目立ってしょうがない。きっと誰かに見つかるのがオチだよ。それより、近くに埋めて隠そう」
結局その日は、橋の下に縦穴を掘ってブリキ缶を隠し、また後日安全な移動場所を考えることになった。穴を掘るために、わたしは家までシャベルを取りに帰り、三人がかりでずいぶん時間をかけてブリキ缶がすっぽり入る大きさの穴を掘った。
「たぶん水害はもう来ないと思うからだいじょぶだろう」
「ここは橋の下だし雨も防げる。絶対流されないよ」
わたしが万年筆と野球カード、住友がベーゴマをポケットに詰め込めるだけいっぱいとヌード雑誌、クジラは腕時計と切手帳を持って引き上げることにした。その日のプール遊びは延期になった。わたしと住友は昼食を取り損ねたことはすっかり忘れていた。
強かった陽射しはもう西に傾いて弱々しく照り返し、橋の下を抜けていく風が火照った体に気持ちよかった。
「じゃあまた明日ここに来よう」
「うん、宝を何処か安全な場所に移そう」
「おいクジラ、独り占めしようなんて考えるなよ」
「何言ってるんだ、オレが最初に見つけておまえたちに教えてやったんだろ。おまえたちこそ変なこと考えるなよ」クジラが反論した。
「これは三人だけの秘密だ。誰にも話すなよ」住友がたいそう偉そうに言った。
「当たり前だろ。それより、隠し場所だ」
「オレもいい場所考えておくよ」そう言ったが当てなどなかった。住友の半ズボンのポケットにはベーゴマがいっぱいつまっており歩き方はがに股になっていた。
3
二人と別れ、手に入れた万年筆と野球カードに満足しながら帰途についた。三本の万年筆の重みはものすごく、シャツの胸ポケットを大きく広げていた。見つからないようにズボンのポケットにしまい直した。
わたしの家は橋からは近かったが学校からは最も遠く校区の辺境の商店街にあった。商店街はかなり大きくて百店以上が集まっていた。シャーロックホームズがロンドン・ベーカー街の店舗を隅から隅まで覚えていたというのを聞いて、わたしは毎日、学校からの帰り道に歩いて通る店の順番を記憶にとどめる遊びをしていた。順路は布団屋から始まって菓子屋、八百屋、延々と続き花屋、靴屋、水道屋、肉屋、中華料理店、パン屋、貸本屋、乾物屋そして自分の家の洋品店で終わった。わたしの家は商店街の中でもかなりに繁盛していた店だった。父親はわたしが小学校に上がる前に亡くなり母親一人ですべてを切り盛りしていた。母親は洋品店の仕事に忙しくわたしにかまうことはほとんどなかった。だからたいていのことは自分で始めて自分で解決した。そんなに難しい問題はなかったし、あっても仲間か先輩に相談すれば何とかなった。まあ、学校生活以外の大半の時間を自分の自由に使えることに満足していた。母親の生活力にはいつも驚嘆しながら感謝し尊敬もしていた。いろいろなものが欠けてはいたが、十分に満ち足りた日常だった。
商店街には小学校同窓生の店もたくさんあった。高校生の先輩の良ちゃんの家は乾物屋だった。おばさんが店をやっていて毎朝早くに河岸へ買い出しに出かけていく働き者だった。並びの國ちゃんは布団屋だ。商売上手という感じですべてに如才なかった。我が家の隣は中学生の健ちゃんの家で、この辺では珍しいサラリーマン家庭だった。健ちゃんは親父さんと二人暮らしで、わたしと同じ片親同士のせいかとても親しくしてもらい毎日のように出入りしていた。近くに嫁いでいる姉の珠恵さんが健ちゃんの母親代わりだった。留守がちの親父さんに代わってずっと弟の世話をしている。珠恵さんは忙しい母親にかまってもらえないわたしを見かねて「もう一人の弟みたいなものだから」と言い面倒もよく見てくれた。
よく通ったのは布団屋の隣の貸本屋で、年のいった夫婦が運営していた。オヤジはいつも機嫌が悪く子供たちを客とは思わず馬鹿にしていた。おばさんは、メガネをかけた色っぽさのみじんもない乾燥芋みたいな人で何もかも事務的だった。よっぽど世の中おもしろくないのだろう。こちとらそんなことは関係ないので借りたい本を借りてさっさと引き上げてくるのが常だった。
パン屋のねえちゃんはたぶん訳ありだと思った、一度結婚したはずだったがまた戻ってパン屋の手伝いをしている。パン屋は育った家なのだが居心地が悪そうだった。わたしには優しかったが、大きな涙が落ちそうな目で「いらっしゃい」と言う声もか細く出戻りの悲哀をよく表していると子供心に感じた。
花屋ではどういう訳か卵を売っていた。お使いで店の卵を買いに行くとおばさんはいつも食事中だったのか口をもぐもぐさせて店に出てくる。そして花など買ったことがないのに「じゅんちゃん、今日は何の花にする」と子供にも愛想が良かった。
炭屋と氷屋を兼ねたおやじさんはいつも店前の道路で作業をしていて、学校帰りに声をかけるので嫌いだった。「テストどうだった?」とか「運動会どうだった?」と顔を見ればいろいろ聞いてくる。落語をやらせたらさぞ上手そうに思える志ん生ばりの江戸弁で「あすんでばかりいるなよ」が口癖だった。
八百屋は比較的あとから引っ越してきた、おやじは阪神タイガースの村山実にそっくりだった。あまり言葉を交わしたことはないが、話す関西弁にはものすごい違和感があった。ねじり鉢巻きでせっせと働いていたが、賭事が好きで借金が相当あるという噂だった。うちの母親も金を貸したきりまだ返してもらえないと言っていた。
数件先のお菓子屋もあっという間に開店と思ったら、いつの間にかいなくなってしまった。女将さんはいかにも商売の素人というような中年の美しい女性だったが、二号さんだという噂だった。わたしにはとても親切でお菓子を買いに行くとたくさんおまけしてくれた。開店してしばらく後、本妻らしき人が来て店の前で大きな声で喧嘩をしていた。家に帰り母親に何の騒ぎか聞くとほっときなさいと何ともそっけない返事であった。子供のわたしでも明らかに長く続かないとわかるお店であったがすぐ店をたたみ、そのあとに鯛焼き屋が入った。鯛焼き屋には同じ年頃の子供がいたが、案の定、校区が違うのでほかの小学校に通っていた。三人兄弟がいてよく遊んだが、泣かせてばかりいるから遊ばないでくれと言われ長いつきあいにはならなかった。また、そこも数ヶ月で転宅し異なる店舗に変わった。
第三章 隠し砦を探せ
1
日曜日の午後、わたしたちは宝物を移動するためにまた空蝉橋に集合した。空は熱風を降り注ぐ青天井に戻り、集中豪雨の痕跡はすっかり姿を消していた。水害を免れた雨後の雑草は緑の深さを増し、陽射しはますます強くなるばかりだった。
橋の崖崩れ現場も様子が変わっていた。崩れた土砂は深いチョコレート色からほこりっぽい薄茶色に乾きあがり、土砂が流れた崖下と貨物線路の間にあった数メートルの水たまりは半分ほどの大きさに縮まっていた。崖崩れの直後に見た荒涼とした風景は消え去り、柔らかそうな斜面と小さな水たまり、その近くを貨物列車がゆっくりとかすかな音を立てて進んで行く。優しく変化に富んだ広い坂だった。
崖滑り、鬼ごっこ、戦争ごっこ。
子供にとっては格好の遊び場で、見るだけで胸が高鳴った。
子供たちがこれを見逃すわけはない。その日はたくさんの小学生が白泥の斜面をダンボールやベニヤ板を尻に引いて崖滑りを楽しんでいた。斜面には雨水の流れた跡がまだ幾筋も残っており、その水路を滑り台にしたり、穴を掘ったりして秩序よく遊びに興じていた。そこは公園の遊具より何千倍も魅力がある場所に見えた。
復旧工事の工員たちは立入禁止の立て札を崖のてっぺんに打ち込んだだけで引き上げて行った。大人たちは、崖崩れ現場で遊んでいる子供たちを見てみない振りをするか、眉をひそめるかして通り過ぎた。時々「おい、ここは立入禁止だぞ、看板が見えないのか」と言って追い出そうとしたが、子供たちはかまわず遊んでいた。斜面は貨物線路近くまで延びていた。線路に近づくと駅員に注意されるのはわかっているので申し合わせたように崖の斜面だけで遊んでいた。
わたしたち三人は橋下の宝の隠し場所に行くため、落ちているダンボールを拾い上げ崖を滑り降りようとした。そのとき、住友が器械体操を始めるように両手を横に広げわたしとクジラの進路を遮った。
「おい、様子がおかしいぞ」住友が体の大きい子供とその一群を指さした。
「あいつら何やってるんだ?」
「何か探しているようだな」
豊島小学校の六年生のグループだった。あたりかまわず遊んでいる小学生を捕まえては何かを問いただしているようにも見える。崖の土を竹竿でつついて何かを探しているやつもいた。遊ぶわけでもなく何かを物色しているようで異様に目立っている。全員で四人のグループだった。
体の大きいイガグリ頭はわたしの家の近くに住んでいる小川ミチヒロだった。小川は「おすもうさん」と呼ばれていて身体が大きく、そのままで相撲部屋の序二段という外見だった。おすもうさんは、わたしと同級で小学校にあがる前は小さく弱々しかった。喧嘩でもわたしの方が勝っていた。性格もおっとりして親しく遊んだが、校区の違う小学校に分かれて進んでからはほとんど言葉を交わすこともなくなっていた。近くの柔道場に通い出してから、身体が大きくなってきて喧嘩も強くなり強面の雰囲気が漂ってきた。
もうひとり崖下に見え隠れしていたのは、長谷川哲夫で「てつ」と呼ばれている。父親が製紙会社の社長で金持ち、性格は小川と正反対で神経質のように見えた。角刈りの頭で鋭い目つきをしている。
崖の土を竹竿でつついていたのは、細面に消え入りそうな薄い眉毛の玉木だった。商店街のソバ屋の息子だ。幼少時に事故でソバの湯を全身にかぶり大火傷をしたという悲劇的な話を聞いたことがある。そのためか夏でも長袖のシャツを着て腕だけまくり上げていた。
長谷川に寄り添うように一見低学年に見える黒縁メガネのちびがいた。いろいろ命令されているようだった。たぶん長谷川の子分に違いない。細々と動き回っているが、彼らと嫌々行動を共にしているとしか考えられないほど精彩がない。まあこいつは、わたしたちにとってどうでもいいやつだ。
彼らは崖の上に佇んでいるわたしたちを見つけるとこちらに向かって来た。先頭は小川で、身体の大きい割には俊敏な動作で崖を一気に駆け上がり息を切らしながらわたしに話しかけた。
「しばらくだな、じゅん、何しに来た?」横柄で脅すような態度で訊ねた。
「いや、ちょっと」すこし気圧されてわたしは答えた。
「ここは、おまえらの縄張りじゃないよな」
「別にどこで遊ぼうがオレたちの勝手じゃないか、それともここは豊島区民専用で崖を降りるには入場料でも取るっていうのかい」わたしは弱気になるまいとして一気にまくし立てた。
「おまえら、ここへはよく来るのか?」
わたしはいやな予感がした。普段彼らとは町で行き交うこともあるが、それまではお互いに何の干渉もしなかった。だいぶ以前の先輩の時代には学校間で大きな喧嘩もあったと聞いていた。現在は沈静化しておりお互いにそれほどいがみ合う問題を抱えているとも思えなかった。それがこの突っ張り方は何なのだろうかと思った。
「よく来るのかって、聞いてんだよ」考え込んでいると小川が声を荒げて繰り返した。
「ぜんぜん、来ないよな」わたしはキッパリと否定して、念を押すように住友とクジラに目で合図した。
「今日が初めてだよ、崖崩れがあったって聞いたから様子を見に来たんだ」住友がさらりと穏やかな口調で言った。その言葉を遮ってクジラが割り込んできた。わたしは少し面食らった。
「いや、よく来るよ、どこで遊ぼうとかまわないだろ、この場所だってオレたちの方が早く見つけたのさ、おまえら何が言いたいんだよ」クジラはわたしの意図とは正反対のことを喋り始めた。わたしは会話をクジラにも振ったことに後悔していた。クジラの鈍感さをすっかり忘れていた自分を呪った。クジラの言葉は彼らに大いに興味を持たせた。
「じゃあ、昨日も来たってことか」
「ああ・・」クジラが言いかけたとき住友が割って入った。
「いいや、さっき来て、ここのいい場所オレたちが先にみつけたのさ」
「つまり、滑るのにいい場所ってことさ」わたしが付け加えた。
「それだけか?」小川は疑り深い目でわたしたち三人を順番に見ながら聞いた。
長谷川、それにソバ屋と黒縁メガネも崖の上に駆け上がってきてわたしたちの周りを取り囲んだ。
「おまえらこの辺で、何か拾わなかったか?」長谷川が訊いた。
「なにも」今度は自分だけで答えることにした。
「てめえら、ウソついたらぶっ殺すぞ」ソバ屋が持っていた竹竿の先端をわたしの鼻先に突きつけてすごんで見せた。泥は乾いた埃の臭いがした。
「だから、崖を滑りにきただけだっていったろ。しつこいなあ」わたしは相手の挑発に乗らないようにゆっくりと話し慎重に反応した。
「一年生と一緒にお滑り遊びかい?」長谷川が意地悪そうに聞いた。
「なにい!」クジラがいきり立って言い返そうとしたのを住友が直前で制止した。
「ああ、これから崖で滑って遊ぶのさ、何が悪い?」冷静に住友が言った。
「おまえたちにゃ、似合ってる」
「まあいいや、せいぜいケツの穴に石ころ詰めないように気を付けな」
「早く帰れよ、母ちゃんが迎えに来るぞ」黒縁メガネのちび以外は口々に悪態をつきながら彼らは崖の下に戻っていった。
2
豊島小グループはずっと崖周辺を動き回っていた。奴らのせいでわたしたちは宝を隠した橋下には近づくことができなかった。
「どうするんだよ」住友がいらつきながら言った。
