第七章 小競り合い
1
金曜日、学校でクジラの顔を見てわたしは仰天した。右目に青胆を作り唇が何倍にも膨れ上がっている。明らかに誰かに殴られた形相だ。
「おい、どうしたんだよその顔」
クジラの顔は赤チンだらけだった。わたしは顔にけがをしたときは赤チンが嫌で目立たないように母親にせがみオキシフルで消毒しただけにしていた。
「そのお化粧、ふざけてやってるんじゃないんだろうな」住友が半分冗談交じりに言った。
「やられたよ」
「誰に?」
「豊島小学校の奴らだと思う」
「ミチヒロとかテツか?」わたしが訊いた。
「わからない、でも、あの体のでかいやつはいた」
「小川ミチヒロだ」
「何かしゃべったのか?」
「何も。オレ口固いの知ってるだろ」
「知らねえよ。でもよかった。橋で見つけた宝のことは何も話さなかったんだな」
「ああ、でも、しつこくてさ、腕時計のことを聞かれた」
「なんて聞かれたんだ?」
「だから、あの金の腕時計はどうしたんだということだよ。オレは親父のだという一点張りで通したからな」
「時計を見せたのか」
「そのときは、持っていなかったから」
「あー、よかった、見られたらもう終わりだぜ」住友が安堵しながら言った。
「やっぱり、あの品物は奴らのだったんだ」
「これからは注意しろよ、絶対人の前で見せびらかすなよ」住友が言った。
それにしても、彼らが何故クジラを昨日襲ったかは依然謎だった。
「おい、奴ら何でクジラの腕時計のこと知っているんだ」
「このこと知っているのは三人だけだよな」
「あと健ちゃんが」クジラが言った。
「健ちゃんは腕時計のことは知らないはずだ。それに健ちゃんが奴らと通じるわけないじゃないか、元々仲が悪いんだ」
「そうだよ、昔からの喧嘩相手だし」
「おまえこの間、クラスの奴らに腕時計を見せていたろ」
「そうだ、富田か。あいつが通じているかもな」わたしが推理した。
「クジラ、おまえ富田に何かしゃべったか?」
「いいや、ただ」クジラの鼻の頭に汗の玉が着いていた。それを見てわたしはクジラが富田に何かしゃべったのではないかという嫌な予感がした。
「ただ?」
「ただ、もっといろいろな物、持ってるとは言ったけど」
「あぶないな、それ、例えば?」わたしが訊いた。
「じゅんのモンブランはかっこいいって」
「おいおい」
「住友のエロ雑誌のことは、オレ何もいってないからな」クジラは泣きそうなか細い声で住友に向かって言った。
「クジラ、本当のことを言えよ」
「ごめん、腕時計を富田に売りさばくよう頼んだんだ」
「バカヤロ」住友が怒鳴った。
「三人だけの秘密と言うことだったろ」
「そんな約束していないよ」クジラが抵抗した。
「イッセンバシの下で約束したよな、じゅんそうだろ」住友がわたしに同意を求めた。
「そう言えば、そんな気もするけど」わたしの記憶も曖昧だった。
「でも、時計はまだ渡していない。今度富田に会ったら、やっぱり親父の形見だから売らないことにしたっていっとくよ」クジラは神妙に言った。
「そうだな、富田には注意しよう、宝物のことは絶対にしゃべるなよ」
「それで殴ったのは、誰?」
クジラの話によると、囲まれてさんざんこづかれたあと、背の高いヤクザみたいなやつが来て本当のことを言わないとタバコの火を目の玉に入れるっていって脅かした。クジラは恐ろしくて大声で泣き出した。その泣き声で近くの家から主婦が顔を出したので、奴らも慌ててクジラのボディに一発と顔に三発殴って逃げていった。
その話を聞いてわたしは直感的に感じた。クジラは何かを隠している。何かもっとしゃべったかもしれない。鼻の頭にできていた汗の玉はもっと膨らんでいた。
給食が終わったあと、わたしはクジラを鉄棒に誘った。
別に鉄棒をするわけではなくただ二人で話したかったのだ。
「逆上がりはおまえの方がうまかったよな」わたしが切り出した。
「そうだっけか、おまえだってそんなもんできるだろ」
「ああ、でも勢いをつけないとできない。それより、おまえ、なんか奴らに話したんじゃないか?」
「だから、おまえもしつこいな」
