第一章 プラットホームの男
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電車に終点があると気がついたのはいつのことだっただろう。小学校も高学年になってからだったかも知れない。そして電車には行き先が明示されていることがあると気づいたのは、さらにそのもっと後になってからだった。山手線には終わりがないし、行き先も表示されていない。もっとも終電や車庫に入る電車に「池袋」とか「新宿」とか目的地が示されていることがあるがめったに巡り合うことはない。ハナからどこ行きに乗るという感覚がないのだ。世界の電車はみな、ぐるぐる回りながら走っていると思っていた。遊園地の電車だってすべて回っている。始まりと終わりがあるそんな不便な電車なんて考えたくもなかった。
生家からの最寄り駅だった大塚駅は山手線と貨物の線路のみで、乗り換えもなくホームが一つあるだけだ。急行もないし快速もない。方向でさえ間違えても、最大二八の駅を通過するのを頓着しないおおらかさを持ち合わせていれば、一周して必ず希望する駅に着く信頼の置ける電車だ。だから電車は、来たら乗るものだと思っていた。わたしの鷹揚な性格は少年期に過ごしたこの都市環境の影響を存分に被っている。山手線の陸橋から大塚駅のホームを見下ろしながらそう考えた。
小学校時代の同級生の通夜に出席するため、わたしは単身赴任先の信州から上京した。長野から新幹線で東京まで約一時間半。山手線に乗り換え大塚駅で下車した。今朝は、長野市内から北アルプスの山頂がくっきりと見渡せる晴天で、しかも久しぶりの休日だった。すぐに思い立って戸隠のスキー場に出かけてひと滑りしたあと、最近掘り当てたという麓の温泉に浸かった。人心地ついて蕎麦屋に入り昼食の大ざるに手をつけようとした。そのとき携帯電話に彼女の訃報が届いた。
通夜会場に向かう途中、駅のホームが眼下に見える陸橋を渡った。子供の頃、崖滑りで遊んだ橋から線路に至る土の斜面はコンクリート壁で整備されていた。そして広い空き地だった崖下はホテルと駐車場に変わっていた。当時わたしにとって、この橋は最高のお気に入りの場所であった。小学校からの帰り、わざわざ遠回りして寄り道した。橋の上から、行き来する山手線の電車、時折通る大縦列の貨物列車、せかせかと乗り降りする乗客、忙しく動き回る駅員、線路の側溝でザリガニ取りをする子供たち、そんな光景を見ているのが好きだった。ランドセルを背負ったまま、何時間も眺めていた。一日いても飽きなかった。ぼんやり考え事をしていても、誰もとがめる者はいない。親に叱られて家出をしようと決意したときも橋の上に来た。このまま電車に乗って東北地方にでも行ってしまおうと考えていた。しかし、山手線に乗っても一周回ったら元の駅に戻ってしまう。そう考えて家に引き返した。
石が重ねて作られている欄干に一つ出来損ないのように黒く変色した硯のような小さな石壁があった。自分だけが知っている秘密だと思っていた。橋に行くたびに「また来たぞ!」と軽くその石に触るのが習慣になっていた。石の積んである数も数えて覚えていた。死んだ小動物は橋の下に埋葬した。橋梁の高さを知っていた。長さは知らなかったが測ってみようと思っていた。橋から最短でザリガニの住む側溝まで降りるルートも知っていた。駅員に見つからないように線路に進入する方法も熟知していた。子供たちはみな「イッセンバシ」と呼んでいたが本当は「空蝉橋」だと言うことを知っていた。橋の隅に生えている雑草の本数も記憶していた。ほかのことには頓着しなかったが橋については誰よりも知っていると思っていた。