「今日はどうしようもない。あいつらがいなくなってから行動するしか仕方がないじゃないか」わたしはその日に宝を持ち出すのは難しいと判断した。それに新しい隠し場所もまだ決まっていないのだ。
「オレ思うんだけど、あの品物あいつらのものじゃないかな」住友が言った。
「何か探しているような仕草だったし、遊んでるチビたちにしきりに大きな箱を見なかったかって聞いていたぞ」クジラが腕で額の汗を拭いながら言った。
「たぶん間違いないような気がする」わたしも同調した。
「奴ら、なんか必死だったよな」
「だったら早くブツをどこかほかの場所に移そうぜ」
「ブツか、やくざみたいだな」クジラが嬉しそうに言った。
「橋の下じゃ見つかるのは時間の問題だ」
「でも、穴はしっかり掘ったしカモフラージュも万全だ」クジラは自信ありげに言った。
「じゅん、あそこはどうだ?」住友がわたしに訊いた。
「あそこって?」
「ゴーグジの縁の下」ゴーグジとは護国寺のことで文京小学校の隣にあって、境内は通学路でもあった。
「あそこは小学生がたくさん通るし、隠し場所にしているやつは多いからやめた方がいいと思うよ」クジラがわたしの代わりに答えた。
わたしたちは護国寺の境内にある本堂の縁の下を物置代わりに利用していた。本堂の縁の下は鉄柵で囲まれており進入できないようになっている。直径一センチ以上ある鉄棒はどうしようもなく頑丈そうに見えるが、上下にがたつきがあり引き上げてから横に力を掛けると簡単に抜けるものがいくつもあった。わたしは持ち帰ると面倒な工作の残骸や、野球のグローブ、古くなった靴、自分で作ったトランジスタラジオ、メンコとかを隠しておいた。もちろん仲間はみんな知っていてそれぞれの持ち物を秩序よく配置していた。生徒の多くはこのことを知っていて適当に利用していた。だからそこは安全な場所でもなんでもなかった。それに大事なものを置いておくと「おけいちゃん」が持っていってしまうという噂があった。おけいちゃんとは子供たちがおそれる護国寺の墓場の住人である。めったに姿を現さないが、恐ろしい怪獣のような顔で、子供に悪戯するという話であった。
わたしは一度だけおけいちゃんを目撃したことがあった。墓場から下りてきたのだろうか、学校近くの通学路の真ん中に寝転んでいた。下校時間だったため、大の字に寝ている大男の周りを生徒たちが遠巻きにしていた。酔っぱらっているようでもあり、死んでいるようでもあった。髪の毛はごわごわで、血のような赤いものがこびりついているように見えた。やはり死んでいるのかとそばの子供に聞いたとたん「ゴロッ」と寝返りを打った。取り囲んだ生徒の輪はいったん大きくなって静まりかえった。そしておけいちゃんが起き上がろうとした瞬間、ワーッと歓声を上げてみなで逃げ出した。わたしもその形相と猛獣が息を吹き返したような恐ろしさでおののき一目散に家まで逃げ帰った記憶がある。
わたしたちは隠し場所のもうひとつの候補を考えた。大塚駅の小さなデパート屋上のメリーゴーランドの下だった。このデパートの屋上の小さな遊園地には頻繁に出入りしており、駅からも近く便利だった。そこは雨にも濡れないし安全な場所だった。わたしは護国寺の代わりにここを推薦した。しかし住友は、夕方六時過ぎると入れないことと機械の整備で作業員が中に入り見つかったら元も子もないということを理由に反対した。
「やっぱ、ゴーグジにしよう」住友が言った。
「だから、安全じゃないよ。みんな本堂の縁の下は知っているし」
「本堂じゃなくて、墓にするんだ」
「気持ち悪いこと言うなよ。穴を掘ったら骨が出てくるぞ」
「おけいちゃんに殺されるぞ。墓で遊んじゃいけないって先生も言ってたし」。クジラもお墓には消極的だった。
「じゃあ、どこに隠すんだよ」
わたしたちのアイデアはそこで尽きてしまった。
「ともかく、今日は橋には近づけそうもないよな」クジラが独り言のように呟いた。
「プールにでも行こう。今日も暑いったらないよ」みんなの意見が出尽くしたところでわたしが提案をした。
「海パンは」
「何も用意してないよ」
せっかくの日曜日だというのに何もやることがなく、わたしたちの最初の期待と勢いは空気の抜けた風船より小さくなった。
「今日は、帰るか」また、クジラがぼそぼそと呟いた。
「まだ早いよ。じゃあ、あいつらが居なくなるまで、ゴーグジで宝の隠し場所を探そう」沈黙を破って住友が勢いよく言った。
「お墓に行くのか?」クジラがめんどうくさそうに言った。誰も強く反対しなかったので、わたしたちは歩いて護国寺まで行くことにした。
3
「夏の墓場って何でこう暑いんだろう」クジラが、藪蚊に刺されたおでこをかきながら言った。確かに、周辺は木陰がなく強い陽射しが照りつけていた。冬場は霜柱を足で散らかして遊んだ場所が、何とも耐えられないほど今は暑いということが感情では理解できなかった。
「大きな墓の方に行こう。ここはしけたヤツばかりで日陰もない」住友がそういいながら墓の周りを囲ってある石の外柵に上った。
「オレについて来い」住友が言ったので、わたしも石の上に飛び上がりクジラが続いた。
石の外柵は高さが子供の背丈ぐらいで両足を並べて立てるほどの幅があった。早足で歩き回り遊ぶにはちょうど良かった。住友が先頭で墓の周りをぐるぐると歩き回った。
「肝試しだ、ついてこられたら、宝物全部おまえたちにやるよ」二、三回周囲を巡ると住友は身軽そうに次の墓に飛び移った。
「あの宝物は、もともとオレが見つけたんだからな」クジラは宝の所有権についてこだわって言った。
墓の間が近い場合はなんともないが、離れていると外柵の間をジャンプする能力の差が現れてくる。いくつかの墓を通り過ぎていったとき、後ろで材木が倒れるような音がした。振り向くとクジラがよろけて板塔婆につかまり、その板きれと一緒に倒れそうになっている。塔婆は立てかけてあるだけなのでつかまっても体を支えるのには何の役にも立たない。クジラはそのまま塔婆をつかみながら外柵から落ちて墓石に体当たりするようにぶつかった。墓石はぐらりと揺れて「ゴゴッ!」という音とともに少し動いた。隙間から墓の中が少し見えたように感じた。転んだクジラは墓の横に倒れて座り、ぶつけた足をさすっていた。
「おい、クジラのうしろにお骨が見えたぞ」と住友が言った。
それを聞いたとたんクジラが「ギャーッ!」と咆哮してわたしたちの方に逃げてきた。
「冗談だって、クジラ落ち着けよ」わたしは宥めたが、クジラの唇が少し青くなっているように見えた。
住友は追い打ちをかけるように「縁起悪りー、クジラの体さわると手が腐るぞ」といって遠ざかった。わたしも住友と一緒にクジラから逃げた。墓に体当たりしたやつなんてウンコを踏んだやつよりましだけれど、言いようのない気持ち悪さがあった。クジラはべそをかきそうになりながらわたしたちを追いかけてきた。
半分からかいながら、半分本気でわたしと住友はクジラから逃げ回った。墓地中を走り回り最後に本当にクジラが泣きそうになったところでわたしは逃げるのをやめクジラと合流した。
突然向こうで「ギャー」という住友の叫び声がした。
住友はさっきクジラが転んだ墓の前で呆然と立ちつくしていた。
「おい、あれを見ろよ」住友がさっきクジラがぶつかった墓の方を指している。それを見てわたしとクジラは仰天した。動いた墓石と板塔婆がきちんと元に戻っているのだ。わたしは死ぬほど怖くて全身に鳥肌が立った。
「これさっきの墓か?」クジラが訊いた。
「ああ、クジラが転んだ跡が残っている」住友がクジラが転んで整った絨毯のような緑苔を踏みにじった跡を指して言った。
「おい、だれかいるのか?」住友が周囲に向かって叫んだ。
「おけいちゃんだ」わたしは呟いた。
「おけいちゃんが来たんだ!」そう叫ぶ住友がにやにやしているのを見て事情を察した。住友が先回りして直したに違いない。そういうヤツなんだ。
「おい、気持ち悪いよ、こんなところ宝物を隠したってみんなおけいちゃんに持って行かれちゃうよ」クジラはそこを一刻も早く引き上げるよう主張し、事情がまだつかめずに周囲をきょろきょろ見回していた。わたしは住友と顔を見合わせてから声を出して笑った。クジラも同調して笑ったが、まだ事情は飲み込めていなかったようだ。その様子を見てわたしはもっとおかしくなり、またクジラのことが好きになった。
4
四年生の時となりのクラスに変な歌を唄うやつがいるという評判が立った。住友がわたしにそいつの歌を聴きに行こうと誘った。となりのクラスに行ってみるとボーとした刈り上げ頭の生徒が教室の掃除をしていた。住友がそいつのそばに行って話しかけた。
「おい、例の歌やってみろよ」といきなり言った。唐突な申し出のためか、状況の理解のためかしばらくの沈黙があったが、表情を変えず歌い出した。
「♪コンミスタ タリマン タリリ バナーナ」
なんとも妙な歌で、メロディがあるのやらないのやら。バナナをバナーナというのが不思議だった。浜村美智子とかハリー・ベラフォンテという歌手が歌っていたらしいのだが小学生が歌っているのを聞いたのはそのときがはじめてだった。その小学生が鯨岡祐二でみんなからクジラと呼ばれていた。
それに彼は授業で使う縦笛を使って何でも吹けるというのだ。わたしたちがリクエストをすると流行の歌謡曲をどんどん立て続けに吹いていった。
ためしに、「ぼくは泣いちっち」「ハリマオ」「東京だよおっかさん」は立て板に水で気持ちが酔うほどの演奏であった。わたしの最初のリクエスト「スターダスト」は出来なかったが、代わりに頼んだ「ダイアナ」は下水道に汚れた油を流すぐらいのなめらかさだが、最後まで演奏することができた。上手ではないけれどもすべて何とかこなしてしまう。音楽のセンスとは無縁そうなこの少年が器用に笛を吹くのをわたしたちは感心して聞き入っていた。
何曲も吹き終わったときわたしたちが拍手をすると、満足そうに歯茎をむき出しにしながら口だけで笑った。縦笛を袋にしまい、また掃除の仕事に戻りながら「今日はサービスだ」といって猫とカラスの声真似をしてくれたがこれも見事な出来映えだった。
掃除当番に戻る後ろ姿を見ると、落花生型で刈り上げた後頭部が十円玉ぐらいの大きさでシミのように薄い金髪になっているのに気がついた。芸達者なやつっていろいろ変わってるんだなと思った。外国の歌も縦笛もかなり変だったが、それに加えて一度見ると忘れられない薄茶色の瞳と、歯茎丸出しの締まらない笑顔が印象的と言うより幻想的だった。
その後、五年生になるときの学級変えでクジラと同じクラスになった。わたしと同じぐらいの背の高さだったため、毎週、朝礼のとき刈り上げ頭の金色いシミを眺めることになった。
クジラは、誰にでも好かれる陽気なやつだが、押し出しのなさが弱点だった。つかんだ物を何にでも鼻を近づけ、においをかぐ癖が品の悪さを表している。しゃくれた顎と張り出したおでこは一見理知的に見えるが、会話をすればすぐに憎めないぼんくらだということがわかる。笑っていいのかどうかわからない冗談を言う。話の中にでてくる数字は大げさでほとんど十倍以上になっている。
クジラの家は裕福には見えなかった。家の中には一度も入ったことがないし家族の話は彼の口から聞いたこともない。ずいぶん年上に見える兄貴と顔がそっくりな弟がいることだけは知っていた。明らかに兄貴からのお下がりであろう縮みあがった開襟シャツとつぎあてのある半ズボンが定番の制服だった。クジラの弟もこれを着せられるのだろうか。一人っ子のわたしには男三人兄弟など想像もつかない世界だった。オヤジさんとは会ったことがない。クジラが小学校低学年の頃に交通事故で死んだと聞いたこともある。
クジラは左利きだった。クラス替えがあり最初に彼の左利きがとてもかっこよく見えた。ところが、勉強のできが悪く担任の教師に指名されて黒板の前に立ち、立ち往生してチョークを左手に持ったまま書こうとして手を上げて止め、上げてはまた手を下ろす。その動作が何とも不憫というか、かっこわるいと言おうか、たどたどしく字を書く左手の手際の悪さを見て、いっぺんにイメージが変わってしまった。助け船を出そうとそわそわしていたら、「木村君、代わってやってみなさい」と言われた。もじもじしていると担任は「早く出てきて!」と急かした。黒板の前に出ていく直前までは俊敏に問題を解いてやろうと思い、軽い足取りで出かけていった。前に出てクジラを見ると真っ赤な顔をして下を向いていた。うなだれて全身で屈辱に耐えている様子だった。それを見てわたしの気持ちは急変した。黒板に正解を書いてはいけないと確信したのだ。仲間意識が彼をひとりにしておけないと思ったのか、友達を失いたくないと思ったのか今でもわからない。ともかく、クジラと同じように手を挙げたり下げたりし、最後にでたらめの数字を書いて、担任の方を振り向いた。担任は、たいそう怒った。クジラよりわたしの方に憎しみを向けているように感じた。わたしのわざとらしい行動に敵意を感じていたのだろうか。二人とも廊下に立たされた。放課後残るように言われた。
「木村君、テストではできている問題が何故できないの?」
「忘れたからです」
「テストはカンニングだったんじゃないでしょうね」
自慢じゃないが、そんなこと小学校に入学以来一度もしていない。相当プライドが傷つけられたが我慢するより仕方がなかった。
「あんたたち誰のために勉強しているの?」担任がクジラに向かって聞いた。