「話が遠すぎる。こっち来いよ」隣のやや低い鉄棒につかまっているクジラをそばに呼んだ。
クジラはのろのろと鉄棒づたいに近寄り、しばらくしてから口を開いた。
「やつら、知っているんだ」
「なにを?」
「オレの父親のこと」クジラは容疑者が告白するように言った。
「あの、刑務所にいる?」わたしはそう言いかけて口をつぐんだ。
「なんだ、おまえも知ってたのか」
「いや、富田からこないだ聞いたけれど、オレは信じなかったよ」
「それって本当だよ」クジラはわたしに全く新しい一面を見せた。いつものひょうきんさが消えて淡々と話し始めた。
「傷害事件起こして捕まった。今、別荘暮らしさ」
「別荘って?」
「場所なんか知らない。いい気味だよ。会いにも行かない」
「なんで」
「まあ、いいじゃないか。オレの勝手だし」
「でも、そんなのまずいよ、会いに行ったら? オレなんか親父がいないから、ピンとこないけど」わたしはクジラを元気づける意味で何かを言いたかったのだが、そんな単純な家庭の事情ではないらしかった。
「あいつのことはよくわかんないんだ。変だろ自分の親父のことわかんないなんて。その日その日で全然様子が違うんだ。小さい頃はホントに別人だと思っていたよ。変な父親が二人いるって。優しいときなんかない最低の男だった。一人は酒を飲みながら不機嫌で黙り込んでいる親父、もう一人はもっと不機嫌で暴力を振るって暴れている親父。最初の犠牲者が母ちゃんだよ。理由もなく殴られてその次は兄貴。オレはそんなとき弟を連れてすぐに外に逃げる。帰ってみるとめちゃくちゃになった部屋で母ちゃんと兄ちゃんが泣いている。その繰り返しだよ。別荘に行ってもらってちょうど良かったよ。もう帰ってきて欲しくないけど、来月に出所だってよ。高利貸しを刺したぐらいじゃすぐ出て来ちゃうんだよ。終身刑か死刑にでもなって欲しかった。今、オレの家はみんな恐怖に戦いている。母ちゃんも兄貴も、弟も」クジラは一気にまくし立てた。
「あいつら親父のやったことクラスのみんなにばらすって脅した。だから宝のことは言ったよ」クジラはさらりと白状した。
「どこまで話したんだ」
「まあ、安心しろよ。本当のことは言ってないから」
「どういうことさ?」
「だから、宝をどこかで見つけたヤツがいて、時計はそいつから買ったって」
「また、いいかげんなことを」
「誰から買ったか聞かれただろ」
「ああ、中学生のようだったって言っておいたよ」
「それを奴らが信用したのか?」
「そう思うけど」とクジラは自信なさそうに言った。
住友が帰り支度をして鉄棒のほうに近づいてきた。その日の話はそれまでになってしまった。わたしはクジラの告白をどこまで信じようか迷っていた。ともかく住友には話さず、もう少し様子を見ることにした。
2
その日は三人でクジラの災難について話し合いながら帰った。クジラも怖がっていてみなと一緒に帰りたがったのだ。家が近い順番としては住友、クジラ、少し離れてわたしの家だった。クジラと分かれていつも通る小道に入った。その裏通りには長い石垣があり、そのなかに一つだけ異常に平らですべすべした石がある。おまじない代わりに左手で軽く撫でてから大通りに出るのが習慣となっていた。空蝉橋の欄干の硯石と同じで、わたしは変な習慣をいくつも持っていた。いつもその道を通るときは必ず実行した。毎日続けていると、石をさわらないと何か悪いことが起きるのではないかという迷信がわたしの中にできあがっていた。それが長く続けば続くほど、逆に実行しないことの恐怖感に襲われる。その石にさわろうとしたその瞬間であった。
「おい、そこの兄ちゃん」低くてつぶれたような声で呼び止められた。
「なんですか?」
呼び止めた相手が大人だったようなので、わたしはやや安心して返事をした。ところがその後ろから小川ミチヒロが顔を出した。まずいとわたしは思った。
「木村、ちょっと顔かしてくれ」小川が言った。
「なんで、おまえがこんなところに?」
「いいから、こいよ」