橋で遊んでいた頃、人生の長さは果てしなかった。終焉が近づいてくる時期があることなどは考えも及ばなかった。そんなことは自分とは関係ないどこかの老人たちが抱える社会問題のようにも思えた。しかし、似たようなことは薄々感じることはあった。たとえば、小学校の夏休みも始まる前は果てしなかった。強い日差しの中、自由で勉強から逃れられる甘い生活が永遠に続くように思えた。休みの期間中は外遊びに悪戯、プールにアイスキャンデー、肝試しに線香花火、そして快い流行音楽に浸りきりだった。それがすべてと思っていた。終わりがあると気づくのは八月の最後の週になってからだ。それまでの怠惰を呪い宿題を整理し始め、終わりの不安に震える。会えなかった友人を懐かしみ、先輩が頼もしく見え、宿題の面倒を見てくれた親戚のおじさんが尊敬の対象になった。誰でもいいから混沌の解決と終焉の不安を癒してくれる対象を訪ねたくなる。会いたくなる。
今、中年を過ぎて自分の生活も宿題の仕上げにかかる八月後半の週に近づいたことを感じる。そして何も手を付けていない宿題の完遂は、誰も助けてくれないことに気がついてさらに動揺する。バラバラに散らかっている宿題の材料を集めなければ。そして早く仕上げなければいけない。でもわたしの頭の中ではたくさんの材料がいつまでもぐるぐる回っており、まとまりがなく止めどがない。そろそろ行き先のある電車に乗らなければ間に合わなくなる。もう残された時間は少ないのかも知れない。親しかった同級生の訃報はそれをいっそう現実的にさせた。
2
日が暮れて少し冷え込んだが、分厚いコートの襟を立てれば十分に暖かかった。通夜の始まる時間はとうに過ぎているが、タバコに火をつけもう一台電車が着くのを見てから会場に向かうことにした。橋の上からプラットホームの突端まで五〇メートルほどあるだろうか。蛍光灯の光を浴びて暗闇から浮き出ているホームの形は陸揚げされた細長い白鯨のようにも見えた。川底に敷かれたような線路上にカチャカチャと軽快な音を立て外回りの山手線が入ってきた。橋上から眺める電車は豆電球のようなライトで正面を照らし、空気を泡のように蹴散らせながらせっかちに走ってきて、期待どおり駅を素通りせずホームに停車した。
ドアが開きパラパラと乗客が降りてくるのが見えた。出口の階段は中央付近にあるので最後尾の車両から降りる乗客は少ない。中年のサラリーマン、子ども連れの母親、お勤めに向かう女たち、学生服の一団。自分も通学や通勤にあんな姿で通っていた時期もあったのだろうか。少し遅れて学生たちの後ろから白いジャンパーを着た男が降りてきた。低い身の丈に大きめのジャンパーが不釣り合いだ。それにぶかぶかのジーンズを引きずっている。短い首には黒い毛糸のように見える長いマフラーをだらりと垂らし、落花生型の頭には巨人軍の野球帽をあみだにかぶっていた。少年のようにも見えるし中年のようにも見える。蛍光灯の明かりに映えて白く光るスタジアムジャンパーは尻の部分まで覆っていてやや滑稽だったが、スポットライトを浴びたように目立っていた。
男はそのまま出口方向に向かいかけ、突然足を止めた。一瞬、何かを考え込んでいる様子で頭を二、三度左右に振り天を仰いだ。その後、車内に置き忘れた荷物でも探すようなそぶりで振り返った。そしてゆっくりと顔を上げた。男は少年ではなかった。ずいぶん年を重ねているように見える。自分と同じぐらいの年齢だろうか。こちらの方を見て何かを探している様子だった。しばらくすると遠方をまさぐる動作が消え、体ごとこちらに向き直った。
その瞬間、わたしは凍り付いた。わたしと男の視線が合致したように思えたのだ。それっきり男はまるで白い氷細工の人形のように身じろぎもしなかった。わたしは何が起こったのかわからなかった。こんなに離れているのにやはり男はわたしを見ている。遠いホームから橋上のわたしを認識して見つめている姿は明らかに異常だった。その男はわたしを見たまま静止している。全く動かない。
「いったいどうなってんだ」わたしは信じられない展開にとまどった。待ち合わせの他人を捜しているのか、と思い辺りを見回したが橋の上にいるのはわたしだけだった。視線をホームに戻しても相変わらず男はわたしを見据えていた。
しばらく男の顔を凝視していると、わたしの脳裏にかすかな記憶がよみがえってきた。