しばらくの沈黙の後「先生のためです」とクジラが答えた。わたしは「ああ言ってしまった」と思った。担任は呆れた顔を隠さず、異邦人を見つめるような視線を投げかけてから、泣きそうな顔になった。
「世の中には貧しくて勉強したくてもできない子供もいるのよ」
そんなヤツ教科書に出てくる子供以外いるわけないと思った。
「あなた達は勉強する権利があるの」
「はあ」わたしは気の抜けた声で返事をした。
「もういいわ、あんたたち帰りなさい」
クジラは相変わらず神妙な顔をしていたが、担任の困惑が理解できないようだった。
「自分のためです」が正解なのにと思ったが、よく考察してみるとクジラの答えもいいと考え直した。みな自分のためになんて思っているやついないかも知れない。何故かなんて考える必要もない。皆やらされているんだ。何が権利だ、何が義務だ。みんないろいろ苦労してるんだ。いちいちそんなこと考えてられるかってんだ。先生のために勉強するやつがいたっていいじゃないか。「生徒の素直な気持ちに感謝しろ」と思った。
第四章 スイカ泥棒
1
わたしたちは墓場に適当な隠し場所を見つけられず遊び場を隣の雑司ヶ谷公園に移した。確かに公園の方が墓場よりは気が楽だった。
「ここの石塀なら安心だろ、クジラ」そう言うと、住友は石段に上った。住友はどうしても塀渡りの続きがやりたいようだった。そして石段から始まる公園の周囲を巡る塀に上り軽快に渡り始めた。墓場と同じようにわたしがその後に続き、クジラの順でついてきた。公園の石塀は頑丈そうだが片方の足の幅しかなくやや高いのでスリルのある行軍となった。
公園にある遊具の木道と同じ遊びだが、わたしたちは子供用に作った遊具には何でも不満だった。お膳の上に整然と出された和菓子には見向きもしないが、食べかけの駄菓子には手を出すというひねくれた性格だった。何かそこに大人の策略を感じてしまう。策略と言ってもそれは大人が我々を安全に楽しませてくれようとする善意の意図なのだが、それが気に食わないと言うところだろうか。
「その桜の木に飛び移るぞ」住友が勢いよく叫んだ。
塀の上からその桜の木の枝までは、一メートルほどあるが、飛びつくにはちょうどいい枝振りで何の問題もなかった。飛びついたら逆上がりの要領で枝に上がって幹の方に進むか、懸垂のまま進むかしかなかった。枝の下は、ぬかるみでちょうどよいクッションにはなるが、罰を受けなくても落ちれば泥だらけになることは間違いない。
最初に住友が跳んだ。次にわたしが無事に枝に飛びつき幹までたどり着いた。最後にクジラが跳んだとき、ジャンプの距離が足りなくて桜の木の先端に飛びついたため、枝は重さに耐えられず大きく撓った。「バキッ」という音がしたが枝はひびが入っただけで折れてはいなかった。クジラは必死の形相で折れかかった枝を渡り幹までたどり着いた。
「簡単すぎて、あくびがでらあ」桜のわたりになんとか成功した余裕かクジラが大きな口を利いた。
次に塀から屋根に上がった。建物は平屋で公園の管理棟だった。屋根は平坦なコンクリートのため軽快な行進が続いた。管理棟が終わると隣は一般の民家のようだった。
「もう、公園に戻ろう」単純な遊びに少し飽きが来てわたしが言った。
「いや、次だ」そういって住友は民家の屋根に飛び移った。
「人が住んでるぜ」わたしは少しまずいかなと思ったが住友に続いてジャンプした。
「ああ、だから慎重にいけよ」住友が小声で言いながら、屋根の上を猫のように静かに移動していく。
トタン屋根なので音がうるさい。足音が靴の裏にへばりついているようだった。もう歌は歌わずに静寂を保ち、這いつくばって前進した。わたしがトタン屋根の継ぎ目に半ズボンの裾を引っかけて滑った。クジラがそれを見て立ち上がった瞬間、バリバリッと言う大音響が響いた。クジラの足首が腐ったトタン屋根を完全に踏み抜いている。
「どうせ、ぼろ屋だから構わねえよ」住友はまだ余裕の苦笑いを浮かべていた。
そのとき戸が開く音がして、家の中から人が出て来た。
「誰かでてくるぞ」たぶん家の住人だろう。
「伏せろ」物音を立てずに身体を硬直させた。自分でつばを飲み込む音が聞こえた。
「クジラ、猫の鳴き声だ」住友がクジラにしわがれ声で命令した。
「ニャーゴ!」クジラが絶妙の鳴き声を真似した。
「誰かいるのか?」大人の怒鳴る声がした。
わたしたちは屋根の上にへばりついて身を隠した。クジラは足首をトタン屋根に突っ込んだまま伏せているので体が痛そうだ。苦痛を耐えているような顔が妙にひずんで見えた。人が家の中に戻るのを確認してわたしたちは安堵した。
「隣の屋根に飛び移れ」わたしたちは音を立てずに注意深く移動した。
今度はトタン屋根ではなく立派な瓦屋根だった。瓦を割るのにはさすがに気が引けてわたしたちはゆっくり前進した。その先にはもう平屋の家がなくわたしたちの遊びは終わるかに見えた。
「飛び降りるぞ」屋根からは二メートルほどあり勇気が試される高さだ。住友が最初に飛んだ。下は芝生のようだったがかなり怖い。わたしは「神様!」と心の中で叫びながら目をつぶり、歯を食いしばって一気に飛び降りた。着地すると体全体がジーンとなり全身総鳥肌になった。上を見るとクジラが考え込んでいた。
「さっき捻ったところが痛くて無理だよ」いつのまにか擦り傷が捻挫に変わっていた。
先に降りたわたしたちは気軽で、怖かったくせに「簡単だよ」「はやくしろよ」「梯子を持ってきてやろうか?」と怒鳴っている。
この状況になると、何ともはや続いて飛ぶよりさらに勇気がいる。かわいそうだとは思いながらはやし立てた。目を真っ赤にして泣きそうになりながらクジラが飛んだ。涙が風で飛ばされたのか、目のまわりは水滴がついていた。
「えらい」住友が言った。クジラの足は擦り傷だらけで血塗れになっていた。
2
周囲を見渡してみるとそこは大きな家の裏庭だった。昔風の作りの家で、庭は石蹴り遊びができるくらいの広さがあった。飛び降りてきた塀の下は丁寧に整備された庭で花壇とその中に手作りと思われる金魚の池が見えていた。花壇には飛び降りた足跡が大量についており踏み倒した草花もあった。池は湯船ぐらいの大きさで、セメントで作ってありまだ新しいらしく白く光っていた。
母屋の方を見ると無防備に開け放たれた縁側が見えた。縁側の脇にはきれいに畳んである洗濯物の山があった。そのそばに水をためた大きなバケツがあり、その中に氷とスイカが浮かんでいるのが見えた。
「あ、うまそー」住友が言った。
「オレ今年まだスイカ食ってないんだよ」とわたしは中身の赤い果肉を想像した。
「オレも」とクジラがそう言って縁側に近づくと家の奥から人が来る気配がした。クジラは驚いて退いた。出てきたのは、幼稚園生と思われる子供だった。クジラはそれを見て急にニッコリして「こんにちは、ぼく、なにしているの? おにいちゃんと遊ぼ」と言いながら子供に近づいた。子供は警戒心で躊躇していたが、すぐにクジラの人なつっこさに引き込まれてその子は「うん」と言って頷いた。
「ぼく、いくつ?」クジラは薄笑いを浮かべていた。
「満四歳」子供はまだ警戒していた。
「おるすばん? お母さんは?」
「おでかけ」
「一人でお留守番、偉いねー」気持ち悪い裏声でクジラが言った。
「チャンスだよ」クジラはそう言ってわたしたちに振り返った。
「スイカ盗もうってのか、まずいよ」
「ちがうよ、お呼ばれになるんだよ」
「オレに任せろ」とクジラが言った。
「スイカもう冷えたかな? 食べてみようか」とクジラが子供の機嫌を損ねないように言った
「だめだよ、ママが帰ってから」と強い調子で子供が言い放った。
「しっかりしたガキだ」と小声でクジラが呟いた。
「やっぱり引き上げようぜ、ここは人の家の庭だよ。家宅侵入で引っ張られる」わたしはクジラに言ったが聞いていないようだった。
「そうだね、ママが来てからだね」とクジラが続けた。
「うん」子供は少し安心したようだった。
クジラは縁側の子供の横に座るとなつくようにいろいろ話しかけた。そして頃合いを見てから「スイカもう冷えたかな、見てみようね」と言いながらバケツを近づけた。中には砕いた氷と一緒にくっきりした緑と黒の模様がついたスイカが浮いていた。クジラはバケツの水に手を入れると貴重品でも扱うように丁寧に取り出した。水が滴って廊下にぽつりぽつりと音を立てて落ちた。
「重いね、このスイカ」クジラはゆっくりと持ち上げた。
「坊や、冷えてるからさわってごらん」と言いながら自分の顔より大きいスイカを重そうに持って子供の前に差し出した。
「冷えてる、冷えてる」子供はスイカの表面を両手でさわりながら安心しきって言った。
「ぼく、持てるかな?」そう言いながらクジラは子供にスイカを手渡した。子供は何とか持ちこたえて抱え「冷たい、冷たい」と繰り返した。
「じゃあ、もとに戻そうね」そういって子供からスイカを受け取る瞬間、クジラはわざと手を引いた。スイカはするりと子供の手からこぼれて、ころころと転がり縁側に上がるための大きな踏み石の上に落ちた。ざっくりと割れて、真っ赤な果肉がむき出しになった。赤い汁が踏み石を伝い、白い砂に吸い込まれていった。
「あっ! 落としちゃったの?」クジラがわざとらしく叫んだ。
「あーあ、割れちゃったよ」わたしがそう言うと、子供はびっくりして目を丸くした。目に涙がたまりそうになっていた。
「もう、食べるしかないな」それまで一言も発しなかった住友が平然と言った。
真っ赤に熟れた身の中に点在する黒や茶色の種子が、果実の確実な甘さを約束してくれるかのようだ。もう、そこにいる誰もがそれを口に入れることに反対するなんて考えられなかった。
「坊や、早く食べないとせっかく冷えたのが」そう言いながら割れて散らばったスイカの破片を集め、さらに細かく割って食べやすいようにして子供に与えた。自分たちの分も割って夢中でかぶりついた。子供は何のことかわからずわたしたちの行動を見守っていたが、かぶりつくわたしたちの姿を見て慌てて口をスイカに持っていった。
丸いスイカを割って食べるのは久しぶりだった。家で買うものはいつも半分か四半分に切ったものばかりだった。大きいと思ったスイカだったが、瞬く間にその場であっという間に平らげてしまった。庭には黒と茶色の種が点々と散らばっていた。
「いやー、最高だね」クジラはランニングシャツの裾を引っ張り上げハンカチ代わりに口を拭った。
「ぼうや、ごちそうさん」
「ありがと、またくるね」
幼児は何が起こったのか理解できずにきょとんとしたまま、まだスイカを食べている。
「まずいよ、散らかしっぱなしは」
「それより、花壇の足跡何とかしろよ」
「どうしようもないよ。ほっとけ」
「足形調べられたら、身元が割れるぞ」
わたしはテレビドラマで、刑事が足跡で犯人が子供だと推理する場面を思い浮かべていた。
「誰が調べるんだよ」
「警察だよ」
「バカかおまえは、スイカ食ったぐらいで」
「そうさ、ご馳走してもらっただけだし、子供の遊びだし」
「クジラも悪いやつだな」住友が鼻で笑いながら言った。
わたしも悪くは思ったので「あとかたづけだけは、きちんとしようぜ」そう言って、バケツの水を花壇にまきスイカの食べかすを丁寧にバケツにしまった。そしてスイカの種は縁の下に蹴り入れた。
3
庭の垣根から路地に出て公園に向かったが、みな押し黙って歩いていた。後味の良い遊びではなかった。それに所期の目的のことを思えば何の成果も得られていなかった。
結局その日曜日は、みんなで遊び惚けているうちに暮れてしまった。
「今日は疲れたよ」わたしはため息混じりにぽつりと言った。
「金もないし、大した遊びもできないな」クジラも意気消沈していた。
「来月、小遣いもらったら後楽園遊園地でも行こうぜ」わたしが気勢を上げようと少し大声で喋ったが反応はなかった。わたしたちの家庭は金持ちじゃなかったが、人並みに遊ぶ小遣いくらいはもらえる境遇だった。
「今度、豪華にやってみないか」しばらくの沈黙を破って住友が言った。
「キャバレーでも行くのかい?」クジラがおちょくった。
「酒も飲めないくせにばかいうな。おまえら、もっと豪華に遊びたいと思ったことないのか?」
「どんなこと?」
「だから、後楽園でジェットコースター乗り放題とか、アイスクリーム食べ放題とか、マンガ買い放題とか」
「住友は、放題が好きだな」わたしは笑いながら言った。
「そんな金、ないよな」
クジラが言うと、その言葉を待っていたように「宝物をさばくんだよ」と住友が言った。
「さばくって、どういうこと?」
「売るってことさ」
「あんなもの売れるのかなあ」
「どこへ売るんだよ」わたしとクジラが立て続けに訊いた。
「だから質屋とか、古道具屋とか」
「相当儲かるな」
「でもあの品物、盗品だったとしたらつかまるぞ」
わたしは子供が質屋に行く姿をどうしても想像できなかった。
「それより小学生がどうやってさばくんだよ、ベーゴマなんて買ってくれるとこないさ」
「馬鹿だな、ベーゴマは売れやしないよ」
「だから時計と万年筆は足がつくって」わたしはこの話には慎重だった。
「切手を売るんだよ」住友がそう言って、頭を使えというように自分のこめかみを何度も人差し指で突っついた。
「どこで?」クジラが興味を示した。
「じゅん、健ちゃんが切手を売って現金化したって話していたよな」住友がわたしに向き直って言った。
「ああ、そういえば」わたしは健ちゃんから池袋に切手を買ってくれる店があると聞いて、住友に話したことを思い出した。住友の記憶力の良さには敬服してしまう。