小川と、長谷川、黒縁メガネのチビ、それに最初に声をかけた大人びたやつの四人に囲まれてとても逃げられる状態ではなかった。わたしはすぐ近くにある工事中の空き地に連れて行かれた。工事現場は建設中の囲いで覆われており、外には連絡がとりようもなかった。工事用の囲い塀に押しつけられ、彼らの尋問が始まった。
「よう、最近羽振りがいいようだな」小川がいった。大人びたやつは後ろで、タバコに火をつけていた。たぶん奴らの兄貴分の深沢だと思った。背丈は一七〇センチ以上はあるだろう。中学生のくせに無精髭も生えていて、端から見ると完全に大人の雰囲気が漂っている。大人というよりおっさんだ。制服を脱いでサングラスをかけると完全にヤクザの雰囲気になる。補導歴も何回もあると聞いていた。クジラが言っていたように、タバコの火を目に押し付けるということだろうか。わたしはだんだんと恐ろしさがこみ上げてきた。
「なんの用事だよ」
「おまえ、最近、なんか見つけなかったか」
「どこで」
「とぼけんなよ、イッセンバシでだよ」
「なんのことだか、さっぱりわからない」わたしは知らんぷりを貫こうと思った。
「鯨岡はしゃべったんだよ」
「だからなにを?」
「わからないやつだな、おまえらが盗んだものだよ」
「だから知らないって」
「鯨岡はおまえが知っているっていったぞ。どうなんだよ」
「でたらめだよ、そんなこと」わたしは、奴らがカマをかけていると思った。昨日クジラは殴られても何も吐かなかったと言っていた。この場はクジラの言葉を信じて最後まで頑張ることにした。あまりきつかったらそのとき白状してしまえばいいと思った。しかし、そこは場所がまずかった。周りに家はないし道路からは遠い、大声を上げても誰も助けには来ないだろう。
「鯨岡が何言ったか知らないけれど、オレには何のことかさっぱりわからない」
「じゃあ聞くけど、おまえモンブランの万年筆三本持ってるんだって?」
「え、なんのことさ?」
「だから持っているのか聞いてるんだよ」
「ああ、持っているけど」
「それ、どうしたんだよ、万引きか?」
「どうでもいいじゃないか、オレ約束があるからもう帰る」
そう言いかけたとたん小川がわたしの胸ぐらをつかんだ。
「殴られたいんだな」
「だから知らないって、モンブランは持っているけど自分で買ったんだよ」
「鯨岡は、イッセンバシで拾ったものだって言ったぞ」小川はそう言ったが、わたしを騙すための罠だと思った。。
「正直に言うと、池袋のデパートで買ってもらったんだよ」
「証拠はあるのか?」
「レシートだってあるよ、今度持ってきてやるよ」わたしはその場しのぎの嘘を言った。
「いつ買ったんだ?」
「先月、誕生日プレゼントだよ。オレは万引きなんかしないし、拾ったなんてこともない」小川を思いっきり睨みつけてはっきりと言った。
「もういい、オレにまかせろ」大人びたやつが小川を遮った。タバコはもう吸っていない、わたしはそれを見て少し安心した。せいぜい殴られるくらいなら上等だとも思った。「目にタバコの火」のセリフがいちばん怖かったのだ。「おい、おまえ福井の仲間だよな」意外に甲高い声でそいつが訊いた。
「はい、健ちゃんなら知ってますけど」わたしはどぎまぎして言った。
「こいつ生意気だから、こらしめた方がいいですよ、先輩」小川が先輩と呼んでいた。ということはやっぱり豊島小学校の卒業生の深沢だと思った。そいつと目があった。無精ひげが生えて怖そうだがよく見るとまだ子供の顔だった。サングラスを外すと小さい顔は童顔でよく見るとクリクリしたかわいい目をしていた。小川よりも怖くない、話せばわかるという感じだった。その印象に安心してわたしはため口をきいた。
「大塚中学の人ですか?」
「どうでもいいだろ、おまえなめてんのか」そいつの表情が変わった。わたしはしくじったと思った。
「いや、そういうわけじゃ」そう言いかけたとたん今度はそいつが胸ぐらをつかんだ。
「殴られたいのか」
「ウグッ」わたしは何か話そうとしたが声が出なかった。