「そうだ、クジラ・・・鯨岡だ」男の顔には見覚えがあった。遠くて顔の輪郭しかつぶさにわからなかったが、野球帽にジャンパー、落花生の頭にしゃくり上げた顎、全体の雰囲気が旧友を連想させた。
「なんで、ここにクジラが?」
鯨岡は小学生時代の同級生で遊び仲間だった。
「そうか、あいつも通夜にきたのか?」
「いや、あり得ないことだ」
そう考えているうちに男の姿はホームから消えていた。それは一瞬のことだった。わたしは男を捜そうとして咄嗟に橋から駅までの坂道をかけ下った。しばらく走ると駅の南口の改札に着いた。自動改札口に人気はなかった。男を待つうちに北口もあることに気がついた。入場券を買い構内に入り反対の出口に向かったが、そこにも男の姿はなかった。期待よりも焦りの気持ちが大きかった。半分あきらめながら階段を上りさっきまで男がいたであろうホームに向かった。池袋方面の先端まではかなり距離があった。後ろから低いうなり音をたてて巣鴨からの内回り電車がわたしを追い抜いて到着した。
相変わらずまばらな乗客だったが、わたしはその人の流れに逆らってホームの端まで進み、そこから橋を見上げた。橋上には細長い電柱が数本立っており、切れかかったような蛍光灯が鈍い光を放っていた。そしてわたしはその薄明かりの中にぼんやりした影を認めた瞬間、また息をのんだ。白いジャンパーに黒いマフラーの男が今までわたしが立っていた橋の上におり、プラットホームのわたしを怯みもせず見つめていた。
「なんてこった。すれ違いなんて。メロドラマじゃあるまいし」自分でもつまらないと思いながら、新人のシナリオライターが書くような台詞で独りごとを言った。目を細めもう一度、影がさっきの男かどうかを確認した。間違いなかった。
「おーい」わたしは橋に向かって声を張り上げた。電車を待っている数人の乗客がわたしの方を振り返って見る視線を感じた。
「おまえ、クジラか」と叫ぶが、冷たく静まり返っている線路と砂利と暗闇に声が吸い込まれていく。
「そっちに行くから、待ってろよ、そこを動くなよ」周囲を気にせずありったけの大声で呼びかけた。何の反応もなかったが、元いた場所に引き返すべく駆け足で出口に向かった。それにしてもずいぶん橋までは遠回りだ、反対側の降り口まで行って改札を出て長い坂を上る。それよりもホームから飛び降り線路を横切って駐車場を抜け、坂を登れば数分で戻れる。小学生時代のこの周辺で遊んだ記憶を思い出すと、改札まで戻るのがずいぶん面倒な気分になった。今更そんな大人げないこともできず、正規ルートで橋の上まで戻った。
坂道の往復はわたしの体力を消耗させ、息切れも激しかった。周囲を見渡したが、そこには白いジャンパーの男の姿はなかった。プラットホーム上にも男の影はない。通過する自動車のヘッドライトに照らされ瞬間的に明るくなる橋の反対側にも男の姿は見えなかった。暗く沈みきった橋の上にはわたししかいない。平静を取り戻すため、タバコを一本取り出し欄干に寄りかかろうと歩きかけると何かが足に絡まった。誰かに足を捕まれ引っ張られるような感覚だ。ぎくりとして足元を見ると長いマフラーが巻き付きわたしの歩行を妨げていた。黒い毛糸のマフラーだった。
「やっぱりあいつ、ここにいたんだ」わたしはまだ火を付けていないタバコを放り出した。マフラーを拾い上げその感触を確かめた。柔らかくて弾力があったが冷たかった。マフラーをまるめてコートのポケットに押し込みながらもう一度プラットホームを見下ろした。そこには男の姿も他の乗客の人影も見えなかった。
「先に通夜に向かった?」
「そんなことはあり得ない」
「あれは誰だったんだ。人違いだろうか」
わたしは自問自答しながら、以前クジラとこの場所で待ち合わせしたことを思い出した。そして小学校六年生の夏に起きた一連の出来事についてゆっくりと記憶をたどった。


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