健ちゃんはわたしたちの先輩で小学校時代はよく一緒に遊んでくれた。中学三年になっていたが、ときどきわたしたちの要求に応じてくれて遠くの駄菓子屋や池袋の映画館につれていってくれた。
「健ちゃんに聞いてみようか」わたしは住友の言葉を受けて続けた。
「クジラ、おまえ切手帳持ってこいよ」住友がクジラに命令するように言った。
「わかった。でもあれはオレの切手帳だから、何をさばくかはオレが決める」クジラは条件付きで返事をした。
「おまえの切手帳じゃない。みんなの切手帳だ、いいな」住友は念を押したがクジラは回答を省略した。
「じゃあ、明日帰ったら、健ちゃんの家に行こう」わたしがその場を締めくくった。切手を売るのなら怪しまれないと思った。臨時の小遣いを手にすることは楽しみでもあり、品物をさばくのはちょっとした冒険でもあった。
わたしたちは月曜日の放課後、健ちゃんのところへ相談に行くことにしてその日は解散した。
第五章 頼れる先輩
1
健ちゃんの中学校での評判はよろしくなかった。勉強もできないし札付きの不良だという。背が高く肩幅が広い。少し長い髪をリーゼントにまとめている。たしかにサングラスでもかければいっぱしの不良という風貌だ。わたしも中学生になったら坊ちゃん刈りはやめて健ちゃんのように長い髪にしたいと思っていた。同級生の話だと、勉強は算数だけが極端に苦手なだけであとは問題ないらしい。わたしから見ても健ちゃんは音楽にはやたら詳しいし、本もたくさん読んでいた。小学生の頃から英語だって詳しかった。ラジオだって一人で作ってしまう。何故こんなに頭のいい人が学校で勉強ができないと言われているのか全く解せなかった。両親は早くに離婚して父親に引き取られ二人暮らしだった。わたしもつきあいは長いが健ちゃんの母親の記憶はない。父親が出張の時は、結婚して近くに住む姉さんの珠恵さんが食事を作りに来てくれた。珠恵さんが来られないときは一人で夕食をとることがあるようだった。
その年の正月、子供たちだけで寄せ鍋をやったことがある。健ちゃんの父親は正月三ケ日に家にいただけで、そのあとは関西に出張に出かけた。一人の食事はつまらないと言うので、近所の子供も入れていろいろな食材を買い集め鍋料理を作った。なんでも一人でやることが多いから自然に料理上手になったそうだ。
鍋料理は簡単だと言っていた。暖房用も兼ねている火鉢を熱源に、材料を入れた鍋をかけ煮ながら食べる。子供たちだけで火を扱うのは父親からは厳禁されていたが、健ちゃんは手馴れたものでガスより火鉢のほうが安全だといっていた。土製の浅い鍋の中で味をつけながら野菜や肉を煮る。中には白身の魚、イカ、エビ、練製品のかまぼこ、はんぺん、野菜はネギ、ダイコン、ハクサイ、シュンギク、たけのこ、キノコ類、ほかに焼豆腐や白滝を入れた。
寄せ鍋の中身はみんなでバラバラに買い物に行って、好きなものを入れる。闇鍋は、絶対おいしくなくなるからやめようということになった。以前やったとき、チョコレートやバナナを入れたやつがいて結局最後は食べられなくなったそうだ。わたしの担当は乾物屋で、白滝を買いに行ったが売り切れだった。乾物屋のおばさんの推薦で春雨にした。みんなで買ってきた食材を健ちゃんが手際よく料理して感動するほどおいしい鍋を作ってくれた。
健ちゃんの部屋にはわたしが欲しがっていたギター、ステレオアンプ、レコードの束、テニスラケット、グローブにミット、何でもあるのがうらやましかった。親父さんが忙しくて相手をしてくれないとき、欲しい物をねだれば何でも買ってくれるそうだ。「おみやげで騙されてたまるか」と言うが、わたしにとっては理想の父親とも思えた。
親父さんから昼飯代をもらうこともよくあるらしく、そのお金でそば屋につれて行ってもらった。壁に貼ってあるメニューの中で一番安いのを頼もうとしてそのまま読み上げ「もりかけ!」と言って健ちゃんとお店の人に笑われた。
「もりとかけは別物だよ、じゅん、遠慮するな」そう言って、天ざるをとってくれた。ともかくわたしの知らないことを山ほど知ってる。
少なからずわたしは健ちゃんの影響を受けていた。音楽が好きになったのも、野球を始めたのも、ラジオ作りを始めたのも健ちゃんの影響だった。自転車で秋葉原に連れて行ってもらい、ラジオの部品を初めて買ったのも健ちゃんと一緒だった。鉱石ラジオやトランジスタラジオを半田ごてを使って組み立てる方法も教わった。でも、何と言っても健ちゃんを最も尊敬するのは西洋通つまりアメリカかぶれであることだった。ポール・アンカよりエルビス・プレスリーの方が偉いというのを知っていた。ロサンゼルスをLAと言う。当時のテレビドラマ「パパは何でも知っている」のアメリカでの原題が「ファーザー・ノウズ・ベスト」だとも言っていた。こんなネタどこで仕入れてくるのだろう。
ギターが弾ける。始めたばかりのようだったけれどわたしには上手に聞こえた。チューニングのやり方とドレミの押さえ方を教えてもらった。コードをいくつか教えてもらったがわたしの指の長さではガットギターのネックは太すぎた。軽音楽のレコードをたくさん持っている。レコードプレイヤーは自分で改造した糸ドライブとかでわたしには触らせてくれなかった。レコードは特に大切にしていて、蟹の足のように長い指を器用に使って決して表面に手の油をつけることはなかった。少しでも汚れるとフェルトで包んだカステラのような埃取りで表面を丹念に拭く動作を繰り返していた。ハイファイセットのスピーカーがものすごく大きかった。アンプの内部の赤いヒーターの灯った真空管は、いかにも暑くヒートアップして最高級の音を醸し出しているように思えた。レコードは多種で流行のポピュラー音楽とクラシックそれにアメリカの黒人の音楽というジャズもあった。わたしもいつか自分のレコードが買えたらと思いながらラジオのヒットパレードを聞いていた。
運動会ではリレーの選手でいつも花形だった。騎馬戦の大将で、仮装大会では一番人気だった。それに喧嘩が強い。正月休みの時、公園で揚げていた凧と隣の豊島小学校の校庭で揚げている凧が空中で糸がからまってトラブルになった。相手の学校に押し掛けて喧嘩になり、何人もの相手を一人でこてんぱんにしてやっつけたという伝説は有名だった。それ以来、文京小学校と豊島小学校の連中とはそりが合わなくなっていたが、健ちゃんの活躍はあげればいとまがない。
2
月曜日の放課後、わたしたちは健ちゃんの家を訊ねた。
「よう、おそろいだな」健ちゃんが、慈愛に満ちた笑いを伴って玄関から出てきた。商店街では珍しいサラリーマンの一戸建てだ。
「まあ、あがれや、今日は誰もいないし遠慮するな」関西出身ではないと思うのだが、うれしいときにはへんな大阪弁になる。健ちゃんを信用しないわけではなかったが、宝物の件は伝えないで、切手の処分だけを相談することにした。それがわたしたちの事前の打ち合わせだった。
応接間を通り抜け部屋に入れてもらうと、シングルベットと大きなステレオのスピーカーそれにギターが目に入った。
「すいません。おじゃまします」住友とクジラが言った。健ちゃんは、わたしとは近所づきあいだが、彼らは初対面に近いので敬語を使っていた。
「すごいですね、ギター二本もあるんですか?」住友がウエスタンギターとガットギターを見て訊いた。
「ああ、本当は電気ギターがほしいんだけど、高くて買えないんだよ」
「そんなものあるんですか」住友が両手を広げながら驚いて見せた。
「そんなこといいから切手帳を出せよ。おまえら切手売りたいんだろ」
「はい!」クジラが背筋を伸ばして答え、緊張しているのか神妙な顔で三冊の切手帳を差し出す。
健ちゃんは一冊ずつ丁寧に中身を点検した。ずいぶん長く時間がかかったような気がした。自分の引き出しからピンセットを取り出し、引き抜いて後ろを見たりしていた。切手の相場表の本を出してきて現在価格を確認している。そしてやっと言葉を発した。
「これ誰の切手帳?」
不意に訊かれたので、わたしたちはちょっと返事につまった。わたしと住友はクジラの方を見た。
「ぼくのです」クジラが言った。
「よく集めたな」健ちゃんは切手帳から目をはなさずに低い声で言った。
「ええ、発売の時には必ず郵便局に並んで」
「古いのはどうしたの?」
「えーと、友達と交換したりして」クジラはもじもじしながらわたしの方に助けを求めるような視線を途切れ途切れに送ってきた。しかしどうしようもない、下手な手助けをするよりここはクジラに任せるしかないと思った。
「それは嘘だな」
「はあ?」クジラは素っ頓狂な声を上げた。
「とてもこんな珍品を小学生が買えるはずがない、親父さんが持っていた物とかならわかるけど」健ちゃんがやっと切手帳から目を離してクジラに向かって言った。とうとうわたしは我慢できなくなって「そうそう、クジラの親父、切手収集が趣味で古いのいっぱい持ってるんだよな」そう言ってからわたしは取り返しのつかないことを口走ってしまったことに気がついた。クジラの親父さんは死んだって聞いている。でもたぶん健ちゃんはそんなこと知らないだろう。あとはクジラがわたしの話を受けてうまく合わせてくれることを祈るだけだった。
クジラは眉間にしわを寄せ、下を向いて何も答えなかった。
「じゅん、これ売るのはもったいないよ、自分で持っていたらどうなんだ。すごく価値のある切手がいっぱいあるぞ」健ちゃんはわたしに向かって言った。
「どうするんだ、クジラ、おまえ金が必要なんだろ、今月の給食代が払えないって言ってたじゃないか」わたしたちの嘘はどんどん積み重ねられていった。
「もう、切手集めるのやめたんです、だから売っちゃってもかまわないんです」わたしの発言を受けて、クジラがうつむきながら目に涙をためそうに言った。
「そう」健ちゃんは深く息をしてから言った。
「健ちゃん、こないだ池袋の切手屋で売ったって言ってたじゃないか、その場所教えてよオレたち自分で行くから」わたしが言った。
健ちゃんはしばらく考えた後
「その切手帳オレのなんだ」と言った。
「えっ?」わたしたちは顔を見合わせて絶句した。
「オレのなんだよ。どこで見つけたんだ?」
誰も答えなかった。
「この間、盗まれたんだ」健ちゃんは少し大きな声で畳みかけるように言った。
「そんな、バカな」
「バカとは何だよ。ちゃんと答えろよ」
「健ちゃんのだって証拠はあるの?」わたしは思い切って反論した。
「それはオレが何年もかかって集めた切手帳だ、見ればすぐわかる」そう言って鋭い視線をわたしに向けた。
「だから、クジラが集めて・・」みんな押し黙っているので、わたしが言い訳をしようとすると間髪を入れず「どこで手に入れたんだ!」健ちゃんが切手帳を机にたたきつけながら怒鳴った。わたしたちはその迫力に押されて全員座ったまま気をつけの姿勢になっていた。
もう、本当のことを言わなくてはだめだとわたしは覚悟を決めた。そして切手帳はメンコやベーゴマと一緒に空蝉橋で拾ったことを健ちゃんに話した。ただ、時計と万年筆と貴金属も同時に見つけたことは黙っていた。それを聞いて健ちゃんはそれまでの気取った表情を消し柔和な顔に戻した。わたしたちもそれを見て安堵した。
「アハハ、そういうことね、わかった、わかった」うれしそうな笑みを浮かべていた。
「・・・」
「おまえらいいヤツだよな、かんしん、かんしん」
「ありがとございます」クジラが意味不明なお礼を言った。
「いやあ、わるい、いまの話はウソだ」健ちゃんはあっけらかんと言った。
「はあ?」また、クジラが素っ頓狂な声を出した。
「だから、これはオレの切手帳じゃないから安心しろ」
「それって、どういうことですか?」
「ちょっと、からかってみただけだって」健ちゃんは笑いながら言った。
「え? なんだって、そんな」住友が最初に反応した。
「だって、おまえらがこんな高価な切手を持っているわけないじゃないか」
「えー、人が悪いな」わたしとクジラは素直に和解したが住友の態度は少し違っていた。
住友はとくに仲間以外にはシニカルでカッコをつける癖がある。騙されたと思うとこだわりができて気持ちを切り替えられないのだろう。わたしも同じ気持ちだったけれど健ちゃんなら許せるという感じがした。それにわたしたちだって切手帳を拾ったことを隠していたのだからおあいこだ。ブスッとしている住友に助け船を出した。
「おまえ、レコード貸してもらったら、健ちゃんいいのいっぱい持ってるよ」
「いいよ」
「気に入ったの持っていけよ」健ちゃんは押入からアメリカンポップスのドーナツ版をどっさり持ってきて住山の前に差し出した。
目に留まったのは怖い顔のおばさんがこちらに向かって笑っているジャケットで、曲名とか歌手名は英語で意味不明だったが、下に大きくMGMと書いてあるのだけがわかった。
「これなあに」
「コニー・フランシスの最新版だよ、聞くか」
「うん」
出だしは人を馬鹿にしたようなやる気のない女性コーラスが「イヤン・イヤン・イアー・イヤン・イアー」と歌いそれに単純なスネアドラムが続いた。ステレオアンプの迫力は相当なものでベースの重低音が腹に響いた。歌が始まるとどんどん音程があがっていっていつまで登っても登り終わらない螺旋階段のような上り調子の曲だった。
♪ When you left me all along
at the record hop
told me you were going out
for a soda pop.