「小川、こいつ何か知ってそうだ、一発やってやれ」そう言って小川にわたしの処分を預けた。そしてジャンパーのポケットからマッチを出してタバコに火をつけた。わたしはそれを見て恐怖感がよみがえった。二人がわたしの手をつかみ抵抗できないようにしてから小川のパンチがボディに一発はいった。わたしは「グウ」といってうずくまろうとしたが両手を捕まれているのでそのまま宙ぶらりんになった。
「ほら、知ってることみんな吐けよ」そう言ってもう一発ボデイに食らった。
「ほんとに知らないんですから。お願いしますよ」わたしは敬語を使って許しを請い、早くこの場から解放されるよう祈った。
「懲りてないな、じゃあ今度は顔面に行くぞ」小川が言った。
「ほんとに知らないったら」同じ言葉を繰り返した。ボデイパンチの影響でわたしは気持ち悪くなり食べ物を戻した。
「こいつ、ゲロはいた。きたねー」奴らが少し怯んだ。深沢がタバコを持って近づいて来た。
「これはまずい」とわたしは思った。もう白状するしかないと思った。
「タバコ吸ったことあるか?」そいつが訊いた。
「ありません」わたしは正直に答えた。
「吸わしてやろうか」そう言ってタバコの火をわたしの顔に近づけてきた。
「いいっす」かろうじて聞き取れるような声でわたしは答えた。
「もう一度聞く、モンブランはどうしたんだ? 正直に言わないと、タバコの火を目ん玉にぶち込むからな」やっぱり来たと思った。
「自分のです。買ってもらったんです」
「本当か?」
「はい」
そいつはわたしの目のそばにタバコの火を押しつける仕草をした。わたしは思わず目を堅く閉じた。もう逃げるしかないとそう思った瞬間、わたしは足蹴りを小川に食らわせ怯んだ隙に二人の手をできるだけの力でふりほどいた。深沢と小川に体当たりして突き飛ばし工事場から逃げ出した。奴らは不意をつかれてとまどっていたがすぐ追いかけてきた。大通りまで出れば人がいるだろうし奴らも暴力は振るえない。その先には交番もある。ところが、あわてていたため足がもつれてわたしは前のめりになり道路に倒れ、顎を思いっきりアスファルトに打ち付けた。膝はすりむけ顎からは血が出ているようだった。目の前が暗くなってそのあと眩しくなった。顎を打ったその痛さで涙が出てきた。上半身起きあがろうとして目を見開くと、彼らがわたしの周りを取り巻いている姿が目に入ってきた。
「逃げたバチが当たったぜ」
「オレたちをなめんなよ」小川が思いっきりわたしの足を蹴った。続いて長谷川もわたしを蹴り上げた。
「人が来る。もう、行くぞ」後ろから深沢がやってきて戻るよう指示した。
「おまえ、あんまりのさばるなよ、またやられるぞ」
「今日のことウソだったら、今度は殺されるぞ」
「泣いてやがる、けっ、弱虫」彼らは言いたい放題いい立ち去っていった。
大勢で一人をやるなんて、その方が弱虫じゃないか。でもわたしは何も言わなかったことと、タバコの火を押しつけられることがなかったことで、気分は悪くなかった。何とかこの場は収まったのだろうと思った。しかし膝のスリ傷と、顎を打ったところが痛くてしばらく立ち上がることができなかった。涙を拭いて、よろよろと立ち上がって大通りの方へ歩き出した。顎から血が滴っているのでかっこわるくて仕方がない。顔を背けながら交番の前を通り過ぎ、林久美子の家の前を通りかかると、やはり見つかってしまった。
「どうしたの、その顔」久美ちゃんが、駆けだしてきた。
「開運坂でころんじゃって」わたしは咄嗟にウソをついた。
「えー、消毒してあげるから、うちにあがんなよ」久美ちゃんの笑顔に正直ほっとしてまた涙が出てしまった。わたしは気づかれないように涙を鼻水と一緒に腕で拭った。
3
裏通りから出て大通りに面したところが林久美子の家だった。わたしは断固として家に帰ることを主張した。しかし、わたしは出来の悪い弟のように久美ちゃんに手を引かれて部屋までつれて行かれた。大したけがじゃなかったけれど、念入りな手当をしてくれた。血が出ている顎と膝にオキシフルで消毒してもらった。ころんですりむいた額に救急絆創膏をつけてくれた。久美ちゃんの家に上がったのはおととしの誕生日会に呼ばれて以来のような気がした。去年の誕生日会には五年にもなって女子のお呼ばれで出かけていくなんてとても考えられないようになっていた。断りきれなくて約束をしたまますっぽかしたのだ。久美ちゃんの母親が出てきて紅茶を入れてくれた。けがのことをたいそう心配してくれたが、転んですりむいたといいわけをした。久美ちゃんの母親は全く怪しむこともなく、それより去年の誕生日会に来なかったことばかり話し続けた。
「じゅんちゃん来るかと思ってずっと待ってたのよね」
「それもう一年以上前の話よ、ママ、やめて」
「でも久しぶりだったものだから、以前は木村さんの奥さんと一緒によく出かけたじゃないの、お母さん元気?」
「はあ」どうも久美ちゃんのお母さんは苦手だった。よくしゃべりすぎる。人の言うことを聞かない。こちらから話すタイミングを失ってしまう。
お母さんの長いおしゃべりが終わり部屋から出ていくと、久美ちゃんがレコードプレーヤーを押し入れから出してきた。とてもポータブルでおもちゃみたいなやつだけど、一体型でスピーカーもアンプも内蔵しているらしい。お気に入りのレコード買ったから是非聞いていけというのだ。
「プレーヤーは去年のクリスマスプレゼントで買ってもらって、レコードは自分の小遣いためて買ったのよ」久美ちゃんはお母さんに似てとても早口でテンポよく立て続けに話した。
「レコードは何枚くらい持ってるの」わたしが口を開いたら顎がずきんとして、悲鳴を上げそうになった。そんなことは気に掛けず久美ちゃんは話し続けた。
「毎月ドーナツ盤を一枚ずつ買っているので、もう七月だから七枚ということね」
「すごいね、ぼくなんかラジオで聴いてるだけだもん」
「どんな番組?」
「ユアヒットパレードとか」
「ああ、日曜日の九時半から十時までやってるあれね」
「そうそう、文化放送で」
「JOQRでしょ」
「なにそれ」
「局名みたいなものよ」
「久美ちゃん詳しいね」
「だってうちの、パパ放送局勤務だもの」
「そうだったね、前スタジオにつれていってもらったよね」
「じゅんちゃんのおばさん大喜びしてたね」
「だって、中村メイ子とか宮城まり子に会えたんだもの」
「じゅんちゃんFENはきかないの?」
「なにそれ」
「エイトテン、英語の放送よ」
「ああ、健ちゃんの大好きなやつね、でもオレ、英語わからないから」
「音楽を聞くだけだから言葉は関係ないわよ。わたし、テレビよりラジオが好きだなあ」
「ああ、オレも、うちにまだテレビないから」
「アハハ」と久美ちゃんが肩の力をがくんと落として急に猫背になり軽やかに笑った。
「そう言えば、今度の夏休みうちでもテレビを買うっていってたよ。いつも健ちゃんの家か、親戚の家に行かなきゃならないって、今時かっこ悪いよ、力道山の時代でもあるまいし」
「いまかけるからね」
ジャケットから丁寧にドーナツ盤を出しターンテーブルの上に載せた。そして回転数を45に合わせスイッチを入れた。レコードが回り出すととても注意深くアームを手にとってピックアップをレコードの溝に乗せた。しゃりしゃりという音が聞こえた。
「なんていう曲」と聞くと、久美ちゃんは答えず「まあ聞いてみて」と言った。
流れるようなオーケストラのイントロに続いて若い女性のボーカルが流れた。知らない歌手のハスキーな声だった。わたしの知っていたコニー・フランシスやヘレン・シャピロじゃないことは確かだった。
「歌手は?」
「ジョニー・ソマーズ」
「曲名は?」
「ワンボーイ」
若い女性の歌声はハスキーでも透き通るように響いていた。
「いい曲でしょ、アン・マーグレットも歌っているけどわたしは絶対ジョニー・ソマーズの方がいいと思う」
ジャケットには可憐な金髪の女の子が笑ってこちらを見つめている写真が飾っていた。
「いいスローバラードだね」わたしはわかったような風に言った。
「でしょ」久美ちゃんは満足そうだった。
「久美ちゃん、このレコードの線、何本あるか知ってる?」わたしは得意げに訊いてみた。住友から教わったギャグだった。