途中のギターの間奏はとてもしゃれていた。こんなギターの音は聞いたことがなかった。演奏方法もピックが流れるようで新鮮だった。
「このレコードで使ってる楽器、何なの?」
「電気ギターだよ」
「電気?」
「アンプにつないで使うのさ、いい音だろ」健ちゃんは音楽に合わせ手足を揺すりながら髪に櫛を入れた。
「弾いてみたいな」
「オレも買いたいけど、高いよ」
「曲名は」
「カラーに口紅」
「口紅の色がどうかしたの?」
「あはは、オレもわかんないけど、口紅が男の襟についててヤキモチやいたって話じゃないか」健ちゃんは嬉しそうに乾いた笑いを発した。
「でも借りたら福井さんが聞けなくなりますよ」住友が気を遣っていった。
「いいよ、オレはテープレコーダーがあるから」
「テープ?」
「うん、テレコ、よく聴く曲は並べて録音してあるんだ」
その当時まだ珍しかったテープレコーダがあった。五インチのオープンリール型だ。
「へえ、録音できるの、何でも?」
「何でも。音楽でも、話でも、鳥の鳴き声でも」健ちゃんは得意になっていろいろ並べ立てた。
「おならもできるの?」わたしが訊いた。
「お前、変なこと言うな。もちろんできるさ」
「クジラ、おならしろよ」住友が少し機嫌を直しながら言った。
「すぐできるもんか」
「録音開始するぞ」健ちゃんがテープレコーダーの録音ボタンを押した。
「プーッ」クジラが無理してやった。器用なヤツだ。
「録音できてるかな?」健ちゃんがそう言ってテープを止め、巻き戻し操作をして再生してみると「プー」という音が忠実に再現されたあと、みんながどっと笑う声が収録されていた。
健ちゃんの家で遊んでいるうち夕方になってしまった。わたしたちは、切手帳を持って池袋の買い取り業者の店に行くことにした。その店は池袋の東口繁華街のハズレにあった。
健ちゃんの家から水窪通り商店街を通り抜けていった。水窪通り商店街は地元の坂下商店街とは異なりよそよそしく見える。これは客観的な見方ではなく、わたしの地元から離れるためにそんな感じがしたのだろう。たまに買い物に行ったりすると異国に入り込んだような気もした。そこは豊島区でもあり、国境の南、異国であった。
駄菓子屋には地元では見かけない不思議な品物が置いてあった。たとえば、さん孔テープテープの使い古したもの、何の役にも立たないが魅力的だった。輪ゴムが茶色ではなくて緑色だった。きな粉にまぶした餅のような菓子で、中に豆が入っているともう一つもらえるのが嬉しかった。透明に近く透き通ったろう石も魅力的だった。近くの駄菓子屋より新鮮でしゃれていると感じた。味付けの麩に杏を乗せた菓子には飽き飽きしていた。それに驚異的で何より美味だったのは、赤紫に輝く甘酸っぱいスモモだった。メンコやベーゴマの種類も新しいものがあった。変わったものを持っているとみんなから一時の尊敬を得られる。だからそこでは外国から来た買い付け商人のような気分になり、あるだけの小遣いを使ってしまうことがよくあった。
水窪通りを抜けて不忍通りに出ると大都会という感じだ。池袋駅まで行く大通りの途中に、電飾で照らされたタイルの小さな池を入り口にあつらえたダンスホールがあった。時間によっては噴水が吹き出していることもある。ときどき派手な衣装で着飾った男女が入っていくのを目撃していたが、その当時は何の興味も持てなかった。それより隣のジャズ喫茶というかロックの生バンド演奏が聴けるホールの「ドラム」があって、そこの方が気になっていた。健ちゃんはときどき先輩たちと行っているようだ。中学生になったらつれていってくれることになっている。何しろすごいところだそうで出てくる人々は口々に「頭くらくらになったぜ」と言っている。
クラブ、バー、キャバレーがおり重なりネオンで眩しい通りを抜けると、急に暗くなり赤提灯の店がちらほらある細い道に出る。
「暗いな、ここなんだ」わたしが言った。
「どやがいか?」とクジラ。
「ばかだなあ、のみや街だよ」住友が言った。
「でも、安宿みたいなのがたくさんあるよ」クジラが反論した。
「ああ日雇いの泊まるとこだ」住友が解説した。
「今度、家出したとき来ようかな」クジラが深刻そうに言った。
「おまえ家出なんかするの?」
「ああ、家族と喧嘩してとびだすんだ」
「どこ行くの?」
「行くとこないから、すぐ戻るけど」
「だらしないの」
「だから、こんどここに泊まろうかなって」
「おい、小学生おことわりって張り紙があるぜ」
「えっ、どこに?」
「嘘に決まってんだろ、ばか」寄席の漫才にも似た二人の会話にわたしはいつも感心していた。
「おい、ここだよ、入るぞ」健ちゃんの威勢のいい声がした。
切手収集家を相手にする店は、古びた木造の宿屋と質屋の間にこぢんまりと構えていた。中に入ると、客がたくさんおり、その中には小学生らしき者も数人いた。周囲と対照的に中は明るく人いきれで暑かった。店内は静かで、客はあまり会話もせず、ショーウインドウにある高価な切手を見ている者がほとんどだった。ときおり売る値段の交渉を店の主人らしき男とぼそぼそ話している声がようやく聞き取れる程度だった。
一度に大量に売っては怪しまれるということで、その日は小手調べに二十枚程度を売った。それでも二千円ほどになった。健ちゃんが店の親父と交渉をしてくれたおかげもあって怪しまれもせず、かなり良い値で引き取ってくれた。その当時のラーメンが五〇円くらいだったのでわたしたちにとってみれば相当の小遣いだった。代理人の先輩に手数料を払おうとわたしが提案したが健ちゃんは固辞した。それではということで、近くの「さんぷく」と言う甘い物屋でおごることになった。あんまん、ところてん、アイスクリームを腹一杯食べてわたしたちは満足し家路についた。健ちゃんは「友達と合流する」と言い残してネオンが眩しいパチンコ店に消えた。そのあと三人で池袋のローラースケートセンターに行って遊び、ゲームをしているうち結局、切手を売ったお金はすべて使い果たしてしまった。
第六章 新しい仲間
1
クジラが腕時計をつけて教室に入ってきた。つぎあての半ズボンと半袖の開襟シャツに金の腕時計、目立たないほうがおかしい。休み時間に、クジラが囲まれている。
「かっこいいけど、年寄りくさいな」学級委員の塚田が話しかけた。
「えーと、時間は」クジラは袖もないのに腕を伸ばす仕草をして時間を調べた。
「小学生が、腕時計をしちゃいけないんだ」
クラスのマドンナ関順子が明るく叫んだ。関さんは美形のわりには珍しくおしゃべりで目立った存在だった。
「今日は出かけるから、母ちゃんが持ってけって」
「ほんとに金時計?」関さんが時計をのぞき込んだ。
「知らねえ」クジラが知る由もなかった。
「どこのメーカー、スイス製かい?」わたしも知らんぷりして尋ねた。
スイス製の時計は高級品だということは知っていた。
「どこのでもいいじゃねえか」クジラは変なことを聞くなというようにわたしのことを睨みつけた。
「お父さんの借りたの?」塚田が聞いた。
「まあな」クジラは曖昧に答えた。
「親父の形見か?」クラスの嫌われ者の富田が近づいてきて割り込んだ。
富田はどのグループにも入らず、交友は広いが万引きで何度も捕まったことがあるのでみんなから疎んじられていた。
「だって、クジラの親父、事故で死んだんじゃないのか、だろ?」富田が意味ありげに念を押した。
「だからどうしたんだよ」クジラが口をとがらせて言った。
その話になるとクジラはとたんに機嫌が悪くなる。機嫌が悪いというより気がふさいでしまうのだろう。急に口数が少なくなるか話題を逸らすか、その場を立ち去ってしまう。その様子は知っているはずだが、富田はすぐ口に出す。わたしは好きでも嫌いでもなかったが性格の悪いやつだと思っていた。
「鯨岡君、筆箱も新しくしちゃって」林久美子も話しに加わってきた。
久美ちゃんは一年生のときからずっとわたしと同じクラスで家も近いし気心の知れた仲だった。
「景気いいなあ」久美子が続けた。
「世の中、岩戸景気だし」わたしも知ったかぶりで話をかぶせた。
「万引きの戦利品じゃないのか?」また富田がおちょくった。
富田の言葉は刺だらけだ。
「なに! おまえとはちがうよ」クジラが怒った。
「冗談だよ、怒るなよクジラちゃん」今度は取って代わってやさしい声で言った。
「誰だって、筆箱ぐらい新しく買うさ」クジラが見栄を切った。
「金時計もか?」富田が訊いた。
「だから、親父の」クジラが説明しようとしたが話は遮られた。
「形見か? なんかウソっぽいんだよな」富田は疑り深かった。
何か嗅ぎつけたのだろうか。それにその日のクジラに近づく彼の行動にはなにか計略的なものも感じた。
「さてと、オレ何しようかなっと」クジラはそう言って話題を変えそれ以上富田と関わらずに、腕時計をはずしてランドセルにしまいノートを出して一人でマンガを書き始めた。
富田はいきなりわたしの腕を掴んで教室の窓際に誘った。
「木村、おまえなんか知ってんじゃないのか」しわがれた小声で富田がわたしに訊いた。
「なんのことさ」
「クジラの時計、ちょっとおかしいぞ」
「おかしくないよ」わたしが反論した。
「何が形見だ、クジラの親父死んじゃいない」
「え、だって以前に事故で死んだって」わたしは同意を求めるように言った。
「何の事故で死んだのか知ってるのか」冨田が言った。
「自動車事故か?」わたしが尋ねた。
そう言えば、どういう状況でクジラの親父さんが死んだのかは、全く知らないことに気が付いた。
「誰に聞いた?」冨田が言った。
「いや、ウワサで」
「だろ、事故なんてなかったんだよ、事件はあった」神妙な顔で冨田が言った。
「事故がなかったって、どういうことさ?」
「クジラの親父は死んじゃいない」
「じゃあ、どこに?」
「臭い飯、食ってるのさ」
「なんのこと?」
「いま刑務所だってはなしだ」
わたしは思いっきりびっくりして飛び上がった。
「おまえ、気が狂ったんじゃないのか?」
「オレ前のクラスから一緒だけど親父が死んだなんて聞いたことない」そう言えば富田の方がクジラとのつきあいは長かった。
「だから?」
「事件があったのは確かだ、高利貸しを刺したとかで捕まったってウワサだ」
「ウソつけ」わたしは興奮していた。「それだってウワサじゃないか」わたしは続けて言った。
「おまえも、ああいうのとはつきあうのは考えた方がいいぞ」富田はわたしの言葉を無視して言った。でもわたしに言わせれば、万引きやずる休みが絶えない富田の方がよっぽど胡散臭い存在だった。
それっきりこの衝撃的な話はほかの誰からも聞かなかった。わたしは富田がウソをついているのだろうと思って大して気にも留めなかった。
しかし、それ以来富田は執拗にわたしたち三人の中に入ってくるようになった。クジラは最初いやがっていたが、富田一流の如才なさでいつの間にかわたしたちに溶け込んでいた。
わたしたちは普段、住友とクジラとわたしの穏健な三人組だったが、富田が入るとやや緊張感をともなった悪ガキ四人組グループに変わるような気がしていた。そしてそれをわたしたちも面白がっていた感があった。富田のせいばかりではない、もともとわたしたちも不良指向があったのかもしれない。三人で後楽園遊園地に遊びに行くときは入園口から入るが、富田が来ると彼が見つけた抜け道の柵脇から無料で進入という具合だ。
後楽園のローラースケートに行くときも、貸し靴券をごまかすのが富田の役割で、スケート指導がわたし、女の子にチョッカイかけるのが住友、割り勘の調整役がクジラという立ち回りだった。
わたしも商店街の子供だったので、町内ぐるみ親戚のようなもので、近所の家にはよく出入りしていた。サラリーマンの家とはちがって皆一様に散らかっておりあまりみぎれいな部屋はなかった。だから、きたない家には慣れていたのだが、富田の家は外見からして並外れていた。
大東亜戦争直後の「ほったて小屋」が、そのまま原形をとどめているという風情だった。友人の父親が何の商売をしているのか興味もない年頃であったが、この家の前に立つとさすがに好奇心を煽られた。学校での噂によると、バタヤではないかという説が最も多く、あとは置き引き、空き巣などと評判が芳しくない。もう一つの説は、暴力団からのやばい仕事の下請けをやっているらしいとの話である。
2
普段は野球などやっているのを見たことのない富田が一緒にやろうというのだ。断る理由もないし、人数は多い方がおもしろいので富田を連れて大塚公園に行くことになった。富田はグローブを持ってなかった。仕方がないので住友が普段使わないファーストミットを貸してやった。住友はいつもバットとベース一式を大きな袋に入れて持ってくる。本当にやる気のあるのは彼だけだった。少年野球チームでレギュラーを取りたいと思っているらしい。
その日のメンバーはわたしと野球少年の住友、どうでもいいクジラ、それに初めて参加する富田の四人だった。一〇人ぐらい集まるときもあるのだがその日は他に声をかけなかったので、仲間だけでの練習となった。住友は相変わらず地域の少年チームのユニホームをきちんと着用してきた。あとのメンバーはほんの遊びのつもりだから、普段の服装に運動靴という出立ちであった。富田は相変わらずつぎあての半ズボンとすり減ったひもなしのズックだった。わたしは四月に買ってもらった、ひもで結ぶタイプの高級品だ。住友のスパイクには負けるが、富田がいると優越感に浸れるので何となくうれしさがこみ上げてくる。
その日は水曜日で学校が早く終わったので、公園のスペースは低学年が数人遊んでいるくらいですいていた。低学年連中を蹴散らしてバックネットがある一番いい場所を占領した。集合するとわたしたちはキャッチボールから始めた。わたしと住友、クジラと富田という組み合わせだ。サウスポーの住友はいきなり強いボールを投げてきた。いつもシュート回転する癖がある。たぶんフォームをカッコつけすぎているせいだと思う。投げたあとのフォロースルーに気を遣いすぎているのだ。