「一本でしょ」
「え、知ってるの?」わたしはばつが悪くて仕方がなかった。
「住友君に聞いたよ」
「え、スミここに来たことあるの?」
「まさか、学校での話よ」
話がギクシャクしてきたところでわたしは帰ることにした。
「もうそろそろ行かなくちゃ」
「もう帰るの、じゃあレコード貸してあげるよ」
「いいよ、うちプレーヤーないし」
「いいから、健ちゃんちで聞かせてもらえばいいじゃない」
「そうか、ありがと、今日は助かったよ」
「感謝しているなら、こんど、あんみつか氷イチゴでもおごってよ」
「いいよ、こんどね」わたしは怪我した顎が痛くて、口をあまり開けずにか細い声で言った。
どうして音楽好きのヤツは無理やり自分のレコードを貸したがるんだろう。そして返すときには感想をしつこく聞くに決まっている。熱心に久美ちゃんが勧めるままそのレコードを借りて帰ることにした。
久美ちゃんのことは好きだったが女として意識したことはあまりなかった。小学生の時のわたしは、硬派でもなかったがあまり女の子に頓着せず、今ではうらやましい自然体だった。住友が熱心に集めているヌード写真も興味はあったがどちらかというと毛嫌いしている方だった。性的には早熟ではなかった。どちらかと言えば幼かったのだと思う。そのころからチラホラ性的に気持ちいいと思ったことがいくつかあった。休み時間、教室の廊下側を通って外に出ようとしたのだが、机は隅の方までぎっしりと並べられており、やっと人一人が通れそうな狭い通路となっていた。向こうから関順子が来るので体を横にして歩きすれ違った。そのときお互いに顔を合わせる形ですれ違ったのだが、思ったより通路は狭く関さんとわたしの胸と頬がふれあった。淡い桜色の頬はしっとりしていて衝撃的にとても気持ちよかった。二人とも「え!」という顔をしたが、関さんは大きな口を開けて「あら」と小声で言いそのあとにっこり笑った。
もう一つの体験は家庭科の授業中、机の二つ左隣の住友から裁縫の針を手渡してもらった時のことだ。隣には林久美子が座っていたので彼女の後ろ越しに左手で糸付きの縫い針を受け取った。左手で持つ縫い針は不安定だったので、右手に持ち替えるため「久美、動くなよ危ないから」といいながら右手を彼女の顔の前に回して縫い針を持ち替えたため、彼女を抱きしめるような体勢になった。彼女は思いがけない動きに体を硬直させた。
「なにするのよ」と大声を出しわたしの方を振り向いた。そのとき持っていた針が彼女の首に触れた。
「痛い!」と叫びながらわたしの両手の中でもがいた。まるでわたしが彼女に抱きついたようになり、教室の生徒は「スケベ、痴漢、変態!」とはやし立てた。わたしは顔を赤らめたが思いがけず抱きしめた彼女は柔らかくて暖かくてとても気持ちがよかった。その感覚は今でも鮮明に残っている。
それ以来わたしは久美ちゃんを抱く夢をよく見るようになった。プールで泳ぎながらイルカのように泳ぐ彼女を追いかけたり、広いお風呂で抱きしめたり。でも彼女は朝が近づくとするりとわたしの手の中を抜け出していなくなってしまう。そんなときは必ず夢精をしていた。
久美ちゃんは急激に成長しているように感じた。周囲がすべて大人になっていくように感じた。成長の止まっているのはわたしとクジラぐらいだ。その意味ではクジラはよりどころだった。だからクジラまで大人っぽい行動をとると不安でならなかった。あんなに小さいときから遊んでいて隅から隅まで理解していたと思っていた久美ちゃんも六年生になると変化が現れた。今まで履くことのなかったヒールが三センチのオレンジのサンダル。おでこに出来た小さなニキビ。女の子同士のひそひそ話。乗らなくなった自転車。スラックスからスカートに変わったのは「この夏の暑さのせい」だと言っていたけど少し違うようにも思う。ついつい外れる遠い視線。以前のように話し始めると執拗につかんで離さない視線が消えることが多くなってきていた。

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