「スミ、シュート回転だぞ」
「いいんだ」
「投げ方に癖があるせいだ」
「コーチがいるから心配すんな」
「受けにくくてしょうがないよ」
「それより、あいつらのこと心配しろよ」そう言ってわたしの後ろをグローブで指した。
クジラと富田のキャッチボールを見て、思わず笑ってしまった。ボールが手につかないのだろう、ぽろぽろ落とすわ、逸らして取りに行くわ、暴投をするわで野球にはとうていなっていないのだ。
「相手を変えよう」
「そうだな」わたしも同意した。
「じゅん、富田を見てやってくれ」
「ああ」
富田は見るからにやる気がなさそうだった。楽しんではいるようだが、うまくなろうとする雰囲気はない。投げ返すボールに力がなかった。それにとんでもなく高いボールを投げて、わたしの体力を消耗させた。受けたボールは二回に一度必ずファーストミットからこぼれた。そろそろ嫌気がさしてきた頃、うしろから住友の声がした。
「バッティングやろうぜ」
「オース!」クジラが訳のわからない歓喜の声を上げた。
「じゅん投げてくれ、オレ打つから」野球についてはすべて住友が仕切る。
「富田がキャッチャー、クジラは外野、行くぞ」それで誰も文句をいうものはいない。
「オース!」また、クジラが叫んだ。
富田のキャッチャーには不安があったが、バックネットがあるので気にしないで投げることにした。最初はコントロールよく構えているミットをねらってまん中に投げてやった。打ちやすい球だったが、住友は見送った。ボールは乾いた音をたてて富田のミットに収まった。富田は自分でも信じられないといった顔でびっくりしたあと勢いよく言った。
「ストライック!」
「やれそうだな、トミ」わたしは、初めて愛称で呼んでみた。
「オース」やっとやる気が起きてきたようだ。
一人一〇球ずつ投げて、バッティングと守備を順番に交代することにした。
次の球を住友がフルスイングするとクジラの頭の上を越えて茂みの中に消えた。クジラが球を探している。やはり四人の野球は疲れる。
次にわたしがバッティングをすることになり、住友の球を打ってフライにし、クジラが捕球したそのとき。
「君たち悪いけど、場所開けてくれないか」
中学生たちだった。一〇~二〇人くらいいる。ほとんどのやつがユニホームを着ている。
「でも、先にやってるし」
「そうだよ、ここは予約なんてないし」
「じゃ、反対側でやってくれよ、オレたち試合をやるんだよ」
「でも」わたしが弱弱しく反論を開始しようとすると富田がでしゃばってきた。
「ふざけんなよ」と富田が怒鳴ったが、無視されていた。
「今いいとこなんだよ、オレたちどかないよ」富田が頑張った。
「ほら、どいた、どいた」そんな言葉は全く気にせず、面倒そうに言い放った。
「やろー」中学生に迫る富田であった。
そうこう言っているうちに、彼らはぞろぞろ入り込んできて、わたしたちを蹴散らし始めた。多勢に無勢、どうしようもなかった。
「おい、向こうでやろう」住友が言い、わたしたちは移動を開始した。しかし、反対側は、バックネットがないので富田が後逸した球を取りに行くだけで大変であろう。続ける気はなく、気持ちも萎えていた。
「もう、やめよう、今日は」わたしはすでに諦めていた。
「そうだな」クジラも同調した。
「もっと役に立つことやろうぜ」富田が言い出した。
富田が都立大塚病院に行こうというのだ。大塚公園にすぐ隣接しており、暗くて陰気だった。病院は床屋と銭湯に続いて大嫌いな場所だったが、大塚病院は苔むした建物の古さと陰気臭さでさらに駄目を押している。どこで聞いてきたのか知らないが、富田によると大塚病院で死体運びのアルバイトを募集していて、アルバイト料は格段に高く、数時間でとてもいい小遣いをもらえるという。
今考えてみれば、小学生にそんな仕事をさせるわけがないし、だいたいわたしたちはバイトをした経験が一度もないのだ。富田が唯一、新聞配達を年齢を偽って一年間やっていたと言うくらいだ。前の年の夏休みにわたしたちはその下請けをやったことがある。面白半分に自宅近くの五〇件分くらいの新聞を富田からもらって配るのだ。そして幾ばくかのお金を分けてもらったことがある。その年の夏休みは朝早く起きることが楽しかった。公園で待っていると富田がやってきて皆に担当分を配る。わたしたち三人に配り始めると見る見るうちに彼の分は少なくなりほんの数十枚を持って薄笑いを浮かべながら来た道を帰っていく。いくらのアルバイト料をもらっているか知らないが、富田が事がうまく運ぶときに時々見せるずる賢い目尻だけの笑顔から察すると相当のピンハネをしているらしい。でもわたしたちは夏休みだけのことだし遊び感覚だったから気にはならなかった。まるで手配師のようでうまいことやっているように見えた。一ヶ月間手伝って三〇〇円くらいの稼ぎではなかったろうか。今年から発売された子供向けの週刊誌「少年マガジン」か「少年サンデー」が一ヶ月間毎週買えるぐらいの金は稼ぐことが出来た。犬のいる家やアパートの二階は手数料を高額にしてくれた。今度の夏休みもまた富田が頼んでくるような気がした。
病院の受付に聞きに行く役目をじゃんけんで決めた。わたしが負けた。
ただでさえ病院の中は迷うのにこんな変なことどこで聞けばいいんだと思った。たまたま近くを通った看護婦を捕まえて尋ねた。「あの、死体運びはどこでやってるんですか」看護婦は一瞬たじろいだあと「地下室じゃないの?」と言い「ハハハ」と笑って病棟の方へ行ってしまった。
もうばかばかしくなってそれ以上聞く気にはなれなくなりわたしは引き返した。
連中には「地下室でやってるらしい」といった。
「だから雇ってくれるのかよ」
「それ聞くの忘れた」
「しょうがないなあ、もう一度行って来いよ」
「冗談じゃない、オレの役目は終わったぜ、場所を聞き出したからな」
「全然役に立ってないんだよ」
「次は富田がいけよ、だいたいおまえが聞いてきた話じゃないか」
さんざんもめたあげく富田が受付に行き話を聞くことになった。長いこと病院の中にいたが神妙な顔をして戻ってきた。
やはりアルバイトを募集しているという話は本当だったというのだ。ただ大人の死体はとても重いので運べない、子供が死んだときお願いすると言われたという。ここのところ死にそうな子供はいないからまた来てくれということになったという。そのときは二人一組で来てほしい。死体を運ぶのと体をアルコール消毒して霊安室に安置する仕事も含んでいるそうだ。
みなあきれ顔で聞いていたが富田の調子のよい口調と「アルコール消毒」と「霊安室」というもっともらしい言葉に乗せられ納得してその日はアルバイトの口をあきらめ帰途についた。「死にそうな子供か」どんな子なのだろうと思いを巡らせたが身近にそんな子供もおらず、わたしの想像力はそこで途切れてしまった。
大塚公園からの帰り道、住友とクジラと別れ二人きりになると富田がわたしに話しかけてきた。
「木村、クジラの腕時計万引きの品物だろ?」
「え?」わたしは不意をつかれて返事に詰まったが、富田はクジラの時計を怪しんでいるものの、発見した宝物のことはまだ知らないようだった。
「何の話?」
「とぼけるなよ」
「知らないよ、クジラに聞いてみたら」わたしは素っ気なく答えた。
「聞いてみたさ」
「ほんとに」
「ああ、まだまだあるって言っていた」
わたしはクジラが富田に宝物のことを話したに違いないと思った。
「何が、あるってんだよ」私は肩をすぼめてとぼけてみた。
「わかっているよ、おまえだっていい万年筆持ってるじゃないか」
「これは、誕生日に買ってもらったんだよ」
「三本もか?」富田は私の顔をのぞき込んだ。
「何でそんなこと知ってるんだよ」
「クジラが言ってたよ、じゅんのやつモンブラン三本持っていて、一本は勉強用、一本は、作家になるため、一本は林久美子にあげるんだって?」
クジラのやつ、口の軽いやつだ。わたしは富田にもう何も話すまいと思った。
「じゅん、オレがさばいてやるよ、現金がほしいんだろ」珍しくわたしのことをじゅんと呼んだ。
「べつに」
「まあ、いいや、いつでも相談にのるからよ、オレにはいいルートがあるんだ」
「富田、おまえそんなにたくさん万引きしているのか?」
「そうじゃないけど、今度いいこと教えてやるよ」
「なんだよ」
「儲けばなしさ」
わたしは富田の言葉が妙に気にかかった。クジラの父親の件といい、宝物のことといい急にわたしたちに近づいてきたのは訳があるはずだ。一度住友に相談して本当の仲間にすべきか考えるべきだと思った。
3
富田が仲間に入って以来わたしたちは万引きが常習になっていた。お菓子屋からチョコレートやキャラメルを盗むのは日常茶飯時だった。富田のジャンパーのポケットには大きな穴があいていた。ポケットに手を突っ込だまま、お菓子の山に手を伸ばしそのままいただいてくるのが彼の得意技だった。わたしたちの万引きの標的はつぎに、本屋に移り、そのあと文房具店、デパートとエスカレートしていった。ほしくない物や必要ない物まで取った。大塚公園で野球をしてからの帰り道、春日通りに面している文房具店の前を通った。店の小ケースの上に青インクと黒インクが交互に整列して階段状に重ねて陳列されていた。クジラが扉が開けはなしの店にふらりと入りピラミッドのてっぺんにあった青インクを1つ拝借してきた。
駆け出して店を出ると
「おい、じゅん! やるよ、作家志望だろ」そういって富田がわたしに手渡そうとした。
「なんのつもりだよ」わたしは青インクの入った箱を受け取った。
「だからそれでいろいろ書けよ」
「おまえ、意味のない万引きはやめろよ」
「気にすんなって」富田にはまるで罪悪感はない。
「それにしてもこんなものいらねえ、返すよ」そういって振り返り富田にインクの箱を放り投げようとしたとき、わたしの目に写ったのは、サンダル履きで目をつり上げてこちらに向かい追いかけて来ている少女の姿だった。
少女はわたしたちと同年代に見えた。色白のあどけない面もちで長い髪をポニーテールにして後ろで束ねていた。多分あの文房具屋の少女で留守番をしてに違いないとわたしは思った。わたしたちに追いつくと、彼女は息を切らせながら甲高い声で言った。
「あんたたち、今、うちの品物取ったでしょう!」その迫力に押されてわたし達は、瞬間凍り付いた。わたしは知らんぷりを決めこんで、いいわけでもしながら青インクを返そうかと思いその子に話しかけようとした。
そのとき、富田が「やばい、逃げろ!」と号令をかけた。その言葉を合図に皆は一斉に駆け出した。わたしも一緒に逃げた、その少女は少し駆け出して追ってきたが、わたしたちが路地に入り込むと姿は見えなくなった。この辺は辻町と言って大通りから入ると大人がやっとすれ違えるような路地がたくさんある。わたしたちは完全にその迷路を把握している。どんな大人に追いかけられてももげ通せる変な自信があった。
文房具店からだいぶ離れた安全な路地まで来ると「やろー、おどかしやがって」クジラがいった。
「やろー、だって? 女だぜ」わたしがちゃかした。
急な階段に富田が腰掛けた。富田の家はもうすぐだった。クジラも腰掛けようとしたが、狭い敷地に無理矢理作っている階段なので這い上がるようにして上に上り、不安定に腰掛けた。クジラの今にも転がり落ちそうな姿勢に吹き出しそうになった。
「でも、すごい迫力だったな」富田が言った。
「ガキのくせに」クジラが粋がって言った。
わたしにはその少女の鋭い怒りの目元が記憶に残り、その日はそのことばかりを考えていた。青インクはわたしの勉強机の奥に見つからないようにしまった。
その後、それにも懲りず、わたしたちは活動地域を広げたあげく、上野のデパートで警備員に捕まった。デパートでの万引きは初めてだった。いつものように、文房具売場で無造作に鉛筆や消しゴムをくすねて階段の方に向かい店を出ようとしたとき、数人の背広姿の大人がわたし達の退出を妨げた。
「はいはい、上の階に行こうね」
「どんどん階段を上がってね」
言われるままに、わたし達はデパートの事務所に連れて行かれた。
「わかってるね、取ったものを全部出しなさい」
「学校はどこ、家はどこ」とテンポよく聞いてきた。
みんなは押し黙ったままだ。
「じゃあ警察に連絡するか」高齢の管理者らしい社員が冷酷に呟いた。
ここまできて、ついにクジラが正直に住所氏名を白状してしまった。
「文京区大塚の鯨岡です。こんなこと今日が初めてです」
「初めてって、捕まったこと、万引きのこと」
「ま、ま、万引きがです」
今回は万引きした品物の金額も少ないし、初めてのようだということで学校への連絡はしないで誓約書だけ書いていけばいいとデパートの警備員は言った。
クジラは外に出ると急に元気がよくなり、「学校に連絡したらあのオヤジ殺してやる」と息巻いていた。わたしはもっと長期展望が開けないようなペシミスティックな気持ちになっていた。
「捕まっちゃったんだよ」わたしは健ちゃんに相談した。
「気にするな、じゅんは平気さ」
「どうして」
「限度を知ってる」健ちゃんは頷きながら言った。
「うん」わたしもそれに合わせ頷いた。
「これからやらなきゃいい、小学生ならかわいいもんだ誰でも許してくれるよ」
「わかった」また健ちゃんがずいぶん大人に見えた。
そのことがあってわたしは今までのすべての遊びは、すべて否定されるべきものだと思った。時々こういう感情はあったが、次の日には心変わりしすべて肯定され同じように過ごしてきたが、今度の場合は何日たってもやりきれない思いは消えなかった。そして、西瓜を盗んで食べたり、他人の家の屋根を踏み抜いたり、神社のリンゴの数をごまかしたことさえ自分に嫌悪感を抱かせる材料になった。
そのことがあって、わたしはまた、文房具屋の少女のことを思い出した。あのとき反省していればとも思った。今度、あの青インクを返してこようと思った。次の日、わたしは青インクを持ちだし春日通りの文房具店に向かった。返すときのせりふを何度も考えた。「すみません、出来心でした」「すみません、もうしません」「友達がやったんです、返しに来ました」どんなせりふも的がはずれていた。
思い切って店に入ると少女は居なかった。わたしは拍子抜けをしてしまうと同時にほっとした。今日の行動を持って半分責任を果たしたように思えたからだ。「返す気持ちはあったんだ、でも本人がいんじゃ」というような逃げだろうか。その日はその文房具店でノートを一冊買い、青インクはそのまま持ち帰った。
時々、学校の帰りに遠回りして大塚公園の前を行きその店を覗いたが、少女がいることは一度もなかった。雨に降られながら公園からの帰り道の日曜日、あの少女が店に入るのが見えた。そう言えば、盗んだときも日曜日だった。休みに手伝いに来ているのだろうか。傘越しだが細い腰、サンダル、ポニーテールに束ねた髪、間違いなかった。わたしは急いで家に帰りインクの箱を取り、文房具屋に向かった。どうするのかはまるで考えていなかった。返して謝ろうと漠然と考えていた。それがあの少女の正義感、勇気、生活感に応える唯一の方法だと思った。なぜそんなことを考えたかと今から思えば、その子の清楚感と対照的な小さく古びたお店の郷愁から来た物だろうか。勢いよく店に入ると、いきなり店番をしているその子とはち合わせをした。
「いらっしゃい」店番には慣れているといった声だった。
わたしは行動計画をはっきりと立てずに彼女と面と向かったことを反省した。狭い店なので彼女の視線の届かない場所は店内にはない。以前から思っていたとおりに顛末を話して許してもらおうとした。そのせりふを考えているうち、他の客が何人か入ってきてしまった。何を思ったのか、持ってきたインキをその子に差しだし。「これください」と言ってしまった。彼女は、何も言わずその青インクの箱を眺めた。しばらくして箱から目を離さずに値段を告げた。お金を渡すと、青インクを丁寧に紙袋にしまった。やっと顔を上げて「ありがとうございました」といって紙袋をわたしに手渡した。瞬間わたしの顔を見たあと、すぐにわたしの後ろに視線が移動し「次のお客さんどうぞ」といって、さも仕事が忙しいとでも言うような素振りを見せた。
店を出ると雨は上がっていた。わたしは無造作に青インクの箱をジャンパーのポケットにしまい込むと傘をステッキ代わりにして道路を突きながら歩き出した。
しばらくすると「ちょっとー、そこの子」という声がした。ふりむくと、またサンダル履きで、ポニーテールを揺らしながらこちらに向かってかけだしてきている。
わたしが立ち止まっていると追いついてきて
「お釣りわすれてるよ」とややあきれたような顔をして、小銭を渡そうとした。
「ああ、ありがとう。お店の方は」
「うん、おばちゃんに」
「ああ」
「あの青インクの箱、雨で濡れてたよね」彼女が言った。
「え?」わたしは目を丸くした。
「じゃあね」彼女はそう言うとまた店の方に駆け出していった。
そのことは仲間には話さなかった。自分ではかなり良い解決方法だったと満足していた。つまり、言い訳が立つと思った。わたしが盗んだ訳じゃない。あとで支払ったが、ちゃんと買った青インクを持っている。そういう理屈だ。
第七章 小競り合い
1
金曜日、学校でクジラの顔を見てわたしは仰天した。右目に青胆を作り唇が何倍にも膨れ上がっている。明らかに誰かに殴られた形相だ。
「おい、どうしたんだよその顔」
クジラの顔は赤チンだらけだった。わたしは顔にけがをしたときは赤チンが嫌で目立たないように母親にせがみオキシフルで消毒しただけにしていた。
「そのお化粧、ふざけてやってるんじゃないんだろうな」住友が半分冗談交じりに言った。
「やられたよ」
「誰に?」
「豊島小学校の奴らだと思う」
「ミチヒロとかテツか?」わたしが訊いた。
「わからない、でも、あの体のでかいやつはいた」
「小川ミチヒロだ」
「何かしゃべったのか?」
「何も。オレ口固いの知ってるだろ」
「知らねえよ。でもよかった。橋で見つけた宝のことは何も話さなかったんだな」
「ああ、でも、しつこくてさ、腕時計のことを聞かれた」
「なんて聞かれたんだ?」
「だから、あの金の腕時計はどうしたんだということだよ。オレは親父のだという一点張りで通したからな」
「時計を見せたのか」
「そのときは、持っていなかったから」
「あー、よかった、見られたらもう終わりだぜ」住友が安堵しながら言った。
「やっぱり、あの品物は奴らのだったんだ」
「これからは注意しろよ、絶対人の前で見せびらかすなよ」住友が言った。
それにしても、彼らが何故クジラを昨日襲ったかは依然謎だった。
「おい、奴ら何でクジラの腕時計のこと知っているんだ」
「このこと知っているのは三人だけだよな」
「あと健ちゃんが」クジラが言った。
「健ちゃんは腕時計のことは知らないはずだ。それに健ちゃんが奴らと通じるわけないじゃないか、元々仲が悪いんだ」
「そうだよ、昔からの喧嘩相手だし」
「おまえこの間、クラスの奴らに腕時計を見せていたろ」
「そうだ、富田か。あいつが通じているかもな」わたしが推理した。
「クジラ、おまえ富田に何かしゃべったか?」
「いいや、ただ」クジラの鼻の頭に汗の玉が着いていた。それを見てわたしはクジラが富田に何かしゃべったのではないかという嫌な予感がした。
「ただ?」
「ただ、もっといろいろな物、持ってるとは言ったけど」
「あぶないな、それ、例えば?」わたしが訊いた。
「じゅんのモンブランはかっこいいって」
「おいおい」
「住友のエロ雑誌のことは、オレ何もいってないからな」クジラは泣きそうなか細い声で住友に向かって言った。
「クジラ、本当のことを言えよ」
「ごめん、腕時計を富田に売りさばくよう頼んだんだ」
「バカヤロ」住友が怒鳴った。
「三人だけの秘密と言うことだったろ」
「そんな約束していないよ」クジラが抵抗した。
「イッセンバシの下で約束したよな、じゅんそうだろ」住友がわたしに同意を求めた。
「そう言えば、そんな気もするけど」わたしの記憶も曖昧だった。
「でも、時計はまだ渡していない。今度富田に会ったら、やっぱり親父の形見だから売らないことにしたっていっとくよ」クジラは神妙に言った。
「そうだな、富田には注意しよう、宝物のことは絶対にしゃべるなよ」
「それで殴ったのは、誰?」
クジラの話によると、囲まれてさんざんこづかれたあと、背の高いヤクザみたいなやつが来て本当のことを言わないとタバコの火を目の玉に入れるっていって脅かした。クジラは恐ろしくて大声で泣き出した。その泣き声で近くの家から主婦が顔を出したので、奴らも慌ててクジラのボディに一発と顔に三発殴って逃げていった。
その話を聞いてわたしは直感的に感じた。クジラは何かを隠している。何かもっとしゃべったかもしれない。鼻の頭にできていた汗の玉はもっと膨らんでいた。
給食が終わったあと、わたしはクジラを鉄棒に誘った。
別に鉄棒をするわけではなくただ二人で話したかったのだ。
「逆上がりはおまえの方がうまかったよな」わたしが切り出した。
「そうだっけか、おまえだってそんなもんできるだろ」
「ああ、でも勢いをつけないとできない。それより、おまえ、なんか奴らに話したんじゃないか?」
「だから、おまえもしつこいな」
「話が遠すぎる。こっち来いよ」隣のやや低い鉄棒につかまっているクジラをそばに呼んだ。
クジラはのろのろと鉄棒づたいに近寄り、しばらくしてから口を開いた。
「やつら、知っているんだ」
「なにを?」
「オレの父親のこと」クジラは容疑者が告白するように言った。
「あの、刑務所にいる?」わたしはそう言いかけて口をつぐんだ。
「なんだ、おまえも知ってたのか」
「いや、富田からこないだ聞いたけれど、オレは信じなかったよ」
「それって本当だよ」クジラはわたしに全く新しい一面を見せた。いつものひょうきんさが消えて淡々と話し始めた。
「傷害事件起こして捕まった。今、別荘暮らしさ」
「別荘って?」
「場所なんか知らない。いい気味だよ。会いにも行かない」
「なんで」
「まあ、いいじゃないか。オレの勝手だし」
「でも、そんなのまずいよ、会いに行ったら? オレなんか親父がいないから、ピンとこないけど」わたしはクジラを元気づける意味で何かを言いたかったのだが、そんな単純な家庭の事情ではないらしかった。
「あいつのことはよくわかんないんだ。変だろ自分の親父のことわかんないなんて。その日その日で全然様子が違うんだ。小さい頃はホントに別人だと思っていたよ。変な父親が二人いるって。優しいときなんかない最低の男だった。一人は酒を飲みながら不機嫌で黙り込んでいる親父、もう一人はもっと不機嫌で暴力を振るって暴れている親父。最初の犠牲者が母ちゃんだよ。理由もなく殴られてその次は兄貴。オレはそんなとき弟を連れてすぐに外に逃げる。帰ってみるとめちゃくちゃになった部屋で母ちゃんと兄ちゃんが泣いている。その繰り返しだよ。別荘に行ってもらってちょうど良かったよ。もう帰ってきて欲しくないけど、来月に出所だってよ。高利貸しを刺したぐらいじゃすぐ出て来ちゃうんだよ。終身刑か死刑にでもなって欲しかった。今、オレの家はみんな恐怖に戦いている。母ちゃんも兄貴も、弟も」クジラは一気にまくし立てた。
「あいつら親父のやったことクラスのみんなにばらすって脅した。だから宝のことは言ったよ」クジラはさらりと白状した。
「どこまで話したんだ」
「まあ、安心しろよ。本当のことは言ってないから」
「どういうことさ?」
「だから、宝をどこかで見つけたヤツがいて、時計はそいつから買ったって」
「また、いいかげんなことを」
「誰から買ったか聞かれただろ」
「ああ、中学生のようだったって言っておいたよ」
「それを奴らが信用したのか?」
「そう思うけど」とクジラは自信なさそうに言った。
住友が帰り支度をして鉄棒のほうに近づいてきた。その日の話はそれまでになってしまった。わたしはクジラの告白をどこまで信じようか迷っていた。ともかく住友には話さず、もう少し様子を見ることにした。
2
その日は三人でクジラの災難について話し合いながら帰った。クジラも怖がっていてみなと一緒に帰りたがったのだ。家が近い順番としては住友、クジラ、少し離れてわたしの家だった。クジラと分かれていつも通る小道に入った。その裏通りには長い石垣があり、そのなかに一つだけ異常に平らですべすべした石がある。おまじない代わりに左手で軽く撫でてから大通りに出るのが習慣となっていた。空蝉橋の欄干の硯石と同じで、わたしは変な習慣をいくつも持っていた。いつもその道を通るときは必ず実行した。毎日続けていると、石をさわらないと何か悪いことが起きるのではないかという迷信がわたしの中にできあがっていた。それが長く続けば続くほど、逆に実行しないことの恐怖感に襲われる。その石にさわろうとしたその瞬間であった。
「おい、そこの兄ちゃん」低くてつぶれたような声で呼び止められた。
「なんですか?」
呼び止めた相手が大人だったようなので、わたしはやや安心して返事をした。ところがその後ろから小川ミチヒロが顔を出した。まずいとわたしは思った。
「木村、ちょっと顔かしてくれ」小川が言った。
「なんで、おまえがこんなところに?」
「いいから、こいよ」
小川と、長谷川、黒縁メガネのチビ、それに最初に声をかけた大人びたやつの四人に囲まれてとても逃げられる状態ではなかった。わたしはすぐ近くにある工事中の空き地に連れて行かれた。工事現場は建設中の囲いで覆われており、外には連絡がとりようもなかった。工事用の囲い塀に押しつけられ、彼らの尋問が始まった。
「よう、最近羽振りがいいようだな」小川がいった。大人びたやつは後ろで、タバコに火をつけていた。たぶん奴らの兄貴分の深沢だと思った。背丈は一七〇センチ以上はあるだろう。中学生のくせに無精髭も生えていて、端から見ると完全に大人の雰囲気が漂っている。大人というよりおっさんだ。制服を脱いでサングラスをかけると完全にヤクザの雰囲気になる。補導歴も何回もあると聞いていた。クジラが言っていたように、タバコの火を目に押し付けるということだろうか。わたしはだんだんと恐ろしさがこみ上げてきた。
「なんの用事だよ」
「おまえ、最近、なんか見つけなかったか」
「どこで」
「とぼけんなよ、イッセンバシでだよ」
「なんのことだか、さっぱりわからない」わたしは知らんぷりを貫こうと思った。
「鯨岡はしゃべったんだよ」
「だからなにを?」
「わからないやつだな、おまえらが盗んだものだよ」
「だから知らないって」
「鯨岡はおまえが知っているっていったぞ。どうなんだよ」
「でたらめだよ、そんなこと」わたしは、奴らがカマをかけていると思った。昨日クジラは殴られても何も吐かなかったと言っていた。この場はクジラの言葉を信じて最後まで頑張ることにした。あまりきつかったらそのとき白状してしまえばいいと思った。しかし、そこは場所がまずかった。周りに家はないし道路からは遠い、大声を上げても誰も助けには来ないだろう。
「鯨岡が何言ったか知らないけれど、オレには何のことかさっぱりわからない」
「じゃあ聞くけど、おまえモンブランの万年筆三本持ってるんだって?」
「え、なんのことさ?」
「だから持っているのか聞いてるんだよ」
「ああ、持っているけど」
「それ、どうしたんだよ、万引きか?」
「どうでもいいじゃないか、オレ約束があるからもう帰る」
そう言いかけたとたん小川がわたしの胸ぐらをつかんだ。
「殴られたいんだな」
「だから知らないって、モンブランは持っているけど自分で買ったんだよ」
「鯨岡は、イッセンバシで拾ったものだって言ったぞ」小川はそう言ったが、わたしを騙すための罠だと思った。。
「正直に言うと、池袋のデパートで買ってもらったんだよ」
「証拠はあるのか?」
「レシートだってあるよ、今度持ってきてやるよ」わたしはその場しのぎの嘘を言った。
「いつ買ったんだ?」
「先月、誕生日プレゼントだよ。オレは万引きなんかしないし、拾ったなんてこともない」小川を思いっきり睨みつけてはっきりと言った。
「もういい、オレにまかせろ」大人びたやつが小川を遮った。タバコはもう吸っていない、わたしはそれを見て少し安心した。せいぜい殴られるくらいなら上等だとも思った。「目にタバコの火」のセリフがいちばん怖かったのだ。「おい、おまえ福井の仲間だよな」意外に甲高い声でそいつが訊いた。
「はい、健ちゃんなら知ってますけど」わたしはどぎまぎして言った。
「こいつ生意気だから、こらしめた方がいいですよ、先輩」小川が先輩と呼んでいた。ということはやっぱり豊島小学校の卒業生の深沢だと思った。そいつと目があった。無精ひげが生えて怖そうだがよく見るとまだ子供の顔だった。サングラスを外すと小さい顔は童顔でよく見るとクリクリしたかわいい目をしていた。小川よりも怖くない、話せばわかるという感じだった。その印象に安心してわたしはため口をきいた。
「大塚中学の人ですか?」
「どうでもいいだろ、おまえなめてんのか」そいつの表情が変わった。わたしはしくじったと思った。
「いや、そういうわけじゃ」そう言いかけたとたん今度はそいつが胸ぐらをつかんだ。
「殴られたいのか」
「ウグッ」わたしは何か話そうとしたが声が出なかった。
「小川、こいつ何か知ってそうだ、一発やってやれ」そう言って小川にわたしの処分を預けた。そしてジャンパーのポケットからマッチを出してタバコに火をつけた。わたしはそれを見て恐怖感がよみがえった。二人がわたしの手をつかみ抵抗できないようにしてから小川のパンチがボディに一発はいった。わたしは「グウ」といってうずくまろうとしたが両手を捕まれているのでそのまま宙ぶらりんになった。
「ほら、知ってることみんな吐けよ」そう言ってもう一発ボデイに食らった。
「ほんとに知らないんですから。お願いしますよ」わたしは敬語を使って許しを請い、早くこの場から解放されるよう祈った。
「懲りてないな、じゃあ今度は顔面に行くぞ」小川が言った。
「ほんとに知らないったら」同じ言葉を繰り返した。ボデイパンチの影響でわたしは気持ち悪くなり食べ物を戻した。
「こいつ、ゲロはいた。きたねー」奴らが少し怯んだ。深沢がタバコを持って近づいて来た。
「これはまずい」とわたしは思った。もう白状するしかないと思った。
「タバコ吸ったことあるか?」そいつが訊いた。
「ありません」わたしは正直に答えた。
「吸わしてやろうか」そう言ってタバコの火をわたしの顔に近づけてきた。
「いいっす」かろうじて聞き取れるような声でわたしは答えた。
「もう一度聞く、モンブランはどうしたんだ? 正直に言わないと、タバコの火を目ん玉にぶち込むからな」やっぱり来たと思った。
「自分のです。買ってもらったんです」
「本当か?」
「はい」
そいつはわたしの目のそばにタバコの火を押しつける仕草をした。わたしは思わず目を堅く閉じた。もう逃げるしかないとそう思った瞬間、わたしは足蹴りを小川に食らわせ怯んだ隙に二人の手をできるだけの力でふりほどいた。深沢と小川に体当たりして突き飛ばし工事場から逃げ出した。奴らは不意をつかれてとまどっていたがすぐ追いかけてきた。大通りまで出れば人がいるだろうし奴らも暴力は振るえない。その先には交番もある。ところが、あわてていたため足がもつれてわたしは前のめりになり道路に倒れ、顎を思いっきりアスファルトに打ち付けた。膝はすりむけ顎からは血が出ているようだった。目の前が暗くなってそのあと眩しくなった。顎を打ったその痛さで涙が出てきた。上半身起きあがろうとして目を見開くと、彼らがわたしの周りを取り巻いている姿が目に入ってきた。
「逃げたバチが当たったぜ」
「オレたちをなめんなよ」小川が思いっきりわたしの足を蹴った。続いて長谷川もわたしを蹴り上げた。
「人が来る。もう、行くぞ」後ろから深沢がやってきて戻るよう指示した。
「おまえ、あんまりのさばるなよ、またやられるぞ」
「今日のことウソだったら、今度は殺されるぞ」
「泣いてやがる、けっ、弱虫」彼らは言いたい放題いい立ち去っていった。
大勢で一人をやるなんて、その方が弱虫じゃないか。でもわたしは何も言わなかったことと、タバコの火を押しつけられることがなかったことで、気分は悪くなかった。何とかこの場は収まったのだろうと思った。しかし膝のスリ傷と、顎を打ったところが痛くてしばらく立ち上がることができなかった。涙を拭いて、よろよろと立ち上がって大通りの方へ歩き出した。顎から血が滴っているのでかっこわるくて仕方がない。顔を背けながら交番の前を通り過ぎ、林久美子の家の前を通りかかると、やはり見つかってしまった。
「どうしたの、その顔」久美ちゃんが、駆けだしてきた。
「開運坂でころんじゃって」わたしは咄嗟にウソをついた。
「えー、消毒してあげるから、うちにあがんなよ」久美ちゃんの笑顔に正直ほっとしてまた涙が出てしまった。わたしは気づかれないように涙を鼻水と一緒に腕で拭った。
3
裏通りから出て大通りに面したところが林久美子の家だった。わたしは断固として家に帰ることを主張した。しかし、わたしは出来の悪い弟のように久美ちゃんに手を引かれて部屋までつれて行かれた。大したけがじゃなかったけれど、念入りな手当をしてくれた。血が出ている顎と膝にオキシフルで消毒してもらった。ころんですりむいた額に救急絆創膏をつけてくれた。久美ちゃんの家に上がったのはおととしの誕生日会に呼ばれて以来のような気がした。去年の誕生日会には五年にもなって女子のお呼ばれで出かけていくなんてとても考えられないようになっていた。断りきれなくて約束をしたまますっぽかしたのだ。久美ちゃんの母親が出てきて紅茶を入れてくれた。けがのことをたいそう心配してくれたが、転んですりむいたといいわけをした。久美ちゃんの母親は全く怪しむこともなく、それより去年の誕生日会に来なかったことばかり話し続けた。
「じゅんちゃん来るかと思ってずっと待ってたのよね」
「それもう一年以上前の話よ、ママ、やめて」
「でも久しぶりだったものだから、以前は木村さんの奥さんと一緒によく出かけたじゃないの、お母さん元気?」
「はあ」どうも久美ちゃんのお母さんは苦手だった。よくしゃべりすぎる。人の言うことを聞かない。こちらから話すタイミングを失ってしまう。
お母さんの長いおしゃべりが終わり部屋から出ていくと、久美ちゃんがレコードプレーヤーを押し入れから出してきた。とてもポータブルでおもちゃみたいなやつだけど、一体型でスピーカーもアンプも内蔵しているらしい。お気に入りのレコード買ったから是非聞いていけというのだ。
「プレーヤーは去年のクリスマスプレゼントで買ってもらって、レコードは自分の小遣いためて買ったのよ」久美ちゃんはお母さんに似てとても早口でテンポよく立て続けに話した。
「レコードは何枚くらい持ってるの」わたしが口を開いたら顎がずきんとして、悲鳴を上げそうになった。そんなことは気に掛けず久美ちゃんは話し続けた。
「毎月ドーナツ盤を一枚ずつ買っているので、もう七月だから七枚ということね」
「すごいね、ぼくなんかラジオで聴いてるだけだもん」
「どんな番組?」
「ユアヒットパレードとか」
「ああ、日曜日の九時半から十時までやってるあれね」
「そうそう、文化放送で」
「JOQRでしょ」
「なにそれ」
「局名みたいなものよ」
「久美ちゃん詳しいね」
「だってうちの、パパ放送局勤務だもの」
「そうだったね、前スタジオにつれていってもらったよね」
「じゅんちゃんのおばさん大喜びしてたね」
「だって、中村メイ子とか宮城まり子に会えたんだもの」
「じゅんちゃんFENはきかないの?」
「なにそれ」
「エイトテン、英語の放送よ」
「ああ、健ちゃんの大好きなやつね、でもオレ、英語わからないから」
「音楽を聞くだけだから言葉は関係ないわよ。わたし、テレビよりラジオが好きだなあ」
「ああ、オレも、うちにまだテレビないから」
「アハハ」と久美ちゃんが肩の力をがくんと落として急に猫背になり軽やかに笑った。
「そう言えば、今度の夏休みうちでもテレビを買うっていってたよ。いつも健ちゃんの家か、親戚の家に行かなきゃならないって、今時かっこ悪いよ、力道山の時代でもあるまいし」
「いまかけるからね」
ジャケットから丁寧にドーナツ盤を出しターンテーブルの上に載せた。そして回転数を45に合わせスイッチを入れた。レコードが回り出すととても注意深くアームを手にとってピックアップをレコードの溝に乗せた。しゃりしゃりという音が聞こえた。
「なんていう曲」と聞くと、久美ちゃんは答えず「まあ聞いてみて」と言った。
流れるようなオーケストラのイントロに続いて若い女性のボーカルが流れた。知らない歌手のハスキーな声だった。わたしの知っていたコニー・フランシスやヘレン・シャピロじゃないことは確かだった。
「歌手は?」
「ジョニー・ソマーズ」
「曲名は?」
「ワンボーイ」
若い女性の歌声はハスキーでも透き通るように響いていた。
「いい曲でしょ、アン・マーグレットも歌っているけどわたしは絶対ジョニー・ソマーズの方がいいと思う」
ジャケットには可憐な金髪の女の子が笑ってこちらを見つめている写真が飾っていた。
「いいスローバラードだね」わたしはわかったような風に言った。
「でしょ」久美ちゃんは満足そうだった。
「久美ちゃん、このレコードの線、何本あるか知ってる?」わたしは得意げに訊いてみた。住友から教わったギャグだった。
「一本でしょ」
「え、知ってるの?」わたしはばつが悪くて仕方がなかった。
「住友君に聞いたよ」
「え、スミここに来たことあるの?」
「まさか、学校での話よ」
話がギクシャクしてきたところでわたしは帰ることにした。
「もうそろそろ行かなくちゃ」
「もう帰るの、じゃあレコード貸してあげるよ」
「いいよ、うちプレーヤーないし」
「いいから、健ちゃんちで聞かせてもらえばいいじゃない」
「そうか、ありがと、今日は助かったよ」
「感謝しているなら、こんど、あんみつか氷イチゴでもおごってよ」
「いいよ、こんどね」わたしは怪我した顎が痛くて、口をあまり開けずにか細い声で言った。
どうして音楽好きのヤツは無理やり自分のレコードを貸したがるんだろう。そして返すときには感想をしつこく聞くに決まっている。熱心に久美ちゃんが勧めるままそのレコードを借りて帰ることにした。
久美ちゃんのことは好きだったが女として意識したことはあまりなかった。小学生の時のわたしは、硬派でもなかったがあまり女の子に頓着せず、今ではうらやましい自然体だった。住友が熱心に集めているヌード写真も興味はあったがどちらかというと毛嫌いしている方だった。性的には早熟ではなかった。どちらかと言えば幼かったのだと思う。そのころからチラホラ性的に気持ちいいと思ったことがいくつかあった。休み時間、教室の廊下側を通って外に出ようとしたのだが、机は隅の方までぎっしりと並べられており、やっと人一人が通れそうな狭い通路となっていた。向こうから関順子が来るので体を横にして歩きすれ違った。そのときお互いに顔を合わせる形ですれ違ったのだが、思ったより通路は狭く関さんとわたしの胸と頬がふれあった。淡い桜色の頬はしっとりしていて衝撃的にとても気持ちよかった。二人とも「え!」という顔をしたが、関さんは大きな口を開けて「あら」と小声で言いそのあとにっこり笑った。
もう一つの体験は家庭科の授業中、机の二つ左隣の住友から裁縫の針を手渡してもらった時のことだ。隣には林久美子が座っていたので彼女の後ろ越しに左手で糸付きの縫い針を受け取った。左手で持つ縫い針は不安定だったので、右手に持ち替えるため「久美、動くなよ危ないから」といいながら右手を彼女の顔の前に回して縫い針を持ち替えたため、彼女を抱きしめるような体勢になった。彼女は思いがけない動きに体を硬直させた。
「なにするのよ」と大声を出しわたしの方を振り向いた。そのとき持っていた針が彼女の首に触れた。
「痛い!」と叫びながらわたしの両手の中でもがいた。まるでわたしが彼女に抱きついたようになり、教室の生徒は「スケベ、痴漢、変態!」とはやし立てた。わたしは顔を赤らめたが思いがけず抱きしめた彼女は柔らかくて暖かくてとても気持ちがよかった。その感覚は今でも鮮明に残っている。
それ以来わたしは久美ちゃんを抱く夢をよく見るようになった。プールで泳ぎながらイルカのように泳ぐ彼女を追いかけたり、広いお風呂で抱きしめたり。でも彼女は朝が近づくとするりとわたしの手の中を抜け出していなくなってしまう。そんなときは必ず夢精をしていた。
久美ちゃんは急激に成長しているように感じた。周囲がすべて大人になっていくように感じた。成長の止まっているのはわたしとクジラぐらいだ。その意味ではクジラはよりどころだった。だからクジラまで大人っぽい行動をとると不安でならなかった。あんなに小さいときから遊んでいて隅から隅まで理解していたと思っていた久美ちゃんも六年生になると変化が現れた。今まで履くことのなかったヒールが三センチのオレンジのサンダル。おでこに出来た小さなニキビ。女の子同士のひそひそ話。乗らなくなった自転車。スラックスからスカートに変わったのは「この夏の暑さのせい」だと言っていたけど少し違うようにも思う。ついつい外れる遠い視線。以前のように話し始めると執拗につかんで離さない視線が消えることが多くなってきていた。